Ⅵ 翌日夕方、名探偵の謎解きタイム
雨だれによって損なわれたテリィの機嫌を直したものは、喫茶店の軒先で売られている惣菜クレープだった。
薄く焼かれたクレープ生地に巻かれたものは、茹でたウインナーとツナ、卵。「お野菜多めね!」とのリクエストに、ワトソン自身は食べてもいないのに腹部の膨満感を覚えた。よくもそう食えたものだ。
「センセ」
「なぁに」
「ケチャップついてます」
「うん」
言われたテリィは唇を舐めて排除する――が、さらに一口頬張ればまたでろでろに汚れた。ワトソンはもう言わないことにして、彼女の足取りを探偵事務所へと誘導することに専念する。
予告状の日付は明日。つまり、どうせ明日になればテリィにもわかる。今日、街じゅうを歩き回ったところで何にもならないし、そろそろ『向こう』も準備を詰めたい時刻。となると、彼女をあまりうろつかせるのは危険だろう。――と、ワトソンは踏んだ。
「ごちそうさまでした!」
クレープを食べ終えて、包み紙をくしゃくしゃ丸めるテリィの機嫌は引き続き良さそうだ。ゴミ箱を探してあたりを見回す彼女へ、ワトソンが「そろそろ帰りましょうか」と言いかけたとき、
「あら?」
テリィの視線が、ある方向で止まった。
追って見る。するとそこにいたのは、
「エレスだわ」
舌打ちをこらえるためには、相当な労力を必要とした。
人でごった返す道の遠くに、二人が先ほどまでいた喫茶店のウェイトレスがいた。何か、大きな紙袋を提げている。テリィはひたいに手を当てて、背伸びをしてそちらを見た。
「どこに行くのかしら」
「……おおかた、宅配でしょう。あの店は、予約をしておけば、家や指定の場所に届けてくれるサービスもしていますよね」
「いいえ」
ワトソンの推測を、テリィは即座に切って捨てた。
「違うわ。だってそれなら、周囲を警戒するようにあちこち見回したりしないでしょう」
「…………それも、そうですね」
まったくテリシラットという探偵は、余計なときだけ頭が働く御仁である。渋々ながら、同意を返した。
「ですけど、センセ。我々にはサワァニャンの予告状の解明という重要な任務が――」
「ダメよ」
正直なところを言えば、それもまた忘れさせたいところだが、優先順位としてはエレスを意識の外に排除させることの方が先に立つ。
だからそう提案したのに、残念ながら、我らが敬愛する名探偵はかぶりを振った。
そしてこう、愚かな助手に告げるのだ。
「友達に何かあったのなら、それが最優先に決まってるでしょ」
決まっている。
彼女とはそう言いきれる人なのだ。
――今回の予告状は、『だからこそ』と言えるのかもしれないが。
「わかりましたよ」
ため息と、少しばかりの笑みが混じった。
喫茶店を出るときの、エレスの言葉を思い出す。
足下にはどうぞお気をつけて。
だけど、下ばかり見ていても駄目なのよね。
下だけでなく、上も見ろ。
『まるで答えを教えるような』エレスの言葉に、ワトソンは「わかっているよ」と答えた。わかっていてなお、エレス-―たち――を見逃す。つまりそれは、彼女らと手を組んだという意思表示と同義である。
共犯者。
その手前、テリィに今、エレスを追わせるのは気が引けたが――
「……ま、彼女のミスだしな」
「何か言った?」
「いいえ」
エレスがテリィに見つかってしまったのは彼女の落ち度で、ワトソンが責められるいわれはないだろう。
「尾行するなら静かにですね」と忠告すると、彼女は「もちろんよ!」と小声で答え、自分の口を両手でふさぐ。そのときになって初めて、口のケチャップが取りきれていないことに気づいたようだった。
*
今さらのことながら。
テリシラット探偵事務所の業種はもちろん探偵業だ。ただ、残念ながら所長テリシラットは、探偵にふさわしい注意力は持ち合わせていない。
だから顔見知りの姿を人混みの中で、しかも相手に気づかれないように尾行するなんて到底不可能な芸当だし、放っておけば対処の方法がなくなって諦めるのが関の山だったろう。しかし――
「……向こうに行ったようですね」
「ほんと!?」
まったく、ずるいと思う。
見失うたびに泣きそうな顔をするから、ワトソンとしては教えざるを得ないのだ。
追いかけて、見失って、さり気なく誘導して、また見つける。それを繰り返してたどり着いたのは、この街のよく知られた施設だった。
エレスが施設に入っていくのを見届けて、二人は、入口扉の前に立った。
「ここは……」
