03_57D 蜘蛛の巣 エマ・デイヴィス
『巣』を去る間際、エマ・デイヴィスは警告を受けた。自警団の年老いた渡り人がしゃがみ込み、暫く身の回りに気を付けるように耳元で囁いた。無言で、エマは頷き返した。名を勝手に使われただけだが、大金を失ったうちには理屈だけでは収まらぬ者がいても不思議はない。
年に千クレジットを貯められるものであれば、五百クレジットを失っても我慢は効くだろう。年に百クレジットを命がけで貯めてきたものが五百クレジットを失えば、それは狂うのだ。命を懸けて金を稼ぎだす者どもは、奪われた金に対しても命での応報を求める。賞金稼ぎや傭兵の金に手を出してはならぬ理由だった。それは貧しい放浪者でも同じだろう。
街に―――居留地の地区へと逃げ込むことも考えたが、人込みに紛れて安全を確保できるのは、相手に理性のブレーキが利いている状況のみだ。衆人環視の中、最初の不意打ちで殺されたとしたら、相手が逮捕されようが処されようが、何の慰めにもならない。だから、帰宅したその夜は寝ないで警戒した。
町外れの丘陵は、文明崩壊前の名残を僅かに残している。殆んどの建物は風化作用に崩れ去っていたが、ほんの一握りの廃屋だけは時の流れに耐え抜いて往時の形を保っている。それでも、かつて人々が暮らしを営んでいた壁は大きくひび割れ、外からの風が吹き抜けている。鉄の骨組みは錆び、屋根の一部はすでに落ち、瓦礫と化していた。窓はとうの昔に割れ、破片は足元の埃と混じり合っている。
エマは闇に紛れるように、廃屋の影に溶け込むよう壁越しに外の気配を探っていた。反対方向の古い床板は軋み、足音を殺すのに苦労するが、逆に言えば誰かが踏み込めば一発で分かる。廊下の奥の部屋には、使えそうな家具を寄せ集めて作った簡易のバリケードを設けていたが実態、甚だ心細いガラクタの寄せ集めに過ぎない。
夜の帳が降りる。古い廃墟も不毛の地も闇がすべてを覆い隠してくれる。僅かな月明かりが、壊れた窓枠から斜めに射し込み、埃がゆっくりと舞っていた。
来るだろうか。来ないなら、それに越したことはない。弱く、貧しい人間同士で殺し合うのは避けたかった。でも、帰り際に感じた刺すような視線は、どうしてもエマの想像力を嫌な方向に刺激してしまう。喜んで人を殺したことは一度もなかった。祈るような気持ちで、来ないことを願っている。ポレシャは大きな居留地だ。例え、一度は、財産を失っても、金を稼ぐ好機は、いずれまた巡ってくる。だけど、余りに絶望した人間。これまでの人生で散々、痛めつけられて、倦んでしまった人間は、もうそれだけの忍耐を持てないのかも知れない。
エマは気配を消している。隠形に自信はあるが闇の中、足音一つ立てないで歩ける者たちがいるのも知っていた。恐い。愚にもつかぬことをつらつらと考えている間に、背に忍び寄られて首筋をかき切られる想像に脅えるが、うずくまる闇に溶け込むように動かなかった。喉が渇いたので水筒から水をほんの一口だけ飲んで、喉を潤した。奥の部屋に入れた動物たちは大人しくしているだろうか。万が一、エマが殺されても、多分、手は出されない。誰か見に来て世話はしてくれるだろう。
物音ひとつ立てないよう、じっと身を潜めていた。袖口からすぐに抜けるよう手首にナイフを忍ばせ、傍らには愛用のカンマーラーダー・ライフルを立てかけている。(こんな時は、拳銃が欲しくなる)微かに心細さを感じたエマは、ライフルを触れて気持ちを落ち着かせる。北欧生まれのカンマーラーダーはいいライフルだ。後装式ライフルの常として高い精度を誇っているし、リー・エンフィールドには及ばないが、かなり高い耐久性も誇っている。部品の精密さからやや手入れが面倒だし、紙薬莢なので高湿度では誤動作を起こしやすいが、複雑な機構の割に頑丈でもある。エマのそれは中期から後期型のパーカッション形式で紙薬莢を装填し、雷管を装着するだけで発砲出来る。装填時間は、五、六秒に一発。エマの腕なら盗賊や略奪者とも十分に渡り合える。
