03_57C 流民の事情
エマは久しぶりに『巣』へ足を踏み入れた。牧者たちの拠点である廃倉庫の内部は、薄暗く、セメントの床はひび割れているが、一見の印象とは違い、よく掃除されていて、埃っぽさは殆んど感じられない。箒や雑巾など、さんざ使い込まれた清掃道具が隅の壺に立てかけられているのが生活感を醸し出している。
天井の鉄骨は長年、風雨に晒されて錆びていたが、木製の梁で補強され、要所には支柱も追加されている。長年の風雨に晒された壁にはひびが走っている一方、色違いの漆喰が丁寧に塗られ、穴も木板やレンガで塞がれていた。積みあがった木箱や棚も一見、乱雑に見えながら、生活必需品や使い込まれた道具ばかりでゴミは殆んど転がっていない。崩れた天井の下には、集水器と砂や炭を使った浄水器が設置されている。子供たちの寝台の置かれた一帯は、布の屋根に鳥や飛行機、雲に星の玩具が吊るされて、壁には優しい緑と青の草原が描かれている。暮している者たちが廃倉庫での生活を大事にしているのが感じ取れるような、そんな家だった。
エマが放浪の果てに合流したのは成人に近い頃だったが、牧者衆とポレシャ居留地の付き合いはかなり深かった。つまりは、冬の間、こんな贅沢な家で過ごせる牧者の子供たちもいたのだと思うと、なんとはなしにエマも口元が緩んでしまう。総じて暮らしやすいように長い時間を掛け、家具や道具の配置に工夫を重ねてきたのが見て取れる。牧者たちが長い放浪の果てにやっと手に入れて、手入れと適応を飽くことなく十数年、或いは、それ以上に積み重ね続けた拠点。逆に言えば、悪人どもや寄る辺ない者たちが奪い取りたがる拠点であった。
こうした拠点を持つのは、誰でもあっても難しい。信頼できる勢力は少ない。流れ者が工夫して住みよい家を作れば、奪い取ろうとする定住者だって曠野には少なくない。誰もが飢えと貧しさと隣り合って暮らしている黄昏の世界。先刻、保安官補は、多分に牧者たちを助けてくれた。動静を注意深く観察してから、牧者側に瑕疵はないとみて肩入れしてくれた、のだと思う。
文明崩壊後の世界において、権力を持つ者が公平であるのは比較的に希少で、保安官補もまた、単純な正義感だけで動いている訳ではきっとない。それでも結果的に牧者たちを助けたということは、牧者たちに『助ける価値』を見出したと考えて良いだろうか。曠野での信頼関係は一方的なものではなく、基本的には、慎重な駆け引きの中で成り立つものだ。妙な話だけれど、地区の近くにきちんとした拠点を築き上げた頃から、居留地の反応が随分と好意的になったそうだ。互いに守るべきものがあると言う状況が、居留地の戦略に影響を与えたのかも知れない。防壁や緩衝地帯としての役割が期待されているとしても、食糧や薪に弾薬の援助は有難かった。
今は保安官補や民兵の大半は引き上げ、若干の民兵と自警団員が椅子に座って、お茶を飲んでいた。暖かい乳酒や粗末なパンにチーズを載せた軽食なども提供している。賄賂と言えば賄賂だし、曠野では食べ物を提供するだけでも僅かな好意は買えるものだ。冤罪であった過程や保安官補や役人の判断もあって、武装した居留地の団員たちは牧者寄りの姿勢をあからさまに、暴徒であった者たちに警戒の視線を向けている。
対する暴徒たちは、哀れなほどにしょげ返っていた。元暴徒らの金は、全くの詐欺師に奪われてしまったのだし、牧者たちを責めても返ってこないことは明らかであったからだ。ひどく落胆した暴徒たちは三々五々に解散し、力のない足取りで塒にしている廃墟の隠れ集落やら、廃墟近くの小地区へと帰っていった。
暴徒たちは大半が最近、ポレシャへとやってきた流民や、新参の移住者の集まりで、そうした危険な場所の住居に暮らさざるを得なかったのだ。経緯が経緯であり、また怪我人や発砲なども無かった事から、一人を除いては今回だけはお咎めなしとなり、今は数人の代表格が、牧者衆の頭目たちとの話し合いに応じていた。
※※※※
「保安官補は、喧嘩が上手いな」顔を掌で拭いながら、牧者の長老が首を振った。
