■第10話 「解読」と「基礎」の終わらない無限ループ(反復テスト)
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二年生の初夏。
予備校の自習室には、赤本(過去問)と、一年生の時に使っていたボロボロの「基礎問題集」が、俺の机の上に無造作に積み上げられていた。
「…………くそっ」
俺はシャープペンシルを放り出し、両手で頭を抱え込んだ。
東大の過去問に挑み始めてから一ヶ月。神田先生の助言通り、「文章を翻訳して、シンプルな構造を見抜く」というアプローチ自体は間違っていなかった。
実際、複雑な問題文を読み解き、「要するにこれは、図形と方程式の基礎を使えばいいんだな」と見抜ける確率は、少しずつ上がってきている。
だが、問題はそこからだった。
「せっかく仕様(意図)は解読できたのに……引き出しの中身が、空っぽだ」
俺はギリッと奥歯を噛んだ。
東大の問題が要求してくる「基礎」は、一つではない。Aという基礎知識と、Bという基礎知識、さらに全く別の分野のCという基礎知識を、同時に組み合わせて初めて数式が完成するようになっている。
問題文を翻訳し、「よし、ここはBの公式を使えばいい」と気づいた瞬間。
『あれ? Bの公式の、あの細かい例外条件ってなんだっけ……?』と、頭の中の記憶が真っ白に飛ぶのだ。
文章の解読(翻訳作業)に脳のCPU(処理能力)を限界まで使ってしまったせいで、一年生の時に完璧に仕上げたはずの基礎的な公式や解法が、ポロポロとこぼれ落ちてしまう。
俺は悔しさに唇を噛みながら、机の端に避けていた一年生用の「基礎問題集」を引き寄せ、該当するページをパラパラと開いた。
「……これだ。この公式の、この条件設定だ。一年生の時は当たり前に解けてたのに……」
自分が信じられなくなる。あんなに反復して完璧にしたはずの基礎が、実戦という負荷をかけた途端に、あっけなく崩壊していく。
結局、赤本を解くために費やした一時間のほとんどが、「基礎問題集の再確認」という泥臭い作業で潰れてしまった。
「あー……もう、頭から煙が出そう……」
隣の席で、涼子が机にペシャンと突っ伏した。
彼女のノートには、問題文の要素を分解して整理した見事な「翻訳」の跡が残っている。だが、その下の計算スペースで、中学生レベルの単純な符号ミスを起こし、答えが全く違う方向へと暴走していた。
「翻訳するだけで、脳みそのカロリー使い切っちゃった……。そこからの計算、全然頭回ってなかったよ……」
「……分かる。俺もさっき、解読はできたのに基礎の公式がすっぽ抜けて、結局基礎問からやり直してた」
俺たちは、疲れ切った顔を見合わせて、力なく笑った。
魔法なんてなかった。
「解読のコツ」を掴んだからといって、いきなり天才のようにスラスラと問題が解けるようになるわけがない。
天才たちは、問題文の翻訳をバックグラウンドで無意識に処理しながら、同時に基礎知識を引き出し、正確な計算を実行できる。
だが、俺たち凡人(汎用モデル)の処理能力では、それは不可能だ。
「……やるしかないな、涼子」
俺は、赤本と基礎問題集を、机の真ん中に並べて置いた。
「解読して、基礎が抜けていることに気づいたら、基礎問題集に戻る。基礎を再インストールしたら、また赤本の解読に戻る。……この地道なキャッチボール(無限ループ)を繰り返して、脳みその処理速度を力技で上げていくしかない」
「……だね。魔法の杖なんて、最初からなかったもんね」
涼子はゆっくりと体を起こし、自分の頬を両手でパンッ! と強く叩いた。
「よしっ。東大サマが要求するスペックが高すぎるなら、私たちの頭をそこに合わせるまでよ。……陽太、タイマーのセットお願い」
「ああ。ポモドーロ(25分稼働)再開だ。ショートしないように、こまめにキャッシュ(脳の疲れ)をクリアしていくぞ」
俺はスマホのタイマーをセットし、再び赤本の難解な文章へと向かい合った。
模試での劇的な成功や、華麗な下剋上なんて、日常の中には転がっていない。
あるのはただ、自分の無力さと向き合いながら、「解読」と「基礎」の間を泥まみれになって往復する、終わりの見えない反復作業(テスト工程)だけだ。
だが、その一歩一歩の苦しいループこそが、確実に俺たちのシステムを「東大仕様」へと書き換えていく、唯一にして最強のプロセスだった。
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