03_56F 孤高の牧歌
巨大蟻の大襲撃以前、ポレシャ及び近隣一帯の自由農民たちは、八百頭に達する羊の群れを所有していた。内訳としては、市の所有する羊の頭数がおよそ六百頭。自由農民たちの私有財産として百二、三十頭。同じく、市内の有力市民たちの財産がおよそ五十頭弱。現在、ポレシャと農民たちの所有する羊は、全て合わせても二百頭に満たない。最盛期には五十を上回っていた牧者たちも、僅か十人を数えるのみとなっている。一応の見習いである牧者の子弟たちを加えても二十人足らずだが今回、それらの年少者たちはあまり関係ない。
五十人いた牧者のうち、年長者や年老いた者らは引退し、目端の利くものや潰しの効いた者たち、伝手のあった者たちは、幸運にも他の職を見つけたり、或いはよその土地へと流れていった。巨大蟻の襲撃やそれから亡くなった者もいる。残った二十数人の元牧者は、幾らかの薪や食料の配給を受けながら、後は慣れぬ日雇い仕事などで日々を食いつないでいた。
不遇に甘んじていた牧者たちだが、羊飼いに復帰したくとも現実に羊がいない。議会も僅かばかりの羊を買い足し、この先、毎年一人、二人と牧者を雇い直すと請け負っている。境遇に不満は抱きつつも、居留地の厳しい懐事情に力関係も踏まえれば、余りあからさまに不満を表明するのも憚られる。
そんな鬱屈の日々に燻っていた牧者たちだが、自由都市ズールで数年に一度、或いは十数年に一度の大規模家畜市が開かれるとの知らせが入ってきて状況が一変した。失われた役畜を補うため、議会が告示したサドラン牛の買い付け任務は、失業中の牧者たちにとって千載一遇の機会に他ならず、大勢の元牧者が挙って奮い立ち、志願した。
町外れやら廃墟の集落での明日をも知れぬ浪人暮らしから、颯爽とした羊飼いへと返り咲けるのだ。牛を買い付ける予算までもが自腹の為、まずは資金を集める出資者から探さねばならぬが、成功すれば、相応の大金を掴める上、独立独歩の羊飼いとなるのも夢ではない。また、居留地が別口で買い付けるであろう羊の群れを任される目もあった。
とは言え、牛の買い付け仕事は、並々ならぬ仕事であった。なにしろ街道筋には、変異獣に屍者、盗賊や追い剥ぎなどが出没しており、道中に出会う旅人や商人、村人さえ必ずしも信用できるとは限らない。練達の牧者であれば、十に七つか八つは上手くいく仕事であるが、下手をすれば命を落とす事だってあり得る危険な旅となるだろう。
「だけど、私たちは牛は買わない。家畜市で安く羊たちを買い取って、さっさと居留地に引き上げる。出来れば二十頭は欲しいが最低限、十頭いればなんとでもなる」
マギーは髪の毛をかき上げながら、そう告げた。牛の買い付け任務はリスクが大きいから参加しない。目的が羊飼いへの復帰なら、牛よりは運びやすい羊を必要最低限、飼い揃えて居留地に戻ってくればいい。ジーナ・クレイは牧者株を保持しているし、若い羊が十頭もいれば居留地と契約できる。形としては、マギーが牧者の娘ジーナ・クレイに融資し、羊の群れを購入した牧者の娘が羊飼いとして復帰する。
「うん、いけると思う」見落としがないか暫く考えたジーナ・クレイが頷いた。
とは言っても、何処かに陥穽があるかも知れない。ニナやトリスは、居留地の法知識が浅いのでそれほど助けにならず、マギーも、ジーナ・クレイも、計画を練っている側。願望や思い込みが無いとも言い切れなかった。
それでも、手続きに関しては恐らく大丈夫だろうと思えた。しかし、マギーも他者に出資するのは初めての経験であるから最悪、失敗しても、経験を積むつもりの心構えを持っている。これは失敗してもいいや、と言う弱音を孕んでではなく、どんな事態が起きても、己の視野や心の強さの糧にしてやる、と言う気持ちで挑んでいる。出資に関するリスク管理を学ぶ、とか、契約の進め方を把握するなどの実務を軽視してる訳ではないが、どちらかと言えば、感覚的な経験値を積む貴重な機会として捉えていた。
「ニナさんや、それにトリス。私のやり方を眺めて、成功しても、失敗しても、己の脳髄の糧にするのだよ?」マギーは、同居してる少女たちに投げかける。
