■第5話 「無駄を省く」ことの落とし穴と、越えられない壁
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秋の模試での大躍進から一ヶ月。
十一月に入り、冷たい木枯らしが吹き始める頃、俺たちはついに「本番の過去問(赤本)」に本格的に手を出し始めていた。
基礎は十分に固めた。模試の判定も悪くない。
このまま自分のスケジュール通りにタスクをこなしていけば、絶対に合格できる。俺の心の中には、確かな自信――いや、今思えば「慢心」が生まれていた。
日曜日の午後。地元の図書館の自習スペースで、俺と涼子は時間をきっちり測り、志望校の過去問を通しで解く「本番シミュレーション」を行っていた。
『――ピピピッ、ピピピッ』
スマホのタイマーが鳴り、試験時間終了の合図を告げる。
「ふぅ……終わったぁ……」
涼子が背伸びをして、凝り固まった肩を回す。
俺もペンを置き、小さく息を吐いた。
「よし、じゃあお互いに解答を見ながら丸つけしようぜ」
俺は余裕の表情で解答集を開き、自分の数学の答案と照らし合わせ始めた。基礎を徹底した今の俺なら、最低でも合格ラインの6割、いや7割は堅いはずだ。
……しかし。
赤ペンで丸をつけていく俺の手は、次第に震え、そして完全に止まった。
「……嘘、だろ……」
大問1の小問集合は全問正解。ここまではいい。
だが、大問2、大問3、大問4……配点の大部分を占める応用問題の解答欄が、真っ白だったり、途中で計算が投げ出されていたりして、無残なバツ印が連続している。
合計得点率、40%。
合格最低ラインにすら、遠く及ばない。完全な「惨敗」だった。
「……陽太? どうしたの、顔色悪いわよ」
涼子が心配そうに俺の答案を覗き込む。彼女も自己採点を終えたようだったが、その表情は俺よりは少しだけ明るかった。
「私、55%くらいだった。やっぱり本番の問題って、模試よりずっと捻ってあるっていうか、難しいね……。陽太はどれくらい取れた?」
「…………40%、だ」
「えっ……」
俺はギリッと奥歯を噛み締めた。
なぜだ。基礎は完璧だったはずだ。睡眠もしっかり取った。集中力も切らしていない。
なのに、問題文を読んでも、どうアプローチしていいか全く分からなかった。
「……こんなの、悪問だ。条件が複雑すぎる。こんなマニアックな問題、解けなくても他の基礎でカバーすれば……」
俺が言い訳のように呟いた、その時だった。
「陽太。あんた、大問の後半、全部『白紙』じゃない」
涼子が、俺の答案用紙を指差して厳しい声を出した。
「ああ、白紙だよ。考えても分からない問題に何十分も時間をかけるのは『非効率』だ。だから、そういう無駄な問題は意図的に捨てて、確実に取れる基礎問題の見直しに時間を回したんだ。模試の時と同じようにな」
「……それ、本気で言ってるの?」
涼子の声が、一段と冷たくなった。
「模試はね、色んな大学を受ける人が共通で受けるテストだから、基礎だけでも点数が取れるようになってる。でも、志望校の二次試験は違うでしょ? この『時間のかかる難しい問題』を解けるかどうかを見るためのテストなのよ」
「それは……」
「陽太の言う『無駄を省く』って、ただ『自分がすぐに解けない問題から逃げてるだけ』じゃないの?」
図星だった。
俺の心臓が、ドクンと嫌な音を立てた。
思えば、最近の俺は「効率化」という言葉に酔っていた。パッと見て解法が思い浮かばない問題は、「今の自分にはノイズだ」「非効率だから後回しだ」と理由をつけて、じっくり考えることから逃げていたのだ。
ラノベの主人公の冷徹な決断力を真似しているつもりで、その実、ただ面倒くさい作業を避ける口実に使っていただけだった。
「……っ」
俺は何も言い返せず、ギュッと拳を握りしめた。
恥ずかしかった。偉そうに「俺がスケジュールを組んでやる」なんて涼子に言っておきながら、俺自身が一番、小手先のテクニックに溺れて、本当に必要な泥臭い努力から目を背けていたのだから。
「……ごめん」
長い沈黙の後、俺はポツリと呟いた。
「涼子の言う通りだ。俺、成績が上がったからって調子に乗ってた。『効率』って言葉を言い訳にして、頭に汗かいて考えることから逃げてた……」
俺が素直に非を認めると、涼子は少しだけ驚いた顔をした後、ふっと表情を和らげた。
「……分かればよろしい」
涼子は自分の椅子を、俺の机の方へと少し寄せてきた。
「陽太の教えてくれた『基礎を大事にする』とか『睡眠を削らない』ってやり方は、絶対に間違ってない。だから私だって、ここまで成績が上がったんだし」
彼女は、俺が白紙で投げ出した大問3の問題文を指でトントンと叩いた。
「でも、ここから先の壁は、基礎を『組み合わせる』練習をしないと越えられないよ。……すぐに答えが出なくても、あーでもないこーでもないって、泥臭くウンウン唸る時間も、今の私たちには必要な『無駄』なんじゃない?」
「必要な……無駄」
「そう。だから、逃げないで一緒に考えよ? この問題、私も途中までしか分からなかったからさ」
涼子が、いつもの少しお節介なお姉さんの顔で笑いかけてくる。
その笑顔を見て、俺の中にあった変なプライドや焦りが、スッと溶けていくのを感じた。
「……そうだな」
俺は深く息を吐き、改めて白紙の答案用紙と向き合った。
「一見複雑に見えるけど、これはたぶん、俺たちが夏にやった基礎のあのパターンと、あの公式を組み合わせれば解けるようにできてるはずだ。……涼子、お前はどこまで解けた?」
「えっとね、ここの条件をこう整理するところまではいけたんだけど、そこから先が……」
それは、25分でサクッと終わるような効率的な勉強ではなかった。
あーでもない、こーでもないと二人で意見をぶつけ合い、ひとつの大問を解くためだけに40分も50分も時間を費やす、ひどく「非効率」で泥臭い作業。
だけど。
「……あ! 分かった! 陽太、これ、ここに補助線を引けば……!」
「マジだ! すげえ、一気に道が開けた!」
一時間近く悩んだ末に、ついに複雑な問題の答えにたどり着いた時。
俺たちは図書館であることを忘れそうになるくらい、二人で顔を見合わせて静かに興奮を分かち合っていた。
(……キースラインみたいな、一瞬で最適解を見つけ出す天才にはなれないかもしれないけど)
俺は、隣で嬉しそうにノートに数式を書き込む涼子を見て、こっそりと笑った。
一人で効率よく走るだけが正解じゃない。
躓いた時は、こうして二人で泥臭く立ち止まって、一緒に壁を乗り越えていけばいい。
秋の終わりの手痛い挫折。
しかしそれは、俺たちが「本物の受験生」へとステップアップするための、絶対に避けられない大切な「エラー(失敗)」だった。
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