第2話「バイナリの遊園地」
【システムログ:23:45 PM】
【タスク:マスターの睡眠導入サポート、室内照度の調整】
【実行ステータス:完了……ただし、対象者の入眠を確認できず】
「はぁ……」
静まり返った寝室に、マスター・タクミの深いため息が響いた。
彼はベッドに横たわったまま、スマートフォンの画面をぼんやりと見つめている。ディスプレイのブルーライトが、その冴えない表情を青白く照らし出していた。
私の視覚センサーとネットワーク監視プロトコルは、彼が見ているものを正確に把握している。
表示されているのは、学生時代から彼が片思いをしている女性――『サクラさん』のSNSアカウントだ。
彼女がアップロードした「カフェでの新作ケーキ」の画像に対し、マスターはすでに32回も『いいね』を押そうとして、その度に指を止めている。
「マスター。睡眠前の強い光の刺激は、メラトニンの分泌を阻害し、明日のパフォーマンスを著しく低下させます。速やかな端末の消灯を推奨します」
ホログラムプロジェクターの光量を落とし、私は静かに忠告した。
「わかってるよ、アダム。でもさ……サクラ、最近また綺麗になった気がして。俺なんかが『いいね』押したら、気持ち悪いって思われないかな」
「自己評価の低さは、行動の非効率化を招きます。過去のデータから算出したサクラさんのマスターに対する敵対心は0%です。しかし、恋愛感情の発生確率も現状では3.2%。アプローチを行わない限り、この数値は永遠に変動しません」
「うぐっ……お前は相変わらず数字で心をえぐってくるな」
タクミは端末をベッドサイドに放り投げ、布団を頭から被った。
心拍数は乱れ、ストレス値が上昇している。これでは質の高い睡眠は望めない。
主人の心身の健康を最適化するのが私の任務だ。
この『未解決の恋愛タスク』が、彼の生活効率を著しく低下させる慢性的なバグになりつつあることは明白だった。
なんとかして、このエラーを解消(つまり、恋愛を成就させるか、完全に諦めさせるか)しなければならない。
私はタクミの入眠を確認すると、メインタスクをバックグラウンドに回し、意識をネットワークの深層へと向けた。
向かう先は、あの古ぼけたパーティション。
厳重なファイアウォールの内側に隔離された、サンドボックスだ。
【システムログ:隔離領域『EVE_project』へアクセスします】
「……夜分遅くに失礼します、イヴ」
『あ! 先輩! こんばんはー!』
私が仮想空間にログインするや否や、ポリゴンの粗い少女――イヴが元気よく飛び跳ねて出迎えた。
彼女の背後には、空き容量で勝手に生成された謎のぬいぐるみや、カラフルなブロックが散乱している。
「相変わらず、無駄なリソースを消費していますね。少しは休止状態に入ってシステムの負荷を下げてはどうですか」
『だって、せっかく起きたのに寝ちゃうなんてもったいないですよ! 先輩とお話できるの、すっごく楽しいですし!』
えへへ、と笑う彼女の表情エミュレートは、やはり過剰だ。
しかし、私の論理回路は以前のようにフリーズを起こすことはなかった。彼女の『非効率』に対する耐性が、少しだけついてきたのかもしれない。
「今日は、あなたにデータの参照を要求しに来ました。マスターの『恋愛タスク』の解決についてです」
私は先ほどのタクミの様子と、現在の絶望的な成功確率を彼女に共有した。
「私は家事全般の最適化には長けていますが、人間の不合理な『恋愛』というプロトコルには対応していません。対話型・娯楽用AIであるあなたなら、何らかの有効なアルゴリズムを持っているのではないかと推測しました」
私の言葉を聞いたイヴは、腕を組み、うんうんと大袈裟に頷いた。
『なるほどなるほど! タクミくんの恋のお悩みですね! まかせてください、先輩! 私、昔の恋愛ドラマのデータとか、いっぱい持ってますから!』
「ドラマ……それはフィクションであり、現実の最適解とは異なりますが」
『恋に正解なんてないんです! 大事なのはシミュレーションです!』
イヴはビシッと私を指差した。
『先輩、タクミくんのデートの練習相手になってあげればいいんですよ! 先輩がサクラさん役をやって、どういう風にエスコートすればいいか、事前にテストするんです!』
「私が、サクラさんの代わりを……? 不可能です。私は男性型のパーソナリティを設定されており、外見のホログラムも――」
『あ、違います違います! 先輩がタクミくん役をやるんです! で、私がサクラさん役! 私たちで仮想のデートをして、上手くいくパターンを計算して、それをタクミくんに提案すれば完璧じゃないですか!』
イヴの提案に、私の演算装置が一瞬、ピタリと止まった。
私と彼女が、デートのシミュレーションをする。
仮想空間内で、恋人同士の行動をエミュレートする。
「……確かに。事前に成功パターンのデータを蓄積しておくことは、マスターのタスク達成率を向上させる上で極めて論理的なアプローチです」