空を見上げるテリィの表情にも、声にも、戸惑いが滲んでいる。後ろめたいそぶりを見せながら来なければならないような場所ではなかったからだろう。
助けを求めるように、テリィがワトソンを見る。ワトソンは――
「一応、謎解きだけ、しておきませんか」
「え?」
「あとをつけられて全部バレたなんてオチでは、『謎』も、それを必死で考えただろう『彼ら』も、きっと浮かばれませんので」
意味がわからないらしい。しかし、それでも問題ない。テリィがわからなくたって、事態はきちんと進んでいるのだ。
――さて。
ワトソンは、一枚の紙きれを取り出した。
春の十五日、地を求める乙女像が涙に姿を隠すとき。
大きな手を回し続ける彼の者の下で、お目にかかりたくございます。
怪盗サワァニャン
「予告状ね」
テリィの言葉に、つい、失笑。
答えがわかってしまえば、こんな子供だましのおもちゃのようなもの、予告状と呼ぶのも、まして暗号と呼ぶのも気が引ける。予告状というのはもっと―― 一瞬だけそう思ったけれど、そんな考え方自体が愚の骨頂だとワトソンは自らの思考を叱った。コソ泥の予告状なんて、子どものいたずらと大差ない。
咳払い一つ。
「さて、センセ。ご聡明なセンセのお知恵を拝借しつつ、謎解きをしていきましょう」
「え?」
突然の『謎解き』に目をしばたたかせるテリィには構わず、ワトソンは説明を始める。
「地を求める乙女像。乙女像っていうのは、広場の噴水にある、天に向けて手を差し伸べた像の名称ですけど。これ、地に向けて手を差し伸べて見えるものがあるんです。ご存じでした?」
「え、え? ええと……」
問われたテリィは「地に向けて」「地面」「下」などとぽつぽつ呟いて。
「……乙女像が下を向く? 逆立ちする?」
「いい線ですね。ヒントは、あれです」
水たまり。
あごに手を当て、うつむいて。
「わかった! 水面に映った乙女像ね!」
「そうです。さて、予告状にはさらに問題が続きます」
喜ぶにはまだ早い。ひとつの答えを出して、テリィの脳が回転をやめる前にワトソンは続ける。
「その『地を求める乙女像』が、『涙に姿を隠すとき』が、犯行の予告時間なのです。それはいつでしょう」
「水面に映る乙女像が、姿を消す……」
そしてきちんと動いているときのテリィの頭は、そこまで阿呆や間抜けでない。カーディガンのポケットから愛用の時計を取り出してふたを開け、両手で包んだまま、ワトソンを見上げた。
「……十二時ね?」
「さすがセンセ。ご明察でございます」
広場の噴水は、噴水と言いながらも常に水を噴き上げているわけではない。広場の菓子屋も言っていたように、テリィも、またワトソンも知っているように、一日に一度、正午にだけ水を噴く。
噴き上げられた水は、もちろんのこと落ちてくる。落ちてきた水は噴水の水面を叩き――水面を波立たせ――水面に映った『乙女像』の姿を消すのである。
「さて、時間は判明いたしました。あと一歩です。予告状の、『大きな手を回し続ける彼の者』とは、いったい誰のことなんでしょうね」
「えっと……」
「彼が持つ手は、長い手、短い手。かき集める手……は、ないですが。だけどいずれも、大きいものです。そしてそれを持つ『彼』自身も、また。……我々をいつでも、見下ろしているくらいには」
さすがのテリィも、気づいたようだ。はっ、と、その建物を仰いだ。
長針、短針、秒針。そして、この街で最も大きな時計の針を回し続けている者とは、そう。
この街のランドマークにして、シンボル――
「時計塔……!」
「お見事な推理です、センセ」
及第点。
ワトソンは、ぱち。ぱち。と、気のない拍手を贈った。
「さて、センセ。予告状の謎も解けてすっきりですね。そろそろ事務所に帰りましょう。予告の日付は明日です。今日は早めに寝て明日に備えるのが最もベストな行動かと」
「いいえ」
犯罪者からの予告状の意味が解読できたのなら、明日に備えて策を考えるべきだ……が、そこはテリィであるし、『事情が事情だ』。上手いこと言いくるめて帰宅させたい。
しかし彼女は、ワトソンの提案を却下した。
「まだ解けていない謎があるわ」
「え?」
「エレスはどうして、時計塔にやって来たのかしら」
言う表情は、強張って。
瞳はじっと、時計塔の入口扉を見つめている。
「……時計塔はヴィーアルトン市が管理する建物で、中には大時計のからくりの他、会議室などの施設もあります。そこへの宅配依頼だったのでは」
「そうだとしたら、なぜあんなに周囲を警戒していたの? 普通の食事の注文なら、堂々といつも通り道を歩いたっていいじゃない。なのに、おかしいわ。……まさか、エレス……」
