003:父と新たな命と新たな生活
2026.10.07 3/4回目
下働きの女性の案内で私が通された場所は父の執務室だった。
まだ部屋には父の姿はないが、部屋に残る微かな煙草の臭いは凄く懐かしいものである。普段の父は煙草を吸わない。ただ商談に失敗した時や大きな損失を出した時に、心を落ち着けるためと煙草を吹かしていた。
懐かしい記憶が蘇り、思わず私は目を細める。
父は最近、商談に失敗したか大きな損失を出したのだろうか。少し心配になってしまうのは私が根っからの商人の娘だからかもしれない。
母は、私と十歳歳の離れた弟を生んで亡くなった。父は再婚をしなかった。私もまだ子供だったけれど、父に頼まれて弟の面倒を見ていた。けれど弟は病に倒れ、幼い命を失った。
私がもっときちんと面倒を見ていれば――そう自分を責める私の肩に、父は手を置いた。
『あまり気に病むな』
そのときの父の服から香っていた煙草の匂いを、私は今でも覚えている。そんな思い出が残る執務室に父が姿を現した。
アドルフと婚姻して五年。久しぶりに見る父の姿に、私はその年月を実感した。ところどころに白髪が混じり、生やしている髭にも白髪が混じり始めていた。父のゆっくりと椅子に腰を掛ける動作も感慨深いものがある。
「エレノア、今回は残念な結果になってしまった……あまり悲嘆に暮れてはいけないよ」
少し覇気のない声で父が告げた。分かっている。夫を失った妻は私だけではない。周りを見れば、戦争により親が子を失い、子が親を失い、誰もが大事な誰かを失っているのだから。だから私は努めて平静を装って笑みを作った。
「父さん、出戻りの私を受け入れてくれてありがとう」
「エレノアは私の子供だよ。その事実は永遠に変わらない。先ずはエレノアの心を癒すことを優先させよう。今はゆっくりと休みなさい」
私の言葉に父は手を組んで目を伏せる。しばらく父は無言でいると、ゆっくりと目を開き手元にあった呼び鈴を鳴らして、下働きの女性にお茶を用意するようにと告げる。そうして下働きの女性が執務室を出ていくのを確認した父は微笑みを浮かべた。
「茶を一杯飲む時間だけ、エレノアには私の話を聞いて欲しい」
父は私との再会を受け入れてくれているようだ。喜んでくれているかは分からないものの、商人の父は無駄話をしない主義である。そして先程のゆっくりと休めという話を直ぐに反故にしたためか、父は苦笑いを浮かべていた。
偶にしか会えずにいた五年の月日を埋めるため、父はたった一杯のお茶でどうにかしようと考えているのだろう。少しせっかちな父の性格が垣間見れる瞬間でもあり、家を追い出される覚悟をしていた