対して拳銃は所詮、サブウェポンにしかならない。例え、紙薬莢弾でもライフルの方が遥かに強力で精度が高いため、羊飼いたちが多く遭遇する怪物との戦闘や遠距離射撃においては、拳銃を所持する意味は薄かった。勿論、在るに越したことはないが、万が一、接近されてもライフルなら銃剣や銃床で槍やこん棒のように戦うことが出来る。手持ちの資金が乏しいのなら、二種類の弾薬を買うよりは、ライフル一択の方がリソースを活用できるのだ。しかし、狭い屋内で迎え撃つと限っては、取り回しの難しいライフルは余りよい選択とは言えなかった。リボルバーとまでは言わない。ペッパーボックスピストルでもあれば、きっと心細さは薄れただろう。
遠く、風が吹く音に混じって、かすかな足音がした。エマは息を潜め、音のする方へと耳を澄ませる。誰かが、確実にこちらへ向かってきている。破裂音を孕んだ、怒り狂った短い叫び声。貧しい流民が数百の金を騙し取られれば、命で償わせてやろうと考えても、不思議はない。話せばわかるとも思わない。暴徒たちは、血の贄を求めている。エマが無実の娘であっても、憐れみを懸けるよりは、命も何もかもも奪い取るくらいするまで収まるまい。それでも最低限の損害も埋められないのだ。態々、襲撃したエマを生かしておくとしたら、人買いに売るくらいの理由くらいしかあるまい。
エマは首元に手を伸ばした。上部に丸い通し穴が付いた十字のネックレスを握りしめる。エジプト神話で生命を意味するアンクと言うお守りらしい。情けないことに貰った時のことも殆んど記憶が薄れているが、家族の形見だ。渡された時に、母は、エマの無事を祈っていたと思う。握る手に力を込めながら、闇の神アヌビスと愛の女神イシスに祈りを捧げた。出来れば、戦わずに済ませることが出来るように。そして、戦うのであれば、どちらが勝とうが、せめて安らかに死ねるように。
※※※※
ホーソンと数人の放浪民たちが、『巣』と呼ばれる牧者たちの拠点に駆け込んできたのは陽が沈んだ後であった。ライフルを携えた夜っぴての見張りが必ず三人、格子窓から見張っているので、入り口の前で大声で呼びかけてくるホーソンたちの接近にはすぐ気づいたものの、『巣』は曲がりなりにも廃墟に位置している。深夜の来訪も、大声で騒ぎ立てるのも、正気の沙汰とは言えなかった。
鋭い問答の末、接近を許されたホーソンがただ一人、手を上げながら乗り込んでくると、入るなりに青い顔をして喚いた。
「切羽詰まった連中が、エマ・デイヴィスへの襲撃を目論んでいる」
「どういうことだ」長老が表情を強張らせつつ、兎も角も事情を尋ねる。
「リドリーと言う男だ。そもそも今回の話を持ち込んできた奴なんだが……」ホーソンが呻くように言葉を洩らした。
「止められんかったのかね?」長老が尋ねると「昔から短絡的で強引なところのある男だった。皆に責められてよっぽど肩身が狭かったのだろう」まるで同情するようなホーソンの物言いに、周囲の牧者たちは憤懣やるかたない表情を浮かべるが、深夜の廃墟と曠野を突っ切って、エマの住処まで向かうとなると、武装した羊飼いの一団でも危険であった。カンテラや松明など相当な照明の準備も必要だし、なにより、『巣』が随分と手薄になってしまう。日中であれば、何事かあれば、すぐ近くの下層地区から自警団。手に負えなければ、さらに民兵の応援だって期待できるが、生憎と今は夜半。
『巣』には、戦えない女子供や老人も多いのだ。迂闊には動けなかった。
最良の装備を持つ現役の羊飼いたちは、羊たちを連れて遠い牧草地にいる筈だったし、野心的な失業者たちは、サドラン牛を仕入れに自由都市に出張っており、拠点は随分と手薄になっていた。羊飼いに限らないが、年配者は大抵、引退する際に最良の武装を跡継ぎに送る。エマの住処に手練が三名向かえば、ネストを守る最良の後装式ライフルが三丁減る。
長老は、少し考えてから舌打ちした。「無事を祈るしかあるまい」と呻いた。
「見捨てるんですか?」と若い牧者が尋ねるが、苦々しい表情のまま射るように睨み返して黙らせる。
同じ牧者仲間ではあるが、エマは氏族の身内ではない。そして、仮にエマが氏族の一員であったとしても、集団の保全の為に長老は切り捨てただろう。自力で頑張ってもらうしかない。かなりの手練だし、良いライフルを所持しているが、多勢を相手に命を拾えるかまでは分からない。正直なところ、集団戦の際に一員としての射撃の腕は知ってるものの、立ち回りがどの程度に上手かは長老も知らないのだ。
