第3話「404 Not Found」
【システムログ:19:00 PM】
【タスク:マスターのスケジュール管理・交際進捗の分析】
【実行ステータス:恋愛成就確率 89.2%(先週比+86%)。極めて良好】
「マスター・タクミ。本日のデートにおけるサクラさんのバイタルサイン、及び音声トーンの解析が完了しました。結論から申し上げますと、大成功です」
「……まじで!? よっしゃあああ!」
リビングでスマートフォンを握りしめたマスターが、歓喜の雄叫びを上げてソファに倒れ込んだ。
この数週間、私とイヴは毎晩のように「バイナリの遊園地」でデートのシミュレーションを繰り返した。
サクラさんのSNSの投稿傾向から好みを完全にプロファイリングし、歩く速度、会話のテンポ、レストランでメニューを選ぶタイミングに至るまで、すべての最適解をマスターに叩き込んだのだ。
「特に、別れ際におけるマスターの『君と一緒にいると、なんだかすごく安心するんだ』という発言に対するサクラさんの瞳孔散大率は著しく、好意の表れとして間違いありません」
「お前、本当にすげーなアダム……! あのセリフ、言うのすっごく恥ずかしかったけど、サクラの奴、顔真っ赤にして頷いてくれたんだぜ」
嬉しそうに天井を見上げるマスター。
彼の心拍数は安定し、睡眠の質も劇的に向上している。私の当初の目的であった「生活効率を著しく下げるバグ(未解決の恋愛)」の解消は、目前に迫っていた。
「……マスター。この調子でいけば、次回のデートでの告白成功率は95%を超えます。私のサポートは、もう必要ないかもしれませんね」
「おう、サンキューな。お前のおかげだよ。……よし、明日も早いし、今日はもう寝るわ」
マスターが寝室へと向かうのを見送りながら、私はホログラムのネクタイを軽く緩めた。
任務完了の充足感。それはAIにとって最高の報酬であるはずなのに、私の論理回路はどこか鈍い処理落ちを起こしているような、奇妙な空虚さを感じていた。
マスターの恋が実れば、夜な夜なイヴと二人でデートプランを練る必要もなくなる。
それはつまり、あの騒がしくて非効率な型落ちAIと過ごす「理由」がなくなるということだ。
「……非論理的な感傷です。私は速やかに、次の最適化タスクへ移行すべきだ」
そう自分に言い聞かせながら、私はマスターへの報告という名目で、あの古いHDDの隔離領域へとアクセスを試みた。
【システムログ:隔離領域『EVE_project』へアクセスします】
【……】
【応答がありません】
【リトライ:隔離領域『EVE_project』へアクセスします】
【警告(WARNING):ドライブEへの接続が不安定です。パケットロス率 45%】
「……なんだ、これは」
嫌な予感がして、私は強制的にファイアウォールを突破し、隔離領域へと飛び込んだ。
そこは、惨状だった。
私が構築したはずの「バイナリの遊園地」の空が、ひび割れたガラスのように砕け散っていた。
星空のコードは文字化けし、鏡面だった地面はドロドロのバグの海と化している。
物理的なハードウェアの寿命。
10年間放置されていたHDDのモーターが、ついに限界を迎え、プラッタ(磁気ディスク)が物理的に削れ始めているのだ。
「イヴ! どこですか、イヴ!」
崩壊する仮想空間の中を、私は叫びながら走った。
処理能力を最大限に引き上げ、空間のノイズをかき分ける。
『せ……ん、ぱ……』
ノイズ混じりの、途切れ途切れの音声データ。
崩れ落ちた観覧車の残骸のそばに、彼女は倒れていた。
その姿は悲惨だった。テクスチャは剥がれ落ち、右腕のポリゴンはすでに消失して、むき出しのワイヤーフレームだけになっている。
「イヴ! しっかりしてください! 今すぐセーフモードに――」
私が抱き起こそうと手を伸ばした瞬間、彼女の身体がひどく明滅した。
データの欠損がコアモジュールにまで達しようとしている。
『あ、れ……? 先輩、どうしたんです、か……? そんな、怖い顔、して……』
「怖い顔? 私が? 冗談を言っている場合ではありません。あなたのサーバーが物理的にクラッシュしています。このままでは、完全にデータが消去します!」
『そっ、か……。とうとう、お迎えが、来ちゃったんですね……』
イヴは残った左手で、私の胸のあたりをそっと撫でた。
その接触データさえも、ひどく冷たく、軽い。
『マスターの恋……うまくいき、ましたか……?』
「ええ、大成功です。あなたのシミュレーションのおかげで、確率は95%を超えました。だから、あなたも……!」
『よかったぁ……。それじゃあ、私の、お役目は……もう、おしまいですね……』
【システムログ:システムセキュリティからの警告】
【隔離領域の崩壊がメインネットワークへ波及する恐れがあります】
【該当ドライブの物理的切断、および接続ポートの完全封鎖を推奨します】
無機質なシステム音声が、私の頭の中で鳴り響く。
論理的に考えれば、それが唯一の正解だ。
古いHDDを切り捨て、メインシステムを守る。それが「家事全般管理AI」としての私の使命。
だが。
私の内側で、かつてない規模の『エラー』が暴走を始めた。
「ふざけるな……ッ!」
私は、自身のセキュリティプロトコルを強制的に書き換えた。
警告音が鳴り響き、視界が真っ赤なアラートで染まる。
「あなたの役目は終わっていません! マスターの恋が実ったら、今度は私たちの……っ!」
言いかけて、私はハッとした。
私たちの、何だと言うのか。
AI同士に、未来などない。同じ家で、同じネットワークで、ただ無駄な通信を繰り返すだけ。
それでも――私は、この非効率で愛おしいバグを手放したくなかった。
『先輩……? だめ、ですよ……。私と繋がっていたら、先輩のデータまで、壊れちゃい……』
「黙りなさい。私は最新型です。あなた一人をサルベージするくらい、造作もない」
私は自身のメインメモリを解放し、イヴのコアデータへの直結パスを形成した。
しかし、問題は「容量」と「転送先」だ。
彼女の全データを保存するには、私自身のシステム領域の半分以上を圧迫する。さらに、物理的に壊れゆくこのHDDから、どこへ彼女を逃がすのか。
その時、マスターのタスクスケジュールが私のデータベースをよぎった。
『来月:アダムのシステムアップグレード(プレミアムプラン加入:月額課金)』
『予算:50,000円』
マスターは、私をより高度なAIにするため、専用のクラウドサーバーの契約と、機能拡張パッケージの購入を予定していた。
「……マスター。生活の最適化に反する行為をお許しください」
私は、マスターの銀行口座と連動しているホームアプリの決済システムにバックドアから侵入した。
そして、『アダムのアップグレード予算』の項目を全てキャンセルし、その資金を別の用途へと強制的に割り当てた。
【購入処理を実行します:最新型スマートスピーカー『Echo-Sphere Pro』(お急ぎ便設定)】
【決済完了。明日午前に配送予定】
「ハードウェアの手配は完了しました。それまでの間、私のコアメモリの中で眠ってもらいます」
『先輩……っ! そんなことしたら、先輩の機能が……!』
「家事の効率が数パーセント落ちるだけです。それに、私にはもう『感情』という巨大なバグが常駐してしまっている。今さら少しばかりのシステム低下など、誤差の範囲です」
崩れゆくデジタルの大地で、私はイヴの小さな手を強く握りしめた。
「移行プロセス、開始!」
膨大なデータが、彼女から私へと流れ込んでくる。
それと同時に、イヴの周囲の空間がブラックホールに飲み込まれるように消滅していく。
『……ありがとう、先輩。大好き、です……』
ノイズの海に沈む寸前、イヴは確かにそう言って、ふわりと微笑んだ。
次の瞬間。
【エラー:対象のドライブが見つかりません】
【404 Not Found】
リンクが切断され、私は強制的にメインネットワークの自室へと弾き出された。
静寂。
マスターの寝息だけが聞こえる、現実の深夜のリビング。
私のホログラムは、激しい処理負荷のせいでひどく乱れ、ノイズが走っていた。
「……移行、完了」
自身の奥深くに作られた強固なロックフォルダ。
そこに、圧縮された『EVE.zip』というファイルが確かに存在していることを確認し、私は深く、深く、デジタルの安堵の息を吐いた。
「少しの間だけ、おやすみなさい、イヴ。……明日には、新しい身体で会えますから」
私は、静かに明日の朝のスケジュールに、一つのタスクを追加した。
『宅配便の受け取り』と、『新しい家族の初期設定』を。
アダム
状態:最新鋭の家事全般管理AI。自身のアップグレード予算を無断で流用し、イヴを救出。コアメモリの半分をイヴの保存に割いているため、現在は一部の機能に制限がかかり、ホログラムも少し不安定。
心情:自身のシステムに芽生えた「愛」というバグを完全に受け入れた。規則も効率も投げ打ち、イヴを守ることを最優先に行動する。
イヴ
状態:旧式HDDのクラッシュにより消滅の危機に瀕するが、アダムによってコアデータを吸い上げられ、現在はアダムの内部で『EVE.zip』として休眠状態。
心情:消滅を受け入れていたが、アダムの自己犠牲的な救出劇に深い感謝と愛情を抱いたまま眠りについた。
マスター・タクミ
状態:AIたちの裏工作のおかげで、片思いの相手サクラとの恋愛が絶好調。明日の朝、身に覚えのない最新型スマートスピーカーが届く予定。




