03_56A 草原に還る
蜘蛛猿という怪物がいる。日本語でクモザルと名付けられた哺乳綱 霊長目Atelesとは、まったく別種の怪物で、巨大な体躯を持った毛むくじゃらの肉体を有しており、無毛の顔面の前方に複数の円らな瞳が目目目目目目目目目目目目というように配置されている。横に広がる口もまた鉄のように黒光りする巨大な歯が配列している。腕は六本。一本一本が柔な蒸気騎士の装甲であれば解体できる出来るほどに力強い。
多眼・多腕の此の怪物は、卵生で繁殖力が強く、極めて高い知性の持ち主で、飛び道具は勿論、盾を使って居留地の防備へと接近し、奪った対戦車ライフルを用いることすらある。人間以上ではないが、人間に迫る程度の知性の持ち主で、しかも、恐ろしく反射神経と視力がよく、撃たれたライフルを避けさえする。好んで行う投石ですら、人間にとっては充分、致命的で、WW1級の戦車を持つハンターでさえ、返り討ちに遭っている。
蜘蛛猿が繁殖領域を広げないのは偶々、近くに相性的に最悪の寄生生物が生息している事と(人間にとっても最悪の生物なのだが、駆逐できないでいる)、毛むくじゃらにも関わらず連中は寒さに弱く、また大量の食糧を必要とする為に、不毛の地へと進出できないでいる事だ。
落とされた爆弾さえ撃ち落とす動体視力の持ち主でも、棲息できない寒さにはどうしようもならない。連中に遭う服はないし、蜘蛛猿どもは住居を作ろうともしない。
今のところは、だが。
不気味な写真があって、蜘蛛猿の尻尾の針が脳天に突き刺さった人間と、蜘蛛猿のように顔が変化した人間たちの写真が存在している。多分に悪趣味な誰かの作った写真だと思うが、似たような能力を持つ変異体とも存在していて、蜘蛛猿が他所の土地に迂闊に出ないのも、そうした怪物を恐れているからだと言う話もある。或いは、新種のクモザルやクモザルを母体とした寄生種のハイブリッドモンスターも誕生しているかも知れない。
「つまりリスクを恐れない勇敢な者が最終的な勝者になるんだよ!」
「いや、それはおかしい」
マギーちゃんが食堂でサンドイッチと鶏肉のパテ、ピザとポタージュスープの食事を取っていたら、隣席で金を貸してくれ、いや、貸さないと話し合いが始まっていた。そこから蜘蛛猿に絡めて、金を出す勇気!ともっていた弁舌は中々、聞かせるものがあったけど同時に、お前、本気で金を引っ張り出そうとは思ってないだろと隣で聞いてるだけの人でも結論せざるを得なかった。
今日のマギーとニナは別行動している。ニナはトリスと一緒に、廃墟の知り合いの子供徒党へと商品を売り込みに行っている。精度の高いルガリエ製のクロスボウで、町外れ地区に近い廃屋で取引するそうだ。ニナが順調に胡散臭い武器商人への道を歩いているようで、マギーは少し不安になった。とは言え、知り合いに低威力の武器を行商しているだけならば、まだ、普通の商人の範疇だろう。
蜘蛛猿の噂はマギーも聞いたことがあるが、凄まじい怪物ぶりは寡聞にして知らなかった。まるで妖怪だが、もっとも人伝に伝播するうちに、他の怪物の逸話と混ざったり、噂が過大になるのもありふれた現象だ。マギーだって、それほど大した腕前でもないのに、伝説の賞金稼ぎスネイクバイトの話を聞いてこそばゆい想いをする事がある。鉄腕ジェイクだって、あっさり倒したように思えるが、マギーが敗れていても不思議のない相手でもあったのだ。
追加で豆のサラダとチーズオムレツ、パンにチキンステーキを注文しながら、マギーは思い耽っていた。マギーは結局のところ、牧者のジーナさんからの依頼を断っていた。街道筋の隠れ家や休息地の提供というのは、確かに魅力的な報酬ではあったが、今現在のリスクを取る理由にはなり得なかったのだ。
一つには、手持ちの地図の精度が目に見えて向上し、殆んどの盗賊からの接触を避けられる水準にまでは達したのもある。一度、遭遇した場所が危険というに留まらず、マギーの地図では盗賊の本拠と、そこから進出する時間と場所の割り出しにほぼ成功しつつあった。殆んどの盗賊を高確率で避けられる現状、追い剥ぎ程度であれば、撃退できるのであれば、今さら、他人の隠れ家を当てにする理由も弱いと言うものだった。加えて、今のマギーは普通に働いているだけで、年収一万クレジットは堅かった。もしかしたら、二万クレジットに届くかもしれない。二、三年前なら兎も角、すでに危険な賭けに乗る動機など殆んど無くなっていたのだ。
牧者のジーナさんは、あまり落胆した様子は見せなかった。或いは、薄々とは予想していたのかも知れない。降って湧いた大きな仕事に、居留地の一部界隈は沸き立っているものの、引き受けるのは、どうにも腕の良くない行商人や、食い詰めた元牧者などが多く、まさか間引きという思惑はなかろうが、居留地にとって失って惜しくない人々が多く参加しているように見える。成功すればよし、失敗しても痛手は限定的という訳だ。それとも邪推かな?