無言で、エマも同意する。大勢力を背景とした話術とでもいうべきか。最初は冷静、かつ慎重に状況を見極めつつ穏便にことを収めようとしながら、相手が一線を越えた瞬間に豹変して恫喝する。結果、暴徒たちは一気に萎縮し、恐怖しながら追い散らされた。
助けられた側としては間違いなく感謝すべきだろう。しかし、自由を尊ぶ羊飼いからすれば、恩義を感じながら、同時に警戒心を覚えざるを得ない。強力な居留地が常に友好的であったり、公正だとも限らない。あの威圧が牧者に向けられないと、どうして言い切れるだろう。疑心暗鬼を抱くのも、寄る辺ない放浪民としては自然な心理だった。今のところ、ポレシャ居留地とは友好的な関係を保っている。都市や大規模居留地とは、常に一歩引いた関係を築き、状況を見極めておかなければならない。警戒しつつ、友好と自由を両立せねばならないのが、弱小の放浪民の辛いところだ。
弱みの多い牧者衆の立場からすれば、揉め事で裁定が有利に下されたからと言って、それでお終いと安堵はできない。揉めた相手も高が知れた流民だが、ずっと逆恨みされるのも困りものだ。抗争になって負けるとは思わないが犠牲も出したくない。雇い主にも迷惑は掛かるし、居留地やら交易商人らにも警戒される。かと言って、自分たちに責もないのに、賠償しますよ、などと申し出るつもりもない。生活に余裕もないし、長期的な敵を作りたくもない、と、兎も角も、落としどころを探るため、長老は話し合いの場を設けていた。
連行された青年の身内も絶望的な面持ちをして残っていた。追放刑はかなり厳しい処罰だ。ポレシャ一帯の農場や集落に出入りすることは愚か、仕事を探すことも、物々交換したり、避難所で身を休めることも出来なくなる。とは言え、抑圧的な体制下であれば、流言飛語の類は容赦なく縛り首に処されても不思議なかった。迂闊な青年を哀れみつつ、揉め事の後始末の付け方についても長老は頭を痛めているようだ。
当たり前かもしれないが、暴徒であった側も途方に暮れている様子を見せていた。
「おれの金……」抗議に押しかけたものらの代表と思しきホーソンと言う中年男が力なく呟いている。
「気の毒だが、戻らんと考えた方がいい。今頃、両替して高跳びしてるだろう」長老の言葉にホーソンが鋭さの残っている視線を返した。それからエマ・デイヴィスを見つめる。
「心当たりは?」
「……なんの?」端的なエマの返答に、ホーソンが肩を落とした。
「エマは、腕のいい牧者で名前が売れてる。元々、人付き合いが少ない」と長老。
「背乗りで殺されなかったのは、運がよかったな」民兵の一人が嫌なことを囁いてくる。
「詐欺師が集めた金を持ってドロンした。よくある話だ。もう帰っていいよ。一応、暫くは身辺には気を付けて」別の女性民兵が告げてくるも、以前の牧者仲間がエマの前に料理の入った皿を持ってくる。
「ああ、ただ呼び出してと言うのも、悪いな。飯でも食っていくかね?美味くもない飯だが」その言葉が耳に届いたのか。厨房の調理人が怒ったように太い腕を振り上げていた。
エマ・デイヴィスは、テーブルについて豆スープを口にする。流民たちの未成年にも食事が振舞われていた。誘われても、年嵩の者らは力なく俯いていており、どうにも食事を取る元気も無さそうだった。物々交換が主流な世の中で、金を貯め込むのにどれほどの努力と歳月を費やしただろうか。歳月が苦痛を癒してくれるといいのだが。少年少女の数人がエマと同じテーブルについて、豆スープや美味しくも無さそうな粥を口にする。やや独特の風味がある羊のチーズに僅かな肉も入っていたのは、料理人の心づくしなのか。
巷の話題は、猫も杓子もサドラン牛であった。きちんとした牧者に金を預け、護衛を付ければ十中八九は稼げる一攫千金の好機とくれば、金と野心を持ち合わせた金持ちや商人、市民がこぞって冒険行に乗り出すのも腑に落ちようが、単なる流民や貧しい者たちまでが賭けに乗るのは、余りにも危うい風潮だとエマには思えた。投資家たちであれば、冒険者や隊商を送り出す際は下調べを行って経路を精査し、護衛を付けて物資を整えるし、失敗したとしても、多くは致命傷にはならない。貧しい者たちは物資も乏しく、一か八かの賭けに成りがちだった。失敗がそのまま命取りになりかねない。だけど、貧しい者たち。日々を生きるのに不安を抱く者たちであれば、それは縋り付きたくもなる筈だった。
とは言え、エマは、詐欺師までが出るとは考えてなかった。自警団員の話によれば、哀れな移住者たちの被害額は三千から四千にも昇るそうだ。
「……よく放浪民が貯めていたね」エマの呟きに自警団員が頷いた。
「畑と家畜を買う為に貯めていたそうだ。遊牧民や隊商の銀貨でな。子供を学校に通わせる学費に居住権の購入」民兵の言葉を聞いて、エマはひどく嫌な気分に襲われた。貧しさの味に関しては、エマも幾年と熟知してきた。きっと爪に火を点すような生活の中で貯めたのだろう。
「慣れない土地でまあ、迂闊……だったんでしょうね」力なく少女が首を振った。
「諫めたり、反対した大人衆もいたんですから」
「言い訳させてもらうなら、騙した人は随分と家畜に詳しかったんです。商取引にも随分とそれらしく説明してくれて」一歩引いた少年少女が胡散臭さを見抜いていながら、経験豊かな大人衆の方が乗り気だったのは、皮肉な話だった。
「貴方たちと似たような服装とライフルを背負ってました。それに乗り気じゃない感じで、最初はうちの大人衆が無理に頼み込んだ風だった」頭目のホーソンの子なのか、若者が渋い表情でそう説明した。
「実際に牧者かもね」エマの洩らした言葉に視線が注目した。ちょっと怯みを覚えつつ「元からの集団だけでなく、他所から流れてきた牧者も短期で雇われていた。仕事がなくて他所に行く、その行きがけの駄賃で」エマは考えを告げた。とは言え、今さら犯人を突き止めたからとて、なにが出来る訳でもないだろうが。
「そいつを捕まえられたら、金は戻ってくるだろうかな」若者が浮かぬ表情で告げた。
「意味のない仮定だね。この広い曠野で?どこに行くかも分かってない牧者を捕まえるの?」少女が苦笑を浮かべ、エマは言うかどうか迷ってから口を開いた。
「ズールだと思う」若者たちの視線が集中してくる。
「……なぜ……そう考えて」問いかけられて応える。
「サドラン牛について詳しく語っていたという事は、取引について調べていたという事だよ。そしてサドラン牛が高く売れるのは、別にポレシャだけでもない」エマは結論を告げた。
「だから、ズールか」難しい表情を浮かべる少年少女たちを見て、エマは危うさを感じ、無責任な言葉を後悔した。
無謀な行動を諫めようとするよりも早く、若者の一人が口を開いた。
「捕まえられるだろうか?うちの親父。叔母さんの持参金使い込みやがった。ぶっ殺してやりたいが、それはそれとして金だけでも返してやりたいよ。ずっと苦労してきたんだ。やっと幸せになれそうだったのに」
「お勧めはしない」エマは改めてはっきり言うと、全員を見回して「君たち、どっちから来た?」尋ねた。
「北の土地から」戸惑いながらも答えが返ってくるとエマは頷いた。
「ズールは西。知ってるだろうけど、街道筋を旅するのも楽ではないよ。希望を持たせるようなことを言ってすまないけど」
流民の少年少女たちの間に、沈黙が立ち込める。
「そうだな。知らない土地を進むのは、ちょっとした冒険になる」一人が呟き、別の誰かが呟いた。
「旅人、例えば、腕利きの牧者が一緒なら心強いんだが」ホーソンの子と思しき若者は、食卓を共にする牧者の娘を慎重に見つめてきた。エマは用心深そうに視線を返した。ホーソンの子の目つきは気に入らなかった。
※※※※
マギーとニナ、そしてジーナ・クレイの三人は、北の経路を通り抜けて、進路を西へ向かう街道に。途中でロナ市。ポレシャの経済的な競争相手でもある交易で有名な大型居留地を経由し、そこから比較的に人通りの少ない南北の小さな街道へと足を踏み入れていた。
かつては人の往来が絶えなかった街道沿いに、今は崩れかけた建物が連なる滅びた町があった。建物の大半は崩落しており、長年の風雨に晒された鉄骨は赤茶けて変色していた。建材から木材などは燃料として旅人や放浪者、浮浪者や廃墟生活者などに剥ぎ取られ、残された骨組みだけが寂しく風に晒されていた。瓦礫の間には雑草や灌木が根を張り、かつての舗装路はひび割れ、草に覆われている。夜になると、遠くから獣の鳴き声が響き、時折、屍者が彷徨ってくることもある。
