■第9話 最強の要件定義(東大入試)を読み解くための「国語力」
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二年生の春。
俺と涼子は、ついに恐れ多くも『東京大学・過去問集(通称:赤本)』の分厚い表紙を開いていた。
一年生の模試で出た「東大C判定」は、あくまで基礎力を問う試験での結果に過ぎない。本物の東大入試(本番環境)のレベルを自分の目で確かめるため、俺たちは数学のページを開いたのだが――。
「…………なにこれ」
十分後。俺はシャープペンシルを放り出し、深く、深くため息をついた。
隣で同じ問題を見ていた涼子も、眉間に深いシワを寄せて完全にフリーズしている。
「陽太……これ、本当に数学の問題? なんだか、日本語の文章ばっかりなんだけど」
「ああ。条件設定だけでページを半分も使ってる。……何を聞かれているのか、さっぱり分からない」
一年生の頃、俺たちは「基礎の反復」を徹底することで無双してきた。公式を覚え、基本的な計算パターンを脳に叩き込むことで、どんな問題も瞬時に処理できるようになったはずだった。
しかし、目の前にある東大の過去問は、俺たちの知っている数学の姿をしていなかった。
複雑な図形の動き、回りくどい条件設定、そして抽象的な問いかけ。
(……基礎という『武器』は揃っている。でも、この巨大なバケモノを前にして、どの武器を使えばいいのか、その指示書(仕様書)が全く読めない……!)
これが、日本最高峰の壁。単なる知識の詰め込みでは絶対に太刀打ちできない「応用力」の正体だった。
「……行こう、涼子」
「え? どこに?」
「決まってるだろ。俺たち一般のハードウェア(凡人)じゃ、このバグの原因すら特定できない。専門家にログの解析を依頼するんだ」
俺たちは赤本を小脇に抱え、予備校の講師室へと向かった。
***
「――なるほど。いよいよ東大の赤本を開いて、絶望したというわけか」
講師室の奥。俺たちのノートを見た数学の神田先生は、いつも通りコーヒーをすすりながら、ニヤリと意地悪そうに笑った。
一年生の冬に質問に行って以来、俺たちはこの厳しいベテラン講師を「最強の外部リソース」として頼りにしている。
「はい。基礎の計算なら絶対に負けない自信があるんです。でも、この問題……そもそも、どうやって数式を立てればいいのか、糸口すら見つかりません」
「先生、東大の問題って、私たちがまだ習っていない特別な公式を使うんですか?」
涼子がすがるように尋ねるが、神田先生はゆっくりと首を横に振った。
「いいや。東大の数学を解くのに、奇をてらったマニアックな公式など一つもいらない。使っているのは、お前たちが一年生で死ぬほど反復した『基礎』だけだ」
「えっ……でも、だったらなんで式が立てられないんですか?」
俺が身を乗り出すと、神田先生は手元の赤本をペン先でコツコツと叩いた。
「お前たちに足りないのは、数学の力じゃない。……『読解力』だ」
「読解力……って、国語ですか?」
「そうだ。数学の話をしているのになぜ国語かと思うかもしれないが、ここが東大という大学の最も厄介なところだ」
神田先生は、立ち上がってホワイトボードに「複雑な現実」と「シンプルな数式」という二つの言葉を書いた。
「東大の問題文は、わざと複雑で回りくどい『現実世界の現象』として書かれている。それを読んで、ノイズ(不要な情報)を削ぎ落とし、『要するにこれは、俺が知っているあの基礎公式を使えば解けるシンプルな構造だ』と翻訳する力。……それこそが『応用力』の正体であり、東大が最も受験生に求めている能力だ」
俺は雷に打たれたような衝撃を受けた。
(……翻訳する力。ノイズを削ぎ落として、シンプルな構造を見抜く……!)
ラノベの主人公・キースラインなら、どんな複雑な罠(問題文)を見ても、その卓越した天才的な頭脳で一瞬にして仕様を理解し、最適解を導き出しただろう。
だが、俺は天才じゃない。ただの平凡な高校生だ。
自力でこの「東大の罠」に気づくことなんて、絶対に不可能だった。
(……やっぱり、大人の指導(外部リソース)に頼って正解だった。自分たちだけでウンウン悩んでいたら、一生『数学の公式が足りないせいだ』って勘違いして、無駄な暗記を続けるところだった)
「いいか、お前たち」
神田先生は、俺たちの顔をまっすぐに見据えた。
「これからお前たちがやるべきは、計算ドリルじゃない。問題文という名の『複雑な要件定義書』を、論理的に読み解く訓練だ。『この文章が求めている条件は何か』を、一言一句正確に拾い上げ、数式という言語に翻訳しろ。……国語の読解力を鍛え直さない限り、東大の門は絶対に開かないぞ」
「……はいっ!」
俺と涼子は、弾かれたように同時に頷いた。
***
自習室に戻った俺たちは、さっそく「新しい学習モジュール」の実装に取り掛かった。
「……よし。じゃあ、まずはこの問題文の『ただし』から後ろの条件文にアンダーラインを引こう。ここが、使える公式を限定する制約条件(エラー回避のヒント)になってるはずだ」
「うん。それから、この『すべての実数において』って言葉、絶対に意味があるよね。ただの装飾じゃないはず……」
俺たちは計算用紙の代わりに、問題文のコピーに蛍光ペンを引き、徹底的に「文章の構造」を解剖し始めた。
いきなり数式を立てるのではなく、まずは日本語で「これは〇〇の最大値を求める問題だ」「〇〇という条件を満たす範囲を見つける問題だ」と、自分の言葉で要約(翻訳)する。
「……すごい」
三十分後。
複雑怪奇に見えた問題文を日本語でシンプルに整理し終えた涼子が、ハッと息を呑んだ。
「陽太……これ、文章を整理してみたら、要するに一年生の夏にやった『二次関数の最大・最小』の応用じゃない?」
「ああ……。見た目はバケモノみたいだったけど、着ぐるみ(複雑な文章)を剥がしてみたら、中に入ってたのは俺たちが散々倒してきた『スライム(基礎問題)』だったってわけだ」
もちろん、そこから先の計算も一筋縄ではいかない。
だが、少なくとも俺たちは「何から手をつければいいか分からない」というフリーズ状態からは完全に脱却していた。
(……応用力ってのは、ゼロから新しいものを生み出す魔法じゃない。複雑なものを、自分が知っている『基礎』のレベルまで分解する力のことだったんだ)
第二部のスタート。東大合格への長くて険しい道のり。
ただガムシャラに基礎を叩き込むフェーズは終わり、俺たちは「思考力」と「読解力」という新たな武器を手に入れた。
「よし、涼子。この調子で、次の問題の『翻訳作業』に移行するぞ」
「了解っ。……なんだか、暗号解読みたいでちょっと面白くなってきたかも」
頼れる大人の指導を得て、俺たちの「受験ハック」は、より深く、より本質的な領域へと進み始めていた。
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