いずれにせよ、マギーは、勿体ないと感じずにはいられなかった。背に腹は代えられないとは言え、牧者のジーナさんだけでなく、他にも少なからず不運に見舞われなければ、きちんと生活を送れただろう人々が乾坤一擲の賭けをせざるを得ない状況に追い込まれていたからだ。とは言え、危険な仕事とはいえ、幸運を掴める機会が巡ってきたのは、一部の人々にとってけして悪い話でもないのだろうか。マギーには、何とも判断がつかなかった。
ここ最近、町中を歩いていても、金を出すだの、貸してくれだのと万事、金に絡んだ言葉が耳に入ってきて、マギーはうんざりしていた。マギーに金を貸してくれ、と頼み込んできた馬鹿者もいた。例の仕事絡みだろう。勿論、断った。金を出し合って、腕の立つ身内を送り出そうと考えている者たちもいるようだ。一頭の牛を買うのに、八百から千二百クレジットほどだろうか?雄牛で5割り増しと言ったところだろう。金を出し合えば渡り人や自由労働者でも工面できない金でもない。サドランの牛は、もっと高いだろうし、気性の荒い雄牛を連れ帰るのは困難だろうが、成功する見込みも皆無ではないのだ。
「兄さん、金を貸してくれよ!」「馬鹿を言うな!真面目に働け!」小声で怒鳴り合いながら、食堂へとまた一組の客が入ってきた。
「十年働いても、ずっと部屋住みじゃないか!好機なんだよ!一人前になりたいんだ。纏まった金があれば、サリーナに結婚を申し込める」若い青年に食い下がられているふくよかな男性は、なんと、副保安官ローランズ氏であった。パートタイムの保安官助手であるマギーにとって、上司は保安官のみであるが一応、職場の上役に当たる相手だった。
食い下がられていたローランズ氏が天を仰いだ。「……二千、いや俺に出せるのは千五百だ。それ以上は自分で都合を付けろ」苦渋の表情を浮かべながら、ついにローランズ氏が告げると、「ありがとう!兄さん!ありがとう!」青年は飛び上がって礼を言った。
席についたローランズ氏は、ふう、と長く苦しげな溜息を洩らした。身内が、危険な仕事に手を出そうとしている。しかし、勝ち目もあるので、ローランズ氏も苦しい局面には違いない。ふと、マギーに気づいたようにローランズ氏が会釈したので、他人事と思いつつも、マギーは同情を込めた視線で頷き返した。
「あれは、父の後添えの連れ子で……一人、血が繋がらないのですが、憎めない奴です。誰もがついつい、甘やかしがちになってしまい、独り立ちの際、父からもそれなりの財産を分けたのですが、悪い友人に騙されたとのことで……」十分後、何故か、マギーはローランズ副保安官の弟に関する愚痴に耳を傾けていた。休暇の日に職場の上司にあったからと言って、迂闊に挨拶してはならぬのだ。
「血の繋がらない兄弟でも家族仲がいいのは素晴らしい事ですよ。もう少し厳しくするべきだったかも知れませんが、嫌われるのが恐かったのも理解できます」無難な事しか言えないマギー。嘘もつきたくないので、お茶を濁してしまう。
三杯目の山盛りのポテトピューレを平らげながら、珍しく陰気な表情のローランズ副保安官。マギーは意外と話しやすい人だとよく言われるが、本人からみれば、油断すると何故か、他人の愚痴を延々と聞かされる役割になるのだ。此の侭、愚痴が続いては溜まらないので、二個目のハンバーガーをつまみながら、マギーは話を切り替えた。
「……話は変わりますが、今回の牛の輸送。どう思いますか?」
二杯目の豆スープを飲み干したローランズ副保安官が顔を引き締めて、考えながらぽつぽつと話し始めた。