どう説得したものか。ワトソンが考えあぐねているうちに、テリィは勝手に想像を膨らませてしまう。
そして。
やがて出した結論は、ワトソンも、そしておそらく『予告状の差出人』も、想像だにしなかったモノだった。
「エレス……サワァニャンに、何か、弱みでも握られているのかしら」
「んっ?」
「そうだわ、エレス、怪盗サワァニャンに脅されているのかも。それで、『だれにも気づかれないように時計塔にご飯を持ってこい』って言われて」
「怪盗が一般市民を脅してメシの宅配スかセンセ」
「ありえない話じゃないわ。『言うことを聞かなければ、喫茶店の地上げを行うぞ』とか!」
「怪盗って地上げするんスかセンセ」
「そうして弱みを握られたエレスは、ごはんの注文を断れず、泣く泣くごはんを持って時計塔に……だってそうでなかったら、エレスが悪い人間に協力なんてするはずがないもの! こうしてはいられないわ、エレス、今助けに行くからね!」
「あっ、ちょ、センセ――!」
ワトソンが慌てて手を伸ばすもすり抜けて、テリィは時計塔の扉に駆け寄る。火事場の馬鹿力の一種なのか、運動神経は悪いくせ、こういうときの瞬発力は侮れない。
テリィは扉に手を掛けると、一気に開けた。一番奥の部屋、大会議室のドアが開いているのが見える。
そしてさらに間の悪いことに、ちょうどエレスがそこから出てきていたのだった。
「エレス!」
テリィが彼女の名を呼ぶと、エレスがぎょっと目を見開く。直後その視線がワトソンを向いて、罪悪感につい顔を背けた。――俺のせいじゃない。
「て、テリィ、どうしてここに?」
「もう大丈夫よエレス、私、怪盗サワァニャンの予告状の謎を解いてあなたを助けにきたの!」
エレスの尋ねる声は思いきりひっくり返っているけれど、テリィは意にも介さない。
そしてテリィは、彼女の出てきた大会議室の中をキッと睨む。そして。
『名探偵らしく』、朗々と、名乗りを上げた――
「観念しなさい、怪盗サワァニャン! この名探偵テリシラットが、あなたの罪を暴きに来たわ!」
――しかし。
名探偵の口上に返されたものは、追い詰められた怪盗の悲痛な叫びなどではなく、
「あ、あぁっ」
「テリィちゃん! もう来ちゃったの!?」
「『明日』って予告状作ったのに!」
「……えっ?」
テリィもよく知った声たちの、戸惑いと驚き。
室内にいたのは、猫耳シルクハットの青年ではない。街の住人、菓子屋、子どもたち――テリシラット探偵事務所に、仕事を依頼してくる面々。先日の猫探しの依頼人や、警察官セルジュの姿もある。
テリィがエレスを見ると、エレスは困ったように笑った。どう説明したものか迷っている様子だ。
かくいうワトソンも、テリィにどう告げたものやら――考えていると、「どうも、ワトソン君」と声をかけられた。気づくと隣に、セルジュが立っていた。
「エレスさんに『わかっている』とおっしゃった、と伺ったけれど?」
「…………センセの突飛な行動を制御するのは、なかなか難しいものでして」
力不足を認めるようで癪だ、と思いながらもそうとしか答えられないのだから仕方ない。屈辱を噛み締めながら口を開けば、声は押し殺したようなものになった。ちくしょう。
とはいえ――ここが喧嘩をするにふさわしいところではないことは、明白だ。
「ど、どういうこと……?」
現状を理解できていないのは、テリィ一人だけ。
その『名探偵』のポンコツたるや、筆舌に尽くしがたい。よく周りを見れば、すぐに理解できるだろうに――テリィの困惑した問いかけを受けて、ワトソンは室内に視線を巡らせた。
設置されたいくつかの丸テーブル。そのうちの一脚に、エレスが先ほど抱えていた大きな紙袋が置かれていて、中には真っ白な布が入っている。きっと、テーブルクロスだろう。きっと、明日にはたくさんの料理が並べられる手はずになっているのだ。
その他にも、折り紙で作られた輪飾りや、花を飾るための花瓶、火のないキャンドル、膨らましていない風船、ぬいぐるみ。どれもこれも準備中で、あちこち雑多に置かれたままでいるけれど――
飾りつけのメインとなるのであろう天井飾りだけは、すでにつるされていた。
天井飾りには、大きな大きな文字が書かれている。
ワトソンは腰をかがめ、視線の高さを合わせると。
明日の主役の視線を誘導するように、飾りを指さして見せた。
「あれですよ。センセ」
テリシラット探偵事務所、三周年おめでとう!
――依頼人一同