03_56B マギーちゃんの善行
羊の群れは、おおよそ4~6年ほどで倍に増える。ポレシャ市が抱えている百頭の羊は、いずれ二百頭になり、四百頭にもなるだろう。今、居留地で牧童として働いている幸運な一握りの者らは、羊が増えたら呼び戻すと仲間たちに約束した。
確かに一人、二人と呼び戻されている。だが、人数は微々たるものだった。ジーナ・クレイが呼び戻されるとして、それは何時になるだろうか?十年後か、或いは二十年後か。その頃には、牧者の若者らも結婚するし、弟や妹だって成長している。そうしたら昔の仲間よりも、身内に仕事を廻してやりたいと思うが人情ではないだろうか、ともジーナは危惧してるのだ。
もうすでにその兆候はあった。先刻、市庁舎の近くを通り過ぎた際、見覚えのある若い少女が牧者株を貰って喜んでいた。無邪気に祝福する少年少女の輪の中、連れ添っていた年長の牧者はジーナに気づくと、気まずそうに顔を伏せて慌てて離れていった。
心臓が冷たい手に掴まれたような感覚を抱きながら、昔の仲間に切り捨てられた、と、悟らされるのは辛い事だ。
ポレシャ市は、それなりに広大な牧草地を抱えていたが、それでも養える羊の数には限りがある。一方で、幼い頃から羊と共に放浪暮らししてきた牧者は存外、潰しが効かない。市民や正規居住者と違って、牧者たちは高等教育など受けていない。中世さながらの暮らしをしてきたのだ。中には、仲間もおらず、武装の弾薬も払底していたのに、野外にふらっと出かけて、そのまま戻らなかった者もいる。
ジーナ・クレイも、若いけれど潰しが効かない部類に入っていた。ずっと野外で暮らしてきて、定住生活にはどうにも落ち着かない気分となる。だけれど、ジーナに有力な身内はいない。ただ一人の身内だった叔父は巨大蟻に喰われて亡くなってしまった。仮に牧者たちが『約束』を反故にしても、ジーナの為に怒ってくれる人間は誰もいない。身内に職を与えたいと今の牧者衆が考えるなら、まず最初に切るのはジーナだと思えた。
居留地が抱えられる牧者の数にも、どうやったって限界はある。ジーナは出来るだけ早く、復帰したかった。牧者株を持ってるからと安穏としていても、仕事が戻ってくるとは思えなかった。年下の者らだって育ってくるのだ。その為に手っ取り早いのは、ジーナ自身で羊の群れを揃え、牧童たちに合流する事だ。
独立した牧者として、他の牧者集団に合流するには、何頭の羊が必要かをジーナは指を折りながら考えてみた。最低でも十頭。出来れば、二十頭を抱えておきたい。それだけの羊を飼うか、預けてもらわないと、牧者として独り立ちは出来ないし、雇われの身だとしても採算が取れない。羊一匹で四十から六十都市クレジット程。つまり、牧者に復帰するには、羊たちを購うだけでも八百から千二百都市クレジットと言う大金が必要となる。装備や武装、犬などを除いてだ。二進も三進もいかない。
ジーナが普通に働いた際の日当が十五から二十二クレジット。居留地の労働通貨で。日の食費が五クレジット。しかも、毎日、仕事にありつける訳ではない。週に四日仕事に有りつけて、服を繕ったり、薪を買うとか、その他いろいろを考えて、貯められるのは月に百クレジット。石鹸や服の修繕、冬に着衣を借りる金だってある。その他を色々と節約して、冬越えに必要な金が五百から六百。労働通貨を居留地の正規通貨に両替すると1割ほど目減りする。これを都市通貨に切り替えるとさらに1割ほど減る。無理だ、これ。
ジーナは二年で三百クレジットを貯めていた。服の裏地に紙幣を縫い込んである。地区の食糧クレジットだけど、二か月くらいは食い繋げる。かなり頑張って二年で三百クレジット。
毎月、五十地区クレジットを貯めれば、三年間で1200都市クレジットも不可能ではない。両替で減額してもなんとか蓄えられる。他の土地だが、似たような状況で羊を買い揃えて、牧者に復帰した若夫婦もいるそうだ。病気もなく、事故もなく、毎日を仕事を探して歩き回り、仕事のない日は身体を休めて、煙草も呑まず、退屈な冬の間、気晴らしの賭博もせず、映画も見ないし、賭け試合にも行かない。冷え込む日に酒も飲まず、暖かなスープやお粥のお替わりを我慢し、お茶、珈琲も甘味も控えめにして。寒さに震えた時も、薪や木炭ではなく炭団子で耐え忍ぶ。やっぱり、無理だわ。世の中には、出来る奴もやる奴もいる。だけど、ジーナには無理だ。そんな鉄の意志は持てない。ストイックの権化にはなれない。