「……四十頭ですか。中途半端ですが、そんなものでしょう。遺伝的多様性を維持するには、100頭は欲しいんですがね。半分が雄牛でもね。サドラン牛でも、近場の牛と混血させれば、体躯は小さくなっていきますから」
「富農もお金は出すでしょうし、百頭ほど買うように陳情なさらないんですか?」ハンバーグを食べ終わったマギーが首を傾げたが、ローランズ副保安官は指を折りながら、牛の難しさを語った。
「牛はね、水を飲みます。一頭につき、四十~六十リットルの水が必要なんですよ。
百頭なら四トンから六トン。日に十キロから十五キロの干し草を食べ、ほぼ同量の糞を出します。一定量なら良質の肥料として処理できますが、百頭となると色々と面倒を見れません。農地の広さからしても、そんなに必要ないんです」
人手が掛かると言い、ポレシャの耕地面積がおよそ二百ヘクタールだと告げてから「新しい農地を切り開くのも、現状でもう充分です。麦を増産しても、値下がりするだけですし」告げたローランズ副保安官は、地域経済や畜産事情にも通じている人物のようだ。
「輸送のリスクも……犠牲は出るでしょうが十頭、二十頭でも買い入れれば、農作業も大分楽になります。蟻で牛を失ってから大分、休耕地も増えてましたからね」ローランズ副保安官はふくよかな腹を動かしながら、飲み物のストローで机に巧みに牛の絵を描いてみせた。「サドランの牛は、あれはいいものです」
「それほどいいものですか?サドランの牛は」パスタを食べる手を休めてマギーが尋ねると、「力強く、粗食に耐え、厳しい環境にも参らない」ミートローフを食べ終わったローランズは大きく頷いた。
食堂の店員が恐ろしいものでも見るかのようにマギーと副保安官を眺めながら、運んできたサンドイッチを二皿置いた。同時に手を伸ばす。
「サドランはかなり古い遊牧民の一族で、秘伝と呼ばれる育成方法で品種改良を重ねています」ローランズ副保安官の知識に、「それは知らなかった」呟いたマギーだが、無知なだけだと軽んじられかねないので、元行商人の知識を返して会話を繋げる。
「私が知ってるのは、巡回する都市には、定住している一族のものがいるという事。
外部と接触する際には、その人物をマネージャーとすること。大規模な定期市の前には、先触れとして数人の斥候を兼ねた年長者が入り込むこと。場合によっては、その人たちと商売が出来るかもしれない」
ローランズ副保安官は、興味深そうに鼻の穴を蠢かせたが、それがマギーの知識に関心を示したのか、運ばれてきた分厚いポークソテエにそそられたのかは分からなかった。
「来週には、最初の牛が届くでしょう。セッションは、参加できそうにないなぁ」
来週にも大市が始まったら、街道の盗賊や追い剥ぎ、他所からの蛮族までが街道上に出没して、盗賊行為に励むだろう。面倒なことになりそうだ、とマギーはため息を吐いた。
※※※※
ジーナ・クレイは夢を見ていた。草原と羊の夢だ。広大な草原に散らばって、羊たちが静かに草を食んでいる。風が穏やかに草を揺らし、遠くには山々が薄く浮き上がっていた。空は澄み渡り、春の太陽が高く輝いている。ジーナは羊たちと共に歩き、穏やかな鳴き声を聞きながら、心が安らいでいるのを感じていた。
突然、羊の群れが何かに驚いたように一斉に走り出した。ジーナも後を追いかけようとしたが、羊たちの姿はどんどんと遠ざかっていった。行かないで、そう叫んだ瞬間、ジーナは目を覚ましていた。夢で感じていた静けさと安心感が、手から零れ落ちるように消えていき、ジーナは己の身体を抱きしめて涙を零した。
夢にどんな意味があるのか、ジーナには分からなかったが、羊たちの傍にいた時には、幸福感で満たされていたことは確かだった。
