半端者は虚しさを紛らわす
勝手にナニーを殺したことで、おれは悪霊の信頼を失ってしまった。と、先輩たちが噂している。
影でこそこそ囁き合って忍び笑う奴らもいれば、聞えよがしにおれを嘲笑う奴らもいた。おれは相手にしなかった。
おれは先輩たちに興味がない。だから、先輩達がおれのことをどう思おうが、なんて言おうが、どうでもいいし、気にならない。
悪霊はおれのことなら、何から何まで、すべてお見通しなのだ。おれが悪霊のものだってことを、ちゃんとわかっている。ナニーのことだってそうだ。おれはナニーのことが好きだったから、苦しめたくなかった。先輩たちの言葉を借りるなら、情に絆された、ってことになるだろう。
だが、もしナニーが悪霊の敵の手先だったら、おれは率先して、ナニーを拷問した。ナニーのことは好きだった。だが、おれの不動の一番は悪霊だ。
そのことを、悪霊はわかってくれている。悪霊はおれの絶対の主人だ。そうして、悪霊はおれの忠誠と崇拝を、得難いものだと思っている。だから、おれはこれからも、悪霊に必要とされる筈だ。
おれは信じていた。先輩たちは何も分かっていないと、バカにしていた。
屋敷から追い出されて初めて、バカはおれの方だと思い知らされた。
悪霊はいつも通りおれを呼びつけて、いつも通り尻尾振って駆け付けたおれに、いつも通り作り物の白い歯を見せて、こう切り出したのだ。
「喜べブルース、引っ越しだ。ようやっと、お前の部屋を用意出来たんだ。さぁ、急いで荷物を纏めな」
おれは唖然とした。耳を疑った。夢を見ているのかと思った。とびきりの悪夢だ。
おれは感情を表に出さない。だが、悪霊ならおれの動揺は見抜いていた筈だ。悪霊は敢えて見て見ぬふりをしている。とぼけた笑顔で、朗らかに笑った。
「あんな、ウサギ穴みてぇな部屋、もううんざりだろ? 日当たりは悪ぃし、狭苦しいよなぁ。その点、新しい部屋はバッチリさ。近所の複層住居だ。ここの若い独身野郎を住まわせてる。お前の部屋は、二階の角部屋だ。日当たりも良いし、一人暮らしには十分な広さがあるぜ。そもそもお前、そのバカデカイ図体でウサギの暮らしを、よく今まで、我慢出来たもんだよ。これからは、新しい部屋でのびのびやれば」
「ボス」
おれは悪霊のご機嫌なお喋りを遮った。悪霊はきょとんとして目を瞠る。本当のところ、少しも驚いていない癖に。
悪霊には手に取るようにわかる筈だ。おれの焦燥。おれの恐怖。おれの後悔。もし過去に戻れたなら、おれはナニーを殺そうとする俺自身の首を圧し折ってやりたいと、今は切に願っている。
おれは悪霊を見詰めた。悪霊はとぼけ顔の内側で、冷やかにおれを見つめ返す。取り返しのつかない過ちを犯した事実を、氷刃のようにおれの喉笛に突き付けている。
おれはやせ細った喉から、木枯らしのようにか細い声を絞り出した。
「おれは、もう用無しですか」
悪霊はおれをまじまじと見ている。唇がわざとらしいカーブを描く。
「なぁに言ってんだか」
悪霊は肩を竦めた。芝居がかった動きだった。
「ブルース。邪推しちゃあ、いけねぇよ。俺はお前に良かれと思って、手配させたんだぜ。穴蔵暮らしじゃあ、身も心も休まらねぇ。休養はしっかりとらねぇとな。いざって時に、判断を誤っちまうかもしれん。俺はな、お前には、特別に目をかけてんだ。くだらねぇことで蹴躓いて欲しくねぇのさ。わかってくれるな?」
おれは悪霊の言葉を愕然としながら聞いていた。優しい言葉の裏に隠された、思い上がりを粉砕する強い鞭に、滅多打ちにされていた。
そうだ。おれは思い上がっていた。おれはいつの間にか、おれが特別だと思いあがっていた。特別の意味を履き違えていた。
おれは悪霊にとって、特別に優秀で忠実な飼い犬だ。特別なのは、おれじゃない。おれの働きだ。優秀で忠実でなければ、邪魔なクソでしかない。
それなのに、おれはその大前提を忘れた。だから、悪霊はおれに灸を据える為に「住み込みで悪霊の家族を護衛する、最も信頼に足る部下」の立ち位置を剥奪したわけだ。
近所の複層住宅には、若い方の先輩たちが住んでいる。若さと腕力だけが取り柄のバカども。奴らの仕事は、敷地の外側をぐるぐる哨戒するだけ。本物の犬の方がまだ役に立つ。
おれは奴らと同じところまで落とされた。なんてことだ。
悪霊は用を済ませると、おれに暇を出した。意識朦朧としていても、おれの体は悪霊の命令に従う。殆ど反射だ。悪霊の声は筋肉を動かす絶対的な電流の信号なのだ。
踵を返したおれを、悪霊が呼びとめる。
「おっと、待った。忘れ物だぜ」
振り返ると、シルバーの携帯電話が、おれの顔めがけて、放物線を描いて飛んできた。宙でキャッチした、長方形の金属の塊。凝視するおれに、悪霊は言った。