「うむ」とニナが偉そうに。「へい」と三下っぽくトリスが頷いた。多少の質疑応答や仮定を交えて、二、三の問答を終えてから、マギーちゃんはジーナ・クレイの方へと視線を移した。
「そちらの懸念は、他にはないか?」
マギーの問いかけに、しばし黙って考え込んでいたジーナ・クレイだが、表情に少し迷いを含ませながら、慎重に言葉を選ぶようすで口を開いた。
「ないです。あるとしたら、十頭でも、かなりの値段がします」牧者娘は、出資者の表情を伺いながら、心配そうに告げる。
メモ帳を開いて商品取引価格のページを確かめると、マギーは頷いた。
「調べたところでは、巨大蟻襲撃以前の羊一頭あたりの取引価格は、およそ150~200都市クレジット。居留地の労務者の日当が12~20都市クレジットほどなので、日当の十日分ほどになる」
高価ではあるが、一見すると庶民にもなんとか手の届きそうな価格の家畜が、羊であった。簡単な世話に毛や乳を産む羊は、一見するとすぐに元手が採れそうな家畜ではあるけれども、そこは文明崩壊の世。草地さえ貴重である。
羊を育てるには、牛や豚よりも綺麗な水が必要だし、大量の草だって食べさせなければならない。元を取るには、牧草地の使用が不可欠であったし、例え、草地を利用できても、維持費は大して掛からないが、知識と手間暇は掛かった。
つまり、羊を飼う前提として牧草地の保有。或いは使用許可が不可欠だった。封建社会において土地の広さが、そのままに富を表していたのと同様、黄昏の世においても牧草地は貴重な財産で、庶民では羊で利益が出せず、羊飼いに委託されたり、自由農民や市民が所有している理由が其処にあった。
そして現在、ポレシャ及び近隣一帯での家畜の相場は、大きく上昇している。巨大蟻襲撃前と比べて、五割増しからおおよそ倍。生み出す乳や羊毛は変わらないのに倍の値段では、元手を回収するのが難しく、遠来の牧草地などから買い付けて持ち帰るにしても、量はたかが知れて危険を伴う旅となる。予算との兼ね合いで、ポレシャ居留地は毎年、少量の家畜を買い入れながら、畜産業の立て直しを図っている最中であったけれど、家畜市で大量に仕入れるならば、例え、輸送中に二割、三割を失ったとしても、充分に元手が採れるであろう。
「十頭で二千かな。二十頭でも、買うだけなら問題ない。問題は輸送だよ」行商人のマギーは淡々と請け負った。大言壮語の多い若手冒険商人らとは異なるマギーの静かな語り口が、却って揺るがない自信を感じさせて牧者娘を信頼させた。元より、町外れで屈指の冒険商人マルグリット・モイラが請け負うなら、それだけの資金も成算もあるに違いなかった。
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職を失った牧者の全員が、生活に窮している訳でもない。老いた牧者のうちには、小金を貯めてポレシャ郊外に小さな土地やら畑を買っていた者らもいる。先を見据えた賢明さで、引退後に己を養っていくだけの財産を築き上げた一人に老ミラーがいた。
巨大蟻の襲撃が起こる前から、家畜相場や牧草地の価値が変動することを理解し、慎重に蓄えを作っていた老ミラー氏は、突然の災厄にも完全には打ちのめされなかった。もちろん、すべての元牧者がこうした準備をしていたわけではない。
報酬を遊興費に使い果たした愚者もいれば、不運にも全ての財産を羊を増やすことに費やして全てを失った者もいて、いずれにせよ、巨大蟻襲撃後は困窮する牧者も少なからずいた。しかし、土地を購い、作物を育てる畑を確保していた老ミラーは、幸運にも、なんとか安定した生活を維持できた。
幸運―――幸運だろう。略奪者や屍者の群れによって滅亡した居留地から、家畜を連れて脱出した牧者の事例も報告されているのだから。
居留地に無償で割り当てられた住居も、引退した年長者たちにとっては大きな助けとなっていた。中層地区や下層地区の簡素な部屋やあばら家だが、しっかりした屋根と壁で雨風を凌げるだけでも黄昏の世には相応の価値があった。
老ミラーと同居しているイザベル・ミラーは、長男の忘れ形見で、ただ一人の血縁者であった。老ミラーは、己のささやかな財産。小さな土地と畑。二、三頭の山羊を買える程度の草地をイザベル・ミラーに残してやろうと考えていた。イザベルも適度に日雇いの仕事をしながら、慎ましい生活を送っていた。失業した元牧者衆には、薪や食料の配給があって、生活費のかなりを賄えた。十年もすれば中町の小さな家か、町外れに土や泥の小屋での手に入る。そうすれば、老ミラーが亡くなって今住んでいるアパートを追い出されようとも、もはやイザベルが生活するに窮することもなくなる。
だが、現在、中町の木造長屋めいたアパートの一室で、ランタンの光の下。イザベル・ミラーは、後装式ライフルの手入れをしながら旅の支度を整えていた。サドラン種の牝牛と牝牛を持ち帰った場合、元牧者に限って再び、牧者株を無料で発行する。居留地の布告した粗末なチラシが机の上に置かれていた。後装式ライフルの解体整備を終えたイザベルは、金属製薬莢よりは安価な紙製薬莢弾を一発、一発取り出しては、銃弾用の帯と、弾薬用胸ポケットへと丁寧に詰めていく。難しい任務だとは承知している。居留地に牧者株を売り払った金もあるし、イザベル・ミラーは、けして無理をする必要はなかった。にも拘らず、イザベル・ミラーは、サドラン牛の買い付け任務を請け負っていた。
人によっては、馬鹿みたいだと思うかも知れないが、イザベル・ミラーは市内での安全で安定した生活よりも、荒野の暮らしに戻りたかった。野外での暮らしに比べると、同じルーチンをただ繰り返すだけの定住民の暮らしは、息が詰まりそうに退屈だった。他の人間が安堵を感じるだろう防壁内の暮らしも、イザベル・ミラーには、狭い檻に閉じ込められたようにしか感じられない。理由は分からない。変異獣や屍者が彷徨う危険な野外生活など、飽き飽きしていた筈なのに、今は曠野に戻りたくて仕方がなかった。夜通し見張りを続ける中、天幕での一時の仮眠、そして暗闇の中で耳を澄ます時間。明日をも知れない放浪の暮らしは防壁とバリケード、家の壁に囲まれた安全な夜よりも、イザベルにとって遥かに安らげるものだった。或いは、古い牧者の血統が、曠野の呼び声に応えていたのかも知れない。
護衛として仕事を頼もうと考えていたマルグリット・モイラには、顔見知りの両替商の紹介状を持っていったにも関わらず断られてしまった。昨晩、先約が埋まったそうだ。一日、早く訪れればよかったと苦笑しながら、ジーナ・クレイも意外と人を見る目があると元同僚の幸運を祈った。グラハム『狐』バートンと、マルグリット『蛇』モイラのどちらにも断られた以上、イザベル・ミラーは一人で旅立つことにした。抜け目のない腕利きと評価した二人に共に断られた以上、余計な同行者は足手纏いになる。
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ルーク・アンダーソンは、元牧者で腕利きの銃士でもあった。ルークが見張りの際、子羊を咥えて遠ざかる変異獣に百メートルで当ててのけた腕前は、今でも牧者たちの語り草になっている。そのルークが今、酒場で珍しく深酒をしていた。強い蒸留酒を空けながら、しかし、鋭い目つきで睨むように宙を見据えている。異様な雰囲気に、顔見知りの常連たちも誰も話しかけようとはしなかった。
ルークは、拾われ子だった。変異獣に襲われて壊滅した集落跡を見つけた羊飼いたちが、値打物でもないかと踏み込んだ際、偶々、戸棚の奥に隠されていた赤子を見つけて育てたのがルークだった。拾ったアンダーソンは寡黙で厳しい、そしてただ厳しいだけの男で、課題を与え、失敗すれば容赦なく体罰を加えた。優しさなど微塵も見せなかったが、ただ一方で、無闇に残酷であったり、気分で暴力を振るった事はなく、ルークに知る限りの生きる術を教え、最低限ながら食べ物や着るものは与えていた。
無慈悲な養父を恨みつつも、人ひとりの世話が相当の負担であると理解できる程度には、ルークには分別があった。アンダーソンは、養子に曠野で戦い、生き残れるだけの知識と技を厳しく叩き込んだ。やがてルークが半人前と言える程度に成長すると、一丁のライフルを餞別に、今いるのとは別の牧者集団へと送り付けた。生まれ育った集団よりは随分と品行のいい牧者たちとの共同生活には、慣れぬ気苦労も多かったものの、居心地は悪くなかった。銃や杖の使い方が図抜けていたルークは、初めて人並みの扱いをされ、一人前の金や物資を支給されるようになった。何年かして新天地での生活にも慣れた頃、養父の属する牧者集団が、大きな都市に雇われた牧者集団と揉めた挙句、都市軍によって殲滅されたと耳にした。元より、気の荒さに悪評の立っていた牧者衆で、牧草地を巡っての抗争も、果ての末路も、黄昏の世には珍しくもない話だった。養父の死を聞いた夜、ルークは酒場で誰とも話さず、表情も変えず、ただひたすらにグラスを傾けた。
好事魔多し。新しい仲間の元で上手くやっていたルークだが、巨大蟻の群れがなにもかもを台無しにしてくれた。しかし、居留地は意外にも失業した羊飼いたちを見捨てずに、幾らかの捨扶持と共に新しい仕事を世話してくれた。
今のルークの仕事は、銃使いとでも言うべきだろうか。居留地の任務を請け負って、近くの廃墟を巡回しては変異獣や屍者を狩ったり、別の日は、狩人たちに混じって農地へと近づく鹿や狼、兎などを狩る仕事で日銭を稼いでいる。時折の仕事だが、日当はいい。もしかしたら、羊飼いだった時よりも稼ぎは多かったかもしれない。
民兵や狩人らは、狩りや怪物との戦いを生業とし、定期的に練習を行い、銃の整備も怠っていない。弾薬や予備部品も支給される。例え、年に数える程度でも否が応でも練度は上がる。居留地には腕利きの射手が星の数ほどいて、頭のいい保安官やら経験豊富な狩人頭、戦術家の傭兵隊長に従って、安全な位置に就き、仲間とカバーし合って、遠距離から怪物を仕留めていた。危険は冒さない。日に何発撃って、基本給に命中した分だけの賃金を貰い、宿舎へと帰って寝るだけの毎日。居留地では、ルーク・アンダーソンは、その他大勢の射手の一人にすぎない。しかし、ルークに不満はなかった。安全で穏やかな日々こそが望んでいたものだからだ。
ルークの顔見知りに一人の娘がいる。町外れ地区の小さな花屋の店員で、どんくさくて、もどかしいほど不器用な娘。だが、いつも明るい笑顔を客や通行人に振りまいていた。ルークは大して話したことがある訳でもない。酒場帰りに時折、花屋に立ち寄っては、安い野草の花束を買って、宿舎の粗末なテーブルに飾っていた。
危険な曠野での日々を過ごしてきたルークにとっては、奇妙な習慣だった。だが、血の匂いのしない生活、硝煙に包まれない日常を、ルークなりに感じたかったのかもしれない。変わらぬ日常の中で、時折、妙な空虚感に襲われることもあった。牧者だった頃の暮らしのことを思い出す。無論、苦労も多かった。変異獣や略奪者に怯えながら、古い集団で捨て駒のように前列に立たされたことも、新しい仲間と家畜を守ったことも。仲間たちと共に曠野を渡り歩いた過酷な日々を懐かしく思う時もあった。あの頃の自分は──今よりも生きていた気がするが、それでも戻ろうとは考えなかった。
ある日、町外れ地区のバリケードが破られて、数匹の屍者が居住区へと潜り込んだ。すぐに鐘が打ち鳴らされ、壁や窓に遮蔽を取った射手たちのクロスボウや火縄銃が火を噴いて、忽ちのうちに怪物どもをせん滅した。それ自体はよくある事で、逃げ遅れた子供がいたことも、それを庇った娘が、腕を爪で引っかかれたことも珍しくもない話だった。その夜、花屋の娘が高熱を出した事。此のままでは屍者に転化する可能性がある事。噛まれた訳ではない為に血清を用いれば治療できる可能性が高い事。全て、ルークには関わり合いのない筈の出来事だった。
血清を買うには大金が必要で、丁度、居留地が牛の輸送任務の志願者を募集している。ルーク・アンダーソンは恋人でもない、名前すら知らない花屋の娘の為に、おのれを売り払って任務に志願する事にした。幸い、傭兵隊長のジェイクが会計係に掛け合って、大金を融資してくれた。とは言え、予算に穴を開ける訳にはいかない。牛の買い付け任務に成功すれば、血清を買った上で返済できる。失敗した場合、娘は助からずに、ルークは、伐採地と廃墟での哨戒任務を十年続けるになるだろう。