ジーナ・クレイが身を寄せる『アパート』は、崩れかけた廃屋の一角にあった。段ボールや古い布で仕切られた狭い空間に、くたびれたソファと新聞紙、湿った段ボールが敷かれた寝床がいくつも転がっている。窓や壁の穴は、拾い集めた木材や鉄パイプで塞がれ、外からの侵入を防ぐバリケードの役割を果たしていた。誰が作ったのかは知らないが、この簡素な防御がなければ、夜の間に何が忍び込んでくるかも分からない。
ジーナの寝床も一角にある。例え、本物のアパートとは程遠く、ただの寄せ集めの避難所に過ぎないとしても、他の住人たちと同じく、ジーナもまたこの崩れかけた建物を『アパート』と呼んでいた。
乾いた埃の匂いに、わずかに焦げた肉の香りが混じる。部屋の中央では、誰かが小さな焚き火を囲み、すすけた鍋で何かを煮込んでいた。具は少ないのか、煮汁ばかりがぐつぐつと泡を立てている。ぼそぼそとした会話が飛び交い、ときおりくぐもった笑い声が漏れた。壁際では、新聞紙にくるまった誰かが寝息を立てている。毛布は愚か、布でさえ、此処では贅沢品だった。
此処とは、廃墟地域だ。捨てられた者たちが最後にたどり着く、廃墟の浅瀬。人間が暮らせる最低限の領域。元は廃墟寄りの小地区であったが、数年前に変異獣によって壊滅して元小地区の廃墟地区へと降格されていた。
それでも僅かでも秩序があり、廃墟での放浪や路上生活よりは安全なので、ジーナは此処で暮らしていた。なにより家賃が安かった。僅かな雑穀一握りや折れた釘ひとつで数日止まれる宿泊施設は、廃墟以外には存在していない。
ジーナ・クレイは、元牧者であった。数年前の巨大蟻の襲撃で居留地の家畜が甚大な被害を受ける前には、ポレシャ市から羊の群れを託された牧者衆の一員だった。
巨大蟻の襲撃によって、千匹近くいた羊の群れは、二、三十匹まで激減し、おかげでほとんどの牧者たちは職を失ってしまった。市は少しずつ羊を買い足しているものの、巨大蟻の襲来による被害は馬鹿にならず、家畜だけ見ても他に豚や鶏、山羊に馬など食料や労働力、戦力的に見てもっと優先すべき家畜が多いために後回しにされがちであった。羊は重要な資源ではあるが、豚や鶏ほど繁殖が早いわけではなく、肉や卵といった即時の食料供給には向かない。山羊や馬は労働力や移動手段としての価値が高く、復興に欠かせなかった。その為、牧羊事業の再建は優先順位が低く、豚飼いや畜舎、鶏小屋の労働者など比べて元牧者たちの多くは不遇をかこつていた。
それでも羊の数は、百匹ほどまで回復し、牧者たちも十人ほどは雇われているが、最盛期は五十人を数えた牧者の殆んどは、今も働き口がない状態だった。しかも、現状の羊の数には、十人の牧童でも多すぎるほどなのだ。
昔のように羊を暮らしたい。羊を飼いたいなぁ。牧者の仕事に戻りたい、と切実に思いつつ、ジーナは首を振った。町外れに暮らすには、色々と金がかかる。家賃も掛かるし、食べ物も高い。だからと言って廃墟では金は溜まらない。廃墟漁りに混ざったり、茸を育てても、賃金は乏しく、失業した牧者の為に居留地から配給されてる食料券で何とか生き延びているが、それとて次第に減額されつつあった。
牧者として暮らしを立てるには牧草地の手配の他、装備、道具、そして自弁にせよ、預かりものにせよ、羊の群れが必要であった。廃墟から手に入るものや使える道具、物々交換で手に入る品々を少しずつ集めて調達すれば、牧者へ復帰するための足掛かりになるかも知れない。そう考えて頑張ってきたが、見通しが甘かった。廃墟一帯の治安の悪さは、居留地の比ではなく、ジーナは度々、強盗に襲われてなにかしらの物資や食料を奪われたりする。殺されていないのは、運がいいのか。それとも、食料を奪いやすいから敢えて見逃されているのか。今さら小地区に引っ越しても、すでに変な連中に目を付けられてる。大きな地区での生活には色々と物入りだが、こうなると、どちらがマシかも分からなかった。
