03_56D 牛と羊と
羊は 一頭あたり一日2~3Kgの草を食べる。牧者衆が百頭。自由農民たちが百頭。200頭で 400~600kg/日、年間150から200トンの草が必要になる。冬は干し草を確保しないといけないが、ポレシャ市は縄張りとして広大な放牧地を所有しているため、餌代は極めて少なく済ませられた。
一頭あたり一日に2~5Lの水 。200頭で 400~1000L/日も、風車を用いた井戸と湧き水で充分に賄える。ただし、それには牧草地と水源となる井戸や泉、川や湖を転々とし続けなければならない。
数百頭の羊ともなると、膨大な草を食べる。それに、羊を飼うには綺麗な水が不可欠だった。風車で汲み上げる井戸も大抵、水を少しずつ貯める型の代物なので、数百頭の羊の群れは養いきれない。草を食べ尽くさないように、羊の群れを分割して、いくつもの牧草地に転々と放牧しながら、ローテーションしなければならない。一度、草を食べ尽くしてしまえば、牧草地の回復には数か月から数年の歳月が必要とされるし、最悪、踏み固められて栄養の失われた荒れ地と化してしまう例もあった。特に草の成長が遅い寒冷地では、一つの牧草地で一か月近くを過ごし、他の土地の草が回復する時間を待つことも重要で、数か月ごとに牧草地を巡ることで草を回復させながら、持続可能な放牧を営んでいる。
牧者たちは、一つの牧草地を食い潰さないよう、数人の小集団に数頭の犬、数十頭の羊を連れた小集団に分かれて、一年の大半を牧草地を転々とする生活を送っている。天幕やポレシャに属する有力農民の砦めいた農場。或いは頑丈な廃屋や防備の整った宿駅や旅籠の防壁で夜を過ごしながら、居留地で報酬を貰い、防壁内で過ごす冬を楽しみに過酷な日々を過ごすのだった。
ポレシャはそれなりに有力な居留地だが、辺土には他の居留地も存在しており、やはり羊の群れを所有している。羊の経済的価値は高い。授乳期には一頭の雌羊から1~2リットルの乳が取れるし、良質なチーズを作ることも出来る。そして年間2~3kgの羊毛は、都市に運ばれ、膨大な富をもたらしていた。年のいった羊から採れる肉も馬鹿にならない。つまり、牧草地とは富の源泉である。
古来より、牧草地や水源を巡っては、農民同士の小競り合いから、農村や居留地の衝突、都市や領主同士の戦争や叛乱、武装蜂起の原因にもなってきた。黄昏の世にも、資源戦争は変わらない。牧草地や水源を巡る境界争いに、流れの遊牧民や牧者たちとの牧草地を巡ってのにらみ合いも起これば、狼の群れに襲撃される夜もあった。略奪者や無法者が財貨を欲して襲ってくることもあれば、家畜泥棒に狙われる事もあった。屍者や変異獣が出没することもあり、巨大蟻などと遭遇してしまう事もある。
時折は誰かが怪我したり、犬や仲間を失ってしまう事もあれば、若い娘や羊を奪われてしまう日もあった。それもまた黄昏の世の日常だった。だから、ポレシャが牧者たちの首を切ったことも怨んでないと言えば嘘になるが、仕方がない事だとは思っている。それは諦念ではなく、終わりを迎える残酷な世界で生き抜くための覚悟だった。
ジーナ・クレイが訥々と語っているうち、西の空がゆっくりと朱に染まっていった。裂かれた上着の修繕は、まだ終わっていない。肌を撫でる風に、昼の熱がわずかに残りながらも、ひんやりとした夜の匂いが混じりはじめていた。
いつの間にやら、少女たちが近くにやってきて夕食の支度を始めている。眼帯を付けた娘さんは、幾らかの食材を提供している所から見るに、食事を一緒にしてる隣人だろう。薪や食材を節約できる庶民にはよくあるやり方だった。