だけど、どうすればいいんだろうか?十年先。二十年先。牧者に戻れなかったら、廃墟で終わる。死に物狂いで金を貯めるしかない。稼ぐではなく、儲ける方法はないものか。或いは、羊を少しずつ買い足していき、預ける事が出来る仕組みなどはないだろうか?いや、そんなものはない。黄昏の世に資源は有限だった。牧草地が限られてるのに、他者の参入を促すような仕組みを牧者たちが許容するはずがない。羊肉は卸しても、子羊は売りたくない筈だ。よしんば農家や市民が買うのは許容できても、牧草地への参入は許さない。居留地の牧草地は、ずっと居留地に奉仕してきた牧者衆のものだ。それは血と汗で贖ってきた権利であって、ジーナだって他所の牧者衆が参入してきたら、気が狂いそうに抗議するだろう。
やはり金を貯めるしかない。困難だけど、不可能ではないのだ。しばしば、やり抜く世人がいる程度の厳しい状況で、しかし、ジーナ・クレイは確信が持てなかった。我慢をすれば、本当に報われて、幸せになれるのか。金を奪われたり、失われて、お終いではないのか。何度も痛めつけられ、奪われたことから、ジーナからは人生の苦難に立ち向かう力が枯渇しつつあったのかも知れない。
防壁に間近な門前町においては、住人たちは他の地区とは比較にならない安全で裕福な暮らしを営んでいる。独自通貨さえ発行して、薪や食料は勿論、衣服や武装、日用品から建築資材さえも揃えられる門前地区は、もしかしたらポレシャ市で最も活気に満ちた商業区かも知れない。巨大蟻襲来の以前、牧者たちはポレシャ市を定期的に訪れてはチーズや羊毛、羊肉を取引していた。俸給の一部を現物で受け取っていた羊飼いたちは、門前地区の商人たちに負けないほどに景気がよかったし、若いジーナも、主に荷運びや雑用を担う立場ではあったが、牧者衆の一員として度々、取引に同伴して幾人かの商人たちと顔を合わせていた。
仕事を貰えないか、ジーナは以前の知り合いが務める店舗を廻ってご機嫌伺いをして巡ってみた。牧者時代に幾らかの付き合いがあった人々だが、ジーナを見る表情はかつてのような親しみを帯びてはいなかった。
「今は人を雇う余裕がないんだよ」「人手は足りてるんだ」「景気が良くなったら声を懸けるよ」どの店でも、決まり文句のように同じような返事を聞かされた。しかし、それは当たり前の話であって、店舗に羊毛やチーズを卸しに来る独立独歩の羊飼いと、縋るようにやってくる元牧者への対応が異なるのは無理からぬことだった。
(今日は、もう一店舗だけ廻ろう。それから。それから……)ジーナの足が止まった。
「それから……どうすればいいんだろうか」途方に暮れたようにジーナ・クレイは呟いた。
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市民街区に足を踏み入れる度、まるで空気そのものが一瞬で変わるような感覚にマギーは捉われる。盗賊や無法者にとっては、きっと威圧的な威容に過ぎぬコンクリートと古い建造物を組み合わせた堅牢な防壁は、しかし、良民にとって、これほどに安心感を与える心強い風景はないに違いあるまい。
腕利きの常雇い傭兵たちに守られたトンネルを通り過ぎるや、ピリピリと肌を刺激する外の荒れた空気や危険な気配は綺麗に消え去って、代わりになんとも言えぬ、ぬるま湯のような雰囲気が心身に纏わりついてくる。
それはきっと、遠い昔に社会から失われたはずの平和の匂いなのだとマギーは思うが、しかし、曠野の地の平和とは、嵐の前の静けさのようなもので、決して長く続くものではない。
それでも、懐かしい平和の残りが防壁内にはいまだ漂っていた。或いは、文明社会の息吹というものだろうか。勿論、市民街区にも犯罪は起きるし、怪物が迷い込むことはあるが、世界から失われつつある貴重で平穏な日々が、確かにここでは息づいていたのだ。
マギーちゃんは、善良な人物なので勿論、市民区画の雰囲気を心地よく感じる。しかし、子供の時分に痛めつけられた居留地などは、焼き払ってやりたいと憎んだ時期も存在していた。その意味で、放浪者や無法者たちの思考や気持ちを理解できないでもない。心がふたつある、というやつだ。マギーに限ったことではない。人間を形作るのは、歩んできた人生だった。安全な市民区画だけで平穏な暮らしていると、平和に暮らしていると言う理由だけで憎悪を向ける者たちの心情などは、想像できなくなるかも知れない。
兎も角、マギーちゃんはポレシャ市を気に入っていた。此の平和を長く続かせたいものだな、と考えているし、あと十年もあれば、居留地に警戒されない程度で、かつ、ある程度の武装と経済力を備えた徒党を築けるとも内心、目算していた。やや野心に欠ける側面はあるけれども、自分ができる範囲で現実的な目標を設定し、着実に歩みを進めているタイプのマギーちゃんは、周囲に軋轢や不信感を与えずに力を蓄えて、調和を保ちながら社会に良い働きを出来るだろう。その前に、ポレシャ市を脅かす規模の大きな脅威や災厄が降り懸からなければ、だが。
マギーちゃんは、保安官助手である。同時に、本業は行商人でもあった。腕の立つガンマンやら斥候が、パートタイムの保安官助手や民兵などに任命される掛け持ちは、曠野の地ではよく聞く事例であって、行商人としても間違いなく腕利きであったから、保安官事務所の上役や同僚たちも、基本的には任務中以外のマギーに対して行商人に対するような距離感を保っていた。
副保安官のローランズ氏には年少の可愛い姪っ子がいて、もうじき誕生日なのに仕事が忙しくて買ってないと愚痴られたマギーちゃんは、贈り物するに絶好な逸品の心当たりがあった。ローランズ氏を誘って雑貨屋へと赴いたマギーちゃんの目当ては、猫やら犬やらの可愛らしい縫い包みで、これは自由都市の蚤の市でマギー本人が仕入れて売りつけた品である。
「マスター、ぬいぐるみ一丁」入って早々、雑貨屋の爺さんに告げるマギーだが、爺さんはマギーの腹を見てから「妊娠したんか?」尋ねてきた。
「食べ過ぎた」頷いたマギーちゃん「大丈夫、一時間くらいでへこむ」と言った。
「人体、凄いな」爺さんが顎を撫でた。兎も角も、ぬいぐるみである。
中古のぬいぐるみには、ノミやらダニやらついてる可能性があるがビニール袋に入れて24時間から48時間、冷蔵庫で保管することで卵まで死滅させることが出来る。処理を終えたばかりの品を売ることを雑貨屋は渋ったが、マギーちゃんは、兎に角、贈り物を買っておけば、最悪の事態は免れるのだと力説して、副保安官に犬と猫のコンビを買わせたのだった。
雑貨店の棚には、色とりどりの商品が整然と並んでいるが、それでも空きが多く、どこか薄暗くて、陰鬱な空気が漂っている。黄昏の世に新品が棚を満たす光景など、大きな都市の高級店に行かなければ見られないものだ。片手鍋やら、鉄パイプやらが、自由労働者の数日分の日当で売っているのは西部開拓時代めいた物価だが、それでも誰でも入れる雑貨屋としては、近隣一帯で破格の品揃えの良さであった。
棚の上には使い古された道具や、誰も手に取らなかったであろう日用品が無造作に積まれている。一部は、壊れかけているものもあるが、例えば廃墟民やら浮浪者は愚か、渡り人などにとっても、手に入れられるならありがたいものだった。小さな農村など、鉄の釘の数本すらすぐに手に入らずに、数倍の値段で売ってることもある。客の姿もまばらで、品物を手に取りながらも、ため息交じりに棚に戻す農民や自由労働者の姿も目立っていた。
肥満した副保安官が、可愛らしいぬいぐるみを二つ抱えて持った。人の子どもを捕まえた人食い猿みたいだな、とマギーは失礼なことを考えつつ、姪御さんもきっと喜びますよと、本音で告げた。なぜなら、マギーは可愛いものが好きで、一家言あったからだ。本来なら、自分で欲しかったくらいだが、180センチ超えで筋骨隆々の成人女性に似合わないのは分かっていたし、可愛い子供にぬいぐるみを送り込むのは、マギーにとっては素晴らしい善行であったのだ。
ローランズ副保安官が、マギーに礼を言ってると、また真鍮製のドアベルが鳴って新たな来客を知らせてくれた。店の扉を押してジーナ・クレイが店内へと入ってきた。閉じられる扉の音が、店内に響く。失業した牧者の娘と、カウンターにいた老店主の目が合った。爺さんの顔には、無関心とも言える表情が浮かんでいるが、ジーナは佇んだまま軽く唇を舐めた。
「いらっしゃい」店主が無愛想に声をかけると、ジーナは息を吸い込み、腰を低くして声をかけた。「こんにちは。仕事を探しているんです。ここで、何か手伝えることがあればと思って」