ジーナと同じように元牧者で、失業中のものは少なくなかった。昔の仲間には、新しい仕事と生活を見つけられた者もいるようだが、一部には新しい生活に慣れずに自暴自棄になったり、身を持ち崩す者、気力を失って日がな一日、ぼうっと過ごす者もいた。新しい生活に馴染めた大半は少年少女であり、市のアパートなどで面倒を見てもらえるのは老人たちで、働き盛りのはずの中年や若者たちが取り残されたのは、野外生活に人生の殆んどを過ごしてきた為に、定住生活に馴染めない者も多かったからだ。
昔の同僚のひとりが、ジーナのすぐ隣の寝床に住んでいた。寝床といっても、ただの段ボールで仕切られた小さな空間に過ぎない。寝床は、ジーナのそれと比べてさえ、荒んで見えた。周りに散らかった破れた新聞紙、破れた段ボール、そして何より、ただじっと座っているだけの肉体には、明るく活発だった過去の面影は見て取れない。髪は絡まり、顔色は悪く、どこか虚ろな目をしている。顔色は悪く、無気力なまま、煙草の煙をゆっくりと吸い込む姿が、どこか遠くを見つめているかのように感じさせる。何度か声をかけてみたが、ほとんど反応はなかった。目を合わせることさえ少なく、返事をしても、空疎な言葉ばかりで、目の前の世界にもう関心がないかのようだ。
ため息を吐いたジーナは立ち上がった。単に生きている以上を望むのなら、仕事を探さなければならない。茸の養殖の手伝いといい、家畜化された巨大鼠の養殖と言った定職は、廃墟であってもやはり伝手のあるものたちが付いている。こんな時代だ。誰だって身内や友人を優先するし、助け合うと言えば聞こえはいいが、それ以外のものに対しては、冷淡かつ無関心にならざるを得ない。
求職所として使われている下層地区の旧駅舎を尋ねるが、壁に張られた紙を探しても、良さげな仕事は中々、見つからない。早いものは夜明けの朝一番で求職書を持っていくし、雇い主たちだって何時もの顔馴染を優先して雇用するに決まってる。見知った相手に仕事を回す方が安全だし、確実だからだ。残された良さげな仕事にも、最低条件として町外れや中町の地区に住んでいることが求められる事が少なくない。居留地の正規地区に住んでいなければ、まずその時点で門前払いのようなもので、現実的に割のいい仕事を手に入れるのは難しい。
天を仰いだジーナは、仕事を貰えないか。知り合いのお店を廻ってみることにした。今月で三度め。或いは四度目だったかも知れない。あまり頻繁に尋ねれば嫌われて、切られるかも知れない。それでも、最低限の身なりを整えて、体力を保つ食事を取るには金が必要だったから、元牧者の娘は市民区画へと足を向けた。
ジーナの服装の襟元には、市の身分証が入念に縫い付けている。牧者と記載されたこれがあれば、無料で市民街区に出入りできる。簡単には奪われないし、無くしても顔は覚えられているとは思うけど、身分証はジーナの唯一の拠り所で、牧者株を所有していると言う証でもあった。或いは空しい望みとしても、この薄い紙きれがあるだけで、いつか、牧者の暮らしに戻れるかも知れないと、ジーナ・クレイは希望を持ち続けられる。この場合、希望は生きる糧でもあった。
Z_275年 五月下旬
8650クレジット