夕暮れまでまだ大分時間が残っているものの、黄昏の時代、夜の到来前に食事を終えるのは庶民にとっての常識となっていた。町並みが夜の帳に包まれる頃には、富める者と貧しい者の境界が闇にはっきりと浮かび上がる。文明崩壊の世に、日没後の夕食をゆっくりと楽しめるのは、頑丈な壁を持った家に暮らす、一握りの裕福な人々だけだった。
「誰かな、あの人?」「知らない……牧者の服着てるね」少女たちがこしょこしょと囁き合っていた。
「この人は、廃墟でちょっと顔を合わせてね」背の高い女が徒弟とおぼしき少女たちに向かって「今日の食事は一人分、多く作れるかな?」声を懸ける。
あーい、と明るい声が返ってくる。
「牧者さんかぁ」少女たちは野菜をザクザクと切りながら、耳を寄せ合っては何やらクスクスと笑ってる。
「今日は、此処で食べていくといい」背の高い女の静かな声に、ジーナ・クレイは少し戸惑って短く言葉を洩らした。
「え、う」
「もう大分暗くなっているし、服を直すのにも、もう少し時間が掛かりそうだ。無理には勧めないが」アパートに置きっぱなしの友人は気になったが、しかし、服は借りてるし、上着は切り裂かれている。
「世話になりっぱなしだけど……」と牧者の娘が躊躇いがちに告げると「寝床も、すぐ近くに顔の効く木賃宿がある。遠慮はいらない」と背の高い女に言われて、混乱しつつも頷いた。
真鍮の皿に手早く盛り付けられたのは渡り人や自由労働者によくある、煮込み料理だった。麦やら肉に野菜を鍋に入れての単純な料理だけに、味つけや風味は、材料や腕前次第で千差万別となる。片手鍋で下味を付けた肉がかなり濃厚な味付けで、香辛料も効いており、疲れた心と身体に塩分がよく染み渡った。
娘たちが火の周囲を取り囲んでの静かな食事を始めるのと、日没の青ざめた帳が西の空に広がるのは、ほぼ同刻であった。何処からかラジオの音楽と微かなざわめきが風の音に乗って聞こえてくる。勿論、食事の最中も槍とこん棒、それにクロスボウと言った武装は、瞬時に手に取れる傍らに置いてあるものの、怪物の気配に殆んど脅かされずに食事を味わうひと時を過ごせるのは、流石にバリケードに守られている地区の平和さであった。
食事を終えると、タンポポの珈琲とお茶が配られる。眼帯の娘さんは、寝っ転がって煙草をふかしている。背の高い女もぼんやりと薄く曇った夜空と時折、煌めく星明りを眺めているようだったが、牧者の娘に視線を向けて、短く言葉を投げかけた。
「先日、市庁舎での説明会に参加していたかな?」
「それと、スタンフィールド氏の邸宅にもお伺いしました」ジーナ・クレイが返すと、背の高い女もやっと思い出したように頷いた。
「ああ、出資を頼んできたけれど、一度、断っていたな」背の高い女は淡々と呟いて、傍らで聞き耳を立てていた少女たちに説明する。
「牛を輸送する居留地の仕事があるのは、二人も聞いているね?」顔を見合わせた少女たち。一人はスノーゴーグルを付けていて表情が分かりにくく、もう一人はかなり整った顔立ちをしているが、やや胡散臭そうにジーナ・クレイを眺めていた。
「報酬はかなりのものだ。成功すれば、十頭の羊を持てるかもしれない」背の高い女が牛の輸送任務について投資を求められた話を告げてから、「しかし、少し危ういと思えるので手を出す気はない」
ジーナ・クレイが思わず口を挟みそうになった時、背の高い女がスプーンで話を遮るように先手を取って言った。「もう一度、話を聞いてみてもいいよ」と告げるも、
「出資するとは限らないが、食事は此方の奢りだ。まるきりの時間の無駄ではないだろう」と同時に釘をさしてくる。
牧者の娘ジーナは、考え込みながら、脳内で話の順序を組み立ててから口を開いた。「羊からは、羊毛と乳、チーズと肉が採れます」まずは提示できる利益と見返りから示すべきだろう。
牧者は、居留地から羊を預かって、その代わりに食料や薪、弾薬に衣服なんかを受け取って暮らしている。冬は、貯めた干し草を食べさせながら、屋根の下で過ごさせてもらう。単独や数人で放浪している牧者もいれば、家族単位の小氏族もいるし、数十人の集団もいる。農家や農場と契約する羊飼いもいれば、居留地と契約できた氏族もいる。土地や力関係、牧草地の広さによって、契約内容は様々に変化している。
ポレシャ一帯では、居留地が羊毛の三分の二を取って、三分の一が牧者のものとなる配分が一般的な通例となっていた。羊飼い自前の羊の場合は、牧草地の代金で羊毛の三分の一と幾らかのチーズを支払う。とは言え、誤魔化したり、羊が痩せ過ぎたり、あとは自前の羊ばかりになると、牧草地の主が羊飼いとの契約を打ち切ることも珍しくはなく、自前の羊を揃えてる牧者たちでも、最終的な取り分は実質、五分五分ほどで落ち着くことが多い。辺土で有力な居領地ポレシャの側が力関係が上だし、契約を打ち切って他の牧者衆を選ぶ選択肢が常に残っているからだ。
牧者の娘ジーナ・クレイは、再び羊の群れを持てたなら、出資者に対して毎年一定量の羊毛を割安で提供する契約を提示していた。この契約は、公証人の立ち会いのもとで正式に書面に残される。羊毛はズールをはじめとする大都市では高値で取引される。行商人にとっても決して損にはならない取引となる。
「そして牛を運ぶ自信はある」とジーナは説明している。
背の高い女は考え込んでから、問いかける口調で反駁してきた。
「ポレシャは、過去に何度か家畜市などで牛を買い足そうと試みてる。過半は成功しているものの、失敗も無視できない程度には多い」
「素人が挑んだから」ジーナ・クレイは断言した。
強い視線で背の高い女を見つめ、「牛には綺麗な水が必要で、わたしは水場を知っている。牧者が使える休憩所や宿営地を知っています」根拠を口にする。
ふむ、と懐から大きな地図を取り出した背の高い女は、目の前に広げて考え込んでいる。少し考えてから、自由都市とポレシャを結ぶ経路に鉛筆で線を引いた。
「牧草地は主に北から東の一帯に広がっている。西へ旅したことは?」 地図を見つめたまま、ジーナに問いかけてくる。
「ない。でも、話は聞いている」とジーナ。
「話は聞いている、か」背の高い女は難しい表情を浮かべて、鉛筆を軽く回した。少し間を置いて「牛を運ぶ経路は?」質問の切り口を変えてきた。
僅かに緊張を顕わにしてジーナ・クレイは口籠った。水場や休憩地の位置、合言葉などの伝手や情報は、牧者にとって商売の種で命綱であったから、例えスポンサーに対してでも明かすのは躊躇われた。
「それは牛の輸送任務の肝になる。話せば其の儘、私無しでも牛を運べるから、信用してもらうしかない。実際に旅を一緒にするまでは明かせない」
怪訝そうな表情を浮かべた背の高い女だが「神は細部に宿るか」などとよく分からない呟きを洩らしてから「大まかなルートで構わない。職業上の秘密を洩らさない範囲でな」と地図を示し、鉛筆を渡してきた。これで断れば、流石に角が立つだろうとジーナも折れた。
「ズールまでは一日、牛の足で鈍っても二日あればたどり着ける」ジーナが言いながら、丘陵を越えて自由都市までの簡単な旅程を鉛筆で記すと、背の高い女は、じっとジーナを凝視してきた。
驚いたジーナだが、兎も角も、気持ちで負けないようにじっと見つめ返した。背の高い女は、何度か小さく頷いて「なるほど。上手くいくといいね」と告げて優しげに微笑んだ。それが、金は出せないと告げた時の雑貨の老店主とあまりにも似たような笑みだったので、ジーナは思わず立ち上がった。目を瞠った背の高い女の手に、手品のように手斧が握られた。一瞬だけ遅れて、少女たちがクロスボウを構えてジーナに狙いを定める。
でも、ジーナは、怯まずに。正直言えば、向けられた武器など意識の外にあった。
「な、なにが悪かったの?」震える声でジーナは尋ねた。背の高い女は、手斧を手にしたまま、僅かに逡巡の表情を見せた。
「まず、座って」と言われたジーナは脱力するように丸太に座り込んだ。背の高い女も、手斧をしまい込んだ。ジーナを凝視しながら、しばしの間、真剣な表情で考え込んでいたが、ため息を吐きながら頭を掻いた。
「……家畜市が開かれるズールとポレシャは、確かに徒歩一日。ただし、最短経路を通るならの話だね」背の高い女は鉛筆を手に取った。時折、ジーナに視線を向けながら、淡々と説明を続ける。
「……巨大蟻の巣窟、屍者の彷徨う廃都近くの街道。盗賊の縄張り。変異獣の出没する一帯。狼の棲息する森林。巨大サソリの産卵地」地図上に書き込みながら、問題点を指摘しつつ、ジーナに対して質問を放ってきた。
「街道上に盗賊団が幾つある?縄張りの範囲は?都市警備隊の巡回時刻と範囲に関しては?」ジーナは何一つ答えられなかった。
「牛は、東の丘陵地帯を抜けられるのか?過去に失敗した買い付けの四割が丘陵で牛を失い、四割が盗賊に掠め取られている。ポレシャは過去の買い付けの資料を公開しているが、君は一度でも確かめたか?」
沈黙した牧者の娘に一言「見通しが甘すぎる」と背の高い女は多少のいら立ちを込め、吐き捨てた。焚火の炎が小さくパチパチと音を立てて揺れていた
「助力は貰えませんね」炎を見つめながら、ジーナ・クレイは力なく呟いた。
背の高い女は、前髪をかきあげた。
「助けるの定義によります。そも、私はあなたを知らない。あなたも私を知らない」淡々とした呟きに、肩を落としたジーナは反応しなかった。
「……世には恩を仇で返す人間もいて、喋り過ぎた気もする。私も踏み台にはされたくない」酷い言い草にも思えたが、ジーナは腹を立てなかった。背の高い女の用心深さは、流石に世慣れた行商人の感覚で、多分に当然の警戒心なのだろう。己の計画の甘さでさえ、指摘されなければ、世慣れぬジーナは気づくことも出来なかったのだ。
牛の輸送を引き受けた失業中の元牧者は何人もいるが、知己たちの誰一人もこんな風に親切には教えてくれなかった。其処の道理を勘違いするほど、ジーナは厚顔ではなかった。はあ、と溜息を洩らしたジーナは、力なく笑った。虚脱したような感覚に自棄にも成れず、静かに頬を涙が零れ落ちた。他の四人の視線を感じる。少しだけ羞恥を覚えた。鼻を噛んで、ぐしぐしと涙を拭うと「色々と参考になった。親切してくれて、ありがとう」と背の高い女に告げた。流石に参ったけれど、牧者の娘は、まだ、諦めた訳ではない。
背の高い女は、ジーナを値踏みするようにじっと眺めていた。
「世慣れてないな……」苦笑を浮かべて牧者の娘に語り掛ける。
「牛を買い付けて、運んでくると言う話であれば、乗る気にはなれません。ですが……」言葉を区切って、少し考えてから頷いた。
「牛の輸送云々は兎も角として、あなたの生活が成り立つように協力してもいい」
言いつつ、手を差し出してくる。
「マルグリット。マルグリット・モイラ。行商人で保安官助手、渡り人」と背の高い女の突然の自己紹介に、ジーナ・クレイは戸惑ったように目を瞬いたが、頷き返すと改めて名を名乗った。
「ジーナ・クレイです。失業中の牧者、羊飼い、サゾ氏族。羊は持っていませんが、ポレシャの牧者株は持っています」
「取りあえずは、お互いの事を知ることから始めましょう」行商人で保安官助手マルグリットは突然、気が変わったらしい。兎に角、これはなんらかのチャンスだろう。ジーナは少し緊張しながらも頷いた。




