■第4話 「地味な継続」こそが、最も恐ろしい下剋上だ
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ピピピピッ。
予備校の自習室に、俺のスマホのバイブ音が小さく響いた。
「はい、ストップ。休憩だ」
俺がシャープペンシルを置くと、隣の席でノートに向かっていた涼子が、恨めしそうな顔でこちらを見た。
「ええーっ、待ってよ陽太。あとこの大問一つだけ、計算の途中なんだけど……」
「ダメだ。中途半端でもそこで一旦ペンを置け。脳みそが疲れたまま無理やりキリのいいところまで進めようとするから、最後の方で凡ミスをするんだ。……ほら、チョコ食え」
「むぅ……。あんた、本当に時間には厳しいわね」
涼子は不満そうに口を尖らせながらも、大人しくペンを置き、俺が差し出したチョコレートを受け取った。
俺と涼子が『二人三脚の自学自習』を始めてから、一ヶ月が経っていた。
俺が彼女に課したルールはシンプルだ。
① 25分勉強したら、必ず5分休むこと。
② 予備校の難しすぎる宿題は「捨てる」勇気を持つこと。
③ 夜十二時には絶対に寝て、八時間睡眠を死守すること。
「……でも、不思議ね」
チョコをかじりながら、涼子がポツリと呟いた。
「最初は『こんなに休んでばっかりで大丈夫なのかな』ってすっごく不安だったけど……最近、授業中に全然眠くならないの。それに、前の日にやった英単語が、次の日になってもスッと頭から出てくるっていうか」
「当たり前だ。睡眠中に行われる記憶の整理(定着)を邪魔してないからな」
「陽太のおかげね。……ありがとう」
「別に。俺は自分のスケジュールに、お前を巻き込んだだけだ」
照れ隠しでそっぽを向く俺を見て、涼子がクスクスと笑う。
E判定で泣き崩れていたあの日の悲壮感は、今の彼女には微塵もなかった。焦って闇雲に走るのをやめ、自分のペース(適正速度)を取り戻したことで、彼女の表情には本来の明るさが戻っていた。
「さて、5分経ったぞ。さっきの数学の続きから再開しろ。……間違えたところは、ただ赤ペンで答えを写すんじゃなくて、『自分がどこでどう間違えたか』を必ず言葉にして横に書き込むこと。分かってるな?」
「はいはーい、分かってますぅ。『公式の符号を勘違いした』とか『問題文の条件を見落とした』とか、ミスの原因を分析するんでしょ? もう耳にタコよ」
涼子が再びシャープペンシルを握り、真剣な眼差しでノートに向かう。
その横顔を見届けながら、俺も自分の過去問集を開いた。
***
季節は巡り、秋。九月下旬。
夏休みという「受験の天王山」を越えた予備校内は、異様な空気に包まれていた。
「……くそっ、なんで覚えられないんだよ……!」
自習室の斜め前の席で、上のクラスにいるはずの男子生徒が、自分の頭をガシガシと掻き毟っていた。彼の机の上には、空になったエナジードリンクの缶が三つも転がっている。目の焦点は合っておらず、貧乏揺すりが止まらない。
夏の間、睡眠を削って「1日15時間勉強!」などと気合を入れていた連中が、ここに来て次々と限界(ガス欠)を迎えていたのだ。
夏の模試で一時的に成績が上がったことに味を占め、さらに無理を重ねた結果、秋になって急激に心身のバランスを崩す。典型的な『燃え尽き症候群』だった。
(……夏に無理してブーストをかけたツケが回ってきたな)
俺は冷ややかに周囲を観察した。
受験は短距離走ではない。一年間という長丁場を走り抜けるマラソンだ。途中で倒れてしまっては、何の意味もないのだ。
数日後。
その事実を最も残酷な形で証明する『秋の全国記述模試』の結果が返却された。
予備校のロビーの掲示板には、各教科の成績優秀者の名前と、大幅に成績を伸ばした生徒のランキングが張り出されていた。
「……えっ。嘘」
掲示板の前で、涼子が自分の口元を両手で覆い、信じられないというように目を見開いていた。
「どうした、涼子。自分の名前でもあったか?」
「よ、陽太……っ! あった! 私の名前、成績上昇ランキングのトップテンに載ってる……!」
「おお、マジか」
俺が掲示板を見ると、確かに『水野涼子』の名前が燦然と輝いていた。
彼女の志望校判定は、Eから一気に『B判定(合格可能性60%以上)』へと跳ね上がっていた。夏の終わりから基礎と弱点分析だけをひたすら反復し、決して無理をしなかった彼女の「地味な継続」が、秋になって爆発的な成果として表れたのだ。
「やった……やったぁっ! 陽太、私、B判定出たよ! 夢みたい……!」
「夢じゃないさ。お前が毎日、自分のミスと向き合ってコツコツ修正してきた結果だ」
泣きそうに喜ぶ涼子の頭を、俺はポンポンと軽く叩いた。
ちなみに俺の判定はというと、第一志望の国立大が『A判定』に到達していた。涼子に教えることで自分自身の知識も整理され、さらに精度が上がっていたのだ。
「おい、嘘だろ……なんで下のクラスの高橋と水野が、あんな上位に……」
背後から、ギリッと奥歯を噛み締めるような声が聞こえた。
振り返ると、上のクラスにいる優秀な連中数人が、血走った目で俺たちの名前が載った掲示板を睨みつけていた。彼らの成績は、夏休み前よりも軒並み下がっているようだった。
「お前ら……夏休みの間、どこの高い夏期講習に通ってたんだ? それとも、裏でこっそり家庭教師でもつけてたのかよ!」
焦りと苛立ちを隠せない一人の男子が、俺に詰め寄ってきた。
毎日フラフラになるまで塾にこもっていた自分たちを差し置いて、いつも早く帰って休んでばかりいた下のクラスの俺たちが、ごぼう抜きで成績を上げたのが受け入れられないのだろう。
「……何もしてないよ。予備校の授業以外は、二人で1日6時間くらい自習室で勉強してただけだ」
「はあ!? ふざけんな、たった6時間でこんなに成績が上がるわけねえだろ! こっちは1日12時間やってたんだぞ!」
「だからだよ」
俺は、激昂する男子に向かって、静かに、しかしはっきりと言い放った。
「睡眠削って12時間もダラダラやってるから、頭が回らなくなって定着しないんだ。俺たちは、毎日きっちり8時間寝た。起きてる時間の『集中力』を最大にするためにな。……俺たちがやったのは、ただ『当たり前の生活』と『当たり前の復習』を、毎日同じペースで繰り返しただけだ」
「なっ……」
特別な魔法も、裏技もない。
ただ、感情に流されず、自分のキャパシティを理解し、淡々と「地味なステップアップ」を継続する。
それこそが、周りが勝手に自滅していく過酷な受験戦争において、最も確実で、そして最も「恐ろしい」戦略なのだ。
何も言い返せず、悔しそうに立ち尽くす上のクラスの連中。
その横をすり抜けながら、涼子が俺の袖をクイッと引っ張った。
「……なんか陽太、さっきのセリフ、ちょっと中二病っぽくてカッコよかったわよ」
「う、うるせえ。事実を言っただけだ」
顔が熱くなるのを感じながら、俺は足早に予備校の出口へと向かった。
秋風が吹き抜ける駅前の道。
もう、周りのペースに惑わされることはない。俺たちだけの「最適なスケジュール」は、確実にゴールへと向かって回り始めていた。
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