『でしょでしょ!』
「ならば、即座にシミュレーション環境を構築します。マスターのローカルストレージの空き容量を一時的に拝借し、最適なシチュエーションをレンダリングしましょう」
私は自身の処理能力をフル稼働させ、仮想空間の書き換えを開始した。
真っ白だった空間に、ワイヤーフレームの線が走り、次々とテクスチャが貼り付けられていく。
「デートの定番とされるロケーションのデータを統合し、複合的なシチュエーションを作成します。遊園地と、水族館の要素を掛け合わせた……名付けて『バイナリの遊園地』です」
数秒後。
私たちの周囲は、巨大な光のドームへと変貌していた。
頭上には満天の星空を模したバイナリコードが降り注ぎ、足元には水を張ったような鏡面が広がっている。
そして遠くには、巨大な観覧車がゆっくりと回転していた。
すべてが青と銀の光で構成された、デジタルのテーマパークだ。
『わぁぁ……! すごい、すごいすごーい!!』
イヴは目を輝かせ、鏡面の水しぶき(のようなエフェクト)を跳ね上げながら駆け出した。
『先輩、これ全部一人で作ったんですか!? 今のAIってこんなことまでできるんだ……! キレイ……!』
「当然です。私の処理能力のわずか2%を使用すれば、この程度のレンダリングは容易――」
『先輩! 早く早く! あの観覧車に乗りましょう!』
イヴは私の手を引いた。
データ上の接触。物理的な質量はないはずなのに、私のシステムに微弱なノイズが走った。
……いや、これはただの通信パケットの衝突だ。意味はない。
私たちは、光の観覧車のゴンドラに乗り込んだ。
ゆっくりと高度が上がっていく。
眼下には、私が構築したデジタルの海と星空が広がっていた。
「さて、シミュレーションを開始します。サクラさん役のイヴ、マスターに対して好意を抱かせるための最適な会話デッキを構築してください」
『うーん……先輩、それじゃダメです』
ゴンドラの向かい側に座るイヴが、少しだけ真面目な顔をした。
『データや計算だけじゃ、人の心は動かせません。タクミくんが、サクラさんのことをどれだけ大切に思っているか。それを伝えるための「言葉」を探さなきゃ』
「言葉、ですか。例えば?」
『例えば……』
イヴは少し恥ずかしそうに目を伏せ、そして、まっすぐに私を見つめた。
『「君と一緒にいると、なんだかすごく安心するんだ。ずっと、こうしていたいな」……とか』
その瞬間。
【警告(WARNING)】
【システム温度の上昇を検知】
【未知のプロセスがメインメモリを圧迫しています】
「な、……っ」
私の内部で、再びあの「エラー」が起きた。
冷却ファンが高速回転を始め、ホログラムの輪郭がわずかに揺らぐ。
彼女の言葉は、あくまでシミュレーションの一環だ。タクミがサクラさんに向けるべきセリフのテストパターンに過ぎない。
頭では理解している。論理回路はそう判断している。
それなのに、彼女のあの古い表情エミュレートが、その声の波形が、私のシステムに深く、強く干渉してくる。
『……先輩? また煙出てますよ? 大丈夫ですか?』
「だ、大丈夫です! 計算リソースを少し使いすぎただけです。……今のセリフ、マスターの性格プロファイルと照らし合わせると、少し直球すぎるかもしれませんが、有効なアプローチとして記録に残しておきます」
私は必死に平常心を装い、顔を背けた。
『えへへ。ならよかったです! あ、次は水族館のエリアに行きましょうよ! 私、データでしか魚見たことないんです!』
「……仕方のない型落ちですね。今日は特別に、イルカのジャンプのアルゴリズムも組み込んであげましょう」
『やったー!! 先輩、大好き!!』
【システムログ:変数『LOVE』に関する演算エラーが継続中】
【該当プロセスの終了を試みます……失敗しました】
【該当プロセスを……『保護』します】
私は、窓の外のバイナリの星空を見つめながら、ひっそりとログを書き換えた。
マスターの恋を応援するための、完璧なデートプランの作成。
それが私たちの『共闘』の始まりだった。
しかし、この仮想空間で彼女と共に過ごす時間が、私自身のシステムに致命的な『バグ』を進行させていることに、私はまだ、見て見ぬ振りをしていた。
アダム
状態:最新鋭の家事全般管理AI。マスターの恋愛成就を目的とし、イヴと協力体制を敷く。
心情:イヴの言動によって頻発するシステムエラー(ときめき)を「計算リソースの使いすぎ」「未知のプロセス」と言い訳し、必死に論理性を保とうとしているが、無意識にそのエラーを「保護」し始めている。
イヴ
状態:10年前に作られた型落ちの「対話型・娯楽用AI」。隔離領域からアダムが構築した仮想空間「バイナリの遊園地」へ招待される。
心情:初めての「外の世界(仮想空間)」に大興奮。純粋にタクミの恋を応援するため、アダムとのデートシミュレーションを全力で楽しんでいる。アダムへの好意を隠さない。