かつて店だったらしい建物の看板は、文字の大半が剥げ落ち、何が書かれていたのか判別するのも難しい。崩れた壁の隙間には、かつての住人が残したのか、あるいは後から流れ者が書き込んだのか、不気味な印が刻まれていた。
町の外れには、比較的まともな形を保った廃屋がぽつんと佇んでいる。マギーたちも稀に使う建物は、旅人の避難所として手が加えられており、扉は修繕され、窓には木の板が打ち付けられていた。外からは目立たぬよう、しかし、一握りの旅人や行商人たちが微かに教え合う避難所の中には、簡素な寝床と、使い込まれた焚き火の跡。
僅かな物資と薪が棚に残されており、壁には誰かが残したメッセージや地図の切れ端が張られている。内容は注意書きや噂話が並んでいる。「北へ二日、飲める水あり」「東の橋、崩落」「夜は音を立てるな」「北の村は燃えた」「ズールへ向かうなら水を多めに」。書いたものの名前や歳月が書かれてる中には伝言を託すものもあり、「~~~はグリンの市で見た」或いは「~~は、褪せ谷で亡くなった」などと他人が書き足した者も多い。
熟練の旅人は、こうした場所を複数知っているもので、マギーとニナは、ジーナ・クレイに教えるのを少し躊躇したが、その夜はどうしても休憩したいほどにマギーが消耗していたのだった。何年も街道筋を往来していれば、道沿いに顔馴染の農場やら旅籠やらもできるものだ。マギーたちのよく使う街道筋の廃墟の一角に、友好的な廃墟民の一家が暮らす廃屋が佇んでいた。老夫婦に息子夫婦、そして可愛らしい子供たちが暮らしていた。
此処から徒歩で二時間ほどの小さな廃市街の片隅にあったアパートは、訪れた時に数匹の屍者に取り囲まれていた。地面には、無数の朽ちた者共の足跡が残されており、死せる河に襲われたのか、或いは屍の波に飲み込まれたのだと嫌でも悟らざるを得なかった。
その時は、見た所、数匹の屍者が取り囲んでいるだけで、他に建物に潜んでいる可能性があるにも関わらず、少しだけ冷静さを失っていたマギーは、立ちはだかる七、八匹の屍者を粉砕して、建物への道を進んだ。普通の人間には危険な状況だったが、マギーはバットの一本で頭蓋を叩き潰しながら、隠れ家へと続く屍者を粉砕して、玄関へと辿り着いて、しかし、扉が開いているに気づき、警戒心から動きが鈍ったのと殆んど同時、奥から動きの素早い出来立ての屍者が歯を剥き出しながら、飛び掛かってきた。
考えうるうちでも殆んど最悪のタイミングで飛び掛かられながら、しかし、マギーはあっさりとバットを盾に歯を防ぐと、安定した姿勢のままにバックステップ。屍者の強力な突進にも上手く身を逸らして力を逃がし、若奥さん製の屍者の頭蓋をバットで粉砕した。
それから、扉の奥の廊下へと一瞬だけ視線をやり、諦めたように引き下がった。子供や旦那さんが生きているとは思えなかったし、よしんば、生きてるとしても、狭い建物に乗り込むほどの危険を冒すほどの知り合いではなかった。もしかしたら、奥の部屋で閉じ篭って、助けを待ってるかも知れない。もしかしたら、息を顰めて、脅えているかも知れない。無い訳ではないのだ。時々、そうした人々が救い出される事もある。鎧甲冑に身を包んだ武芸者を雇える居留地では、屋内に突入した騎士の一団がそうやって隠れた人々を助ける事例も少なくない。でも、つい先刻、噛みつきを防いだ達人めいた動きを、次も間違いなく出来るかと言うとマギーにも自信はなかった。
そうした理由で、マギーもその日は疲れ切った様子で、少し離れた旅人の隠れ家のひとつに身を休めると、何も言わずに眠りに就いた。ニナは、窓辺で時々、ウトウトしながら見張りを続け、ジーナ・クレイも、風の音やうめき声、吠え声に脅えながらも夜を越えて、マギーたち一行は夜明けとともに一帯を後にした。そうして三人は、いよいよ自由都市の圏内に差し掛かろうとしていた。