「餞別。俺の番号は登録済だ」
おれは目を丸くする。手の中にある携帯電話が、悪霊の言葉を聞いた途端、伝説の秘宝に変わった。手が震えだす。おれは慌てて、携帯電話を汗ばむ両手で包みこんだ。
悪霊はにやにやしておれの様子を観察している。紫檀の机に頬杖をつくと、屹然と溜息をついた。
「なぁ、俺だって、お前と離れるのは不安なんだぜ。でもまぁ、大の男同士がいつまでも、四六時中べったりってのもおかしな話さ。お前の為にもならねぇ。俺はな、ブルース。お前を、屋敷の見張りで終わらせるつもりはねぇんだよ」
悪霊の言葉を額面通りに受け取るべきじゃないことは、百も承知だ。豪華絢爛な飾りをはぎ取れば、あとに残るのは左遷という悲しい事実。
だが、だとしても、悪霊はおれを完全に切り捨てた訳じゃなかった。おれの手の中で、携帯電話が第二の心臓のように脈打っている。
おれはヘマをした。悪霊に忠誠心を疑われる、致命的なヘマだ。閑職に追いやられるのは仕方がない。いや、その程度で済んだのは奇跡だ。
それに、悪霊はおれを遠ざけたが、おれの首輪に繋がったリードを手放さなかった。
悪霊はやおら席を立つと、立ち尽くすおれの前に回り込む。ぐっと伸びあがり、おれの頭に手を置いて、わしわしと撫でまわした。
「ヘナヘナしてねぇで、シャキッとしろよ。じゃなきゃ俺も安心出来ねぇ。頼むぜ、俺のジャスティス・ナイト」
おれは悪霊の足元から視線を上げられない。少し踵が浮いているのが、可愛いと思う。おれは耳まで赤くなっていた。
おれは嬉しかった。そして、猛省していた。おれは忘れちゃいけない。おれの主人はこの人だ。この人がおれを支配している。おれはその支配に身をゆだねている。それがおれの最上級の幸福だ。
これ以上はないのだ。強くて怖いおれは愛されない。手の届かないものへの憧憬と未練など断ち切れ。今ここにある幸せを、決して離しちゃいけない。
そうした経緯で、おれは悪霊の屋敷を出た。複層住居の住人の先輩たちと仲良くするつもりはないので、おれは引っ越しの挨拶はしなかった。先輩達も、おれと仲良くする気なんてさらさらない。おれが越した夜、先輩たちはパーティーを催したが、おれはもちろん招かれない。もしも、あれがおれの歓迎パーティーだったとしても、おれは参加しなかった。
先輩たちが夜な夜な楽しむのは、惨くて淫らなパーティーだ。大人の女の人や女の子を連れて来て、一晩中、甚振って遊ぶのだ。たまに男の子がやられることもあったようだ。隅っこのおれの部屋にまで、彼ら、彼女らの悲鳴が届く。ここの壁は、それなりにしっかりしていて厚みがあるのに。
結構な騒音だが、おれは気を取られなかった。おれの意識は常に、携帯電話に向けられている。たまに、悪霊から電話がかかってくる。「よぉ、調子はどうだ」って、常套句だけでおれは天国にいける。
「調子は良いです」とおれは答えるが、実のところ、ちっとも良くない。おれは屋敷から追い出された。寝床だけじゃなく、仕事でも。今のおれは、屋敷の外の敷地をぐるぐる回っている。衛星みたいに。間抜けみたいに。
もちろん、先輩たちみたいに、何も考えずにぼうっと散歩している訳じゃない。外からの侵入を防ぐためにおれは頑張っている。
だが、おれは不満だ。こんなところで歩きまわっていては、悪霊が一番懸念している、内側に巣食う病巣の摘出は出来ない。裏切り者の魔の手が今この時、奥方に、悪霊の愛娘に、迫っていたとしても、おれは気付けない。
悪霊の愛娘。あの娘のことを思い出すと、ナニーのことも一緒に思い出す。おれの腕の中で眠った悪霊の愛娘の愛らしい寝顔。「お嬢様を守ってくださってありがとう」と言った、ナニーの微笑み。
思い出すと、胸が締め付けられる。
こんなところで、おれは何をしているんだ。外に睨みを利かせているだけだ。いや、間抜け面を晒しているだけだ。
おれの後任は、はたして、おれみたいに熱心に働いているのだろうか。悪霊のことだ。そこのところは抜かりない人選をしているだろう。だが、心配だ。おれより熱心な奴なんか、そうそういない。
おれと同じくらい、とまではいかなくても、悪霊の愛娘が傷一つ負わない程度には、守ってくれなきゃ困る。そうじゃなきゃ、困る。お嬢様が怪我をしたら、天国のナニーはきっと悲しむ。おれも悲しい。
思うようにならない毎日に、おれは鬱屈としている。欲求不満が塵のように降り積もる。それらを発散する為に、おれは大きな姿見を部屋に置いた。ミシンも買った。分厚い裁縫のハウツー本も買った。
おれの体はバカデカイ。おれが着られるサイズの、可愛い洋服はない。ないなら、自分で繕えばいい。おれは針仕事に精を出し、悲鳴の止まない夜を、電話の鳴らない夜を、数え切れないほどやり過ごした。