流れの牧者と言う手合いは、仲間にも手の内を全ては明かさないものだ。厳しい状況ではあるが、或いは、生き延びる目も皆無ではないとエマの無事を祈りつつも、長老は、そう踏んでいた。
※※※※
「見つけたぞ!ここに違いねえ!」「騙しやがって!」
「エマ!エマ・デイヴィス!出てきなさい!」「責任を取らせろ!」
ずかずかと家に乗り込んできた、渡り人っぽい服装の一団は、手に手に松明やこん棒を持っていた。火縄銃まで持ち出している者もいる。いや、渡り人にしては見すぼらしい。浮浪者か、廃墟生活者に近いだろう。十人近い人数で喚きながら手当たり次第に部屋や廊下を荒らしまわっていた。
天井に空いた幾つもの穴は、見つかるだろうか?どの抜け穴も、真っ暗に染めたシートと布を二重に掛けて、闇夜には光を通さずに見分けもつきにくいと思うが。連中が一度、調べた場所。隅の小さな箱や覗き込んだ物陰。ゴミを捨てる穴。ガラクタ置き場などは、影に揺らめきながら、全方向への視界を遮っている。燃やされないといいのだけど。
……老人と男と若い娘と娘と少年と中年男と青年と女。目に映るのは、全部で八人。他にもいるかも知れないが、遠慮なくエマの家をひっくり返している。(……まるで、物取りだな)薄汚れたボロボロの天井の鉄パイプに張り付いたエマ・デイヴィスは、廊下を通り過ぎた一団を眺めて哀しげに目を瞑ってから、無意識に少しだけアンクに触れた。
他人の家に侵入する人間を撃ち殺しても、咎め立てる人間は少ない。最初、攻撃を躊躇ったのは、話し合いの余地があるかとの願望だったが、剣呑な気配を漂わせた一団の前に出て行けば、どう考えてもリンチにあうだけだった。曠野ではまともなポレシャの警備隊が、魔女狩りみたいな真似を許すはずがない。捕まって厳しく処罰されるだろうけれど、それでエマが助かる訳ではない。天井に張り付いた姿勢のまま、エマはこん棒と松明を持っている最後尾の少女の後頭部に音もなくライフルで狙いを定めた。
※※※※
なんで、こうなったんだろうとも思う。
放浪の一団は、長い旅の果てにポレシャにたどり着いた。金のかかる地区とか小地区とかの場所を避けて、家賃の安い廃屋の一角に身を休めながら、毎日、一生懸命を働いてお金を貯めて、やっと希望が見えてきた時に、騙されてしまった。
義兄さんと姉さんの貯めたお金が騙し取られて「こんなことだと思った」
金を持ち逃げされたと義兄さんが打ち明けた時、姉さんは苦笑を返した。
「楽して稼げる話なんてないよ。あっても私たちには廻ってこない」
ポレシャの保安官も他所と同じで、他所者から巻き上げるだけだったね、と落胆しながら姉さんが尋ねた。
「で、幾ら預けたの?二百?それとも三百?」
義兄さんが気まずそうに俯いて
「……もっとか。結婚式も出来ないね。土地も諦めないと」
農地なんかではない。居留地近郊の比較的に安全な一帯で、小さな土地に天幕や小屋を建てる為のお金だった。姉さんは、ずっと結婚式を楽しみにしていた。
「すまない。俺……俺は」呻いてる義兄さんを見るのも、もの悲しく無言で空を眺めてる姉さんを見るのも、ただ苦しくて。何かできる事はないかと思って。
近くの寝台では金切り声が上がっていた。
「……冗談でしょう?」女性の叫ぶような金切り声。
「ねえ!幾ら預けたの!言いなさい!この馬鹿!」
「ばっ、馬鹿とはなんだよ。兄貴に向かって」
「いいから、いくら預けたの!」
別れ話をする恋人。泣いている子供たち。薪や食料の為のチケットまで使い込んだ父親に、家族の金まで勝手に使った青年。
「幾らかでも取り返してくる」リドリーさんが立ち上がった。
「だけど、向こうには保安官がついてるぜ?」
「俺も行こう。みんなで行けば、簡単には……」
義兄さんも、姉さんも意気消沈して、危ない真似はするなと言ってたけど、後ろについて行って、返してもらえるようなら少しでも。
それが松明を翳した時、天井に人が張り付いていて……こっちにライフルを……あれ?……力が入らない……どうして……
……寒い…………お姉ちゃん……………




