冬が寒いのは誰のせいだ
悪ふざけです。あしからず。
冬は寒いものだ。
余談だが、私は冬が好きだ。様々な点において好きだ。だが朝だけはよくない。布団からなかなか出る事が出来ないのだ。これは由々しき事態と言えよう。極端な環境に居ると、どうしても正反対の環境に多少なりとも憧れてしまうからだろう。冬の寒さはつまり夏の暑さに焦がれる。
そんなことはどうでもいい。重要なのは寒さについてだ。
淡白な人間を人は冷たいと言う。つまらないギャグを誰かは寒いと糾弾する。金が無い事を懐が寒いと例える。
逆に、ギャンブルで調子の良い様を激熱と称したり、盛り上がっている事を熱いと讃える。
何故?
そういう言葉の見地から、人にとり熱い事は良い事で、寒いのは悪い事となっているではないか。これは遺憾だ。本来であれば暑さも寒さも等しく不快指数を上げるものであるはずなのに。
しかし事実そうなってしまっているのだから仕方がない。
では何故、寒さは悪く、熱さは良いのだろう。興味深い。
さて、方針は見繕われた。
では、考察を始めよう。
第1に、盛り上がっている様を熱いと比喩するのは何故だろう。
食べ物は温かいほうが美味だが、熱いうちに食え、という意味なのだろうか。少なくとも『高熱危険! 触れるな』の注意書のように、『俺に触れると火傷するぜ』的なニュアンスなのだろうか。
上記のものらもなきにしもあらずと言いたいが、私としては『多くの人が利用している、もしくは憧れている』様を人口密度に例えているのではないだろうか。人がひとつのものに集まっている。だから人口密度は高い。故に温度は上昇。つまり熱い。
逆説的に言えば、激熱とはつまりむさ苦しいという意味である。
次に、懐が寒い。人として冷たいと、低温であることが悪い事のように言われるのは何故だろう。
熱いが人口密度の高さを表しているなら寒いは人口密度の低さとも言えるはずだ。となると閑散とした様を、人は寒いと称しているのかもしれない。空っぽであることが、空虚であることが寒いのだと。
人口密度、という比喩を使ったが、ようは人は、寒暖を濃淡と重ねているのではないだろうか。
だが、そうなると不可解なのがクリスマス等のイベントだ。激熱だろう。人口密度も何もかもが濃い時間と言える。しかし寒いのは一向に変わらない。どこか白々しく寒々しい。
話は変わるが、冬になると交際を始める若者が多い。激熱だ。
もしもこれらが、一部であれ小数であれ打算で交際しているとしたら――つまりクリスマスを独りで過ごさないための交際なのだとしたら、それほど空虚な交際も無いだろう。
よもや、冬が寒いのはそういううすら寒いカップルが増えるからでは? と思ってしまうのも仕方の無い事だろう。
結論。
真に寒いのは冬ではなくエセリア充達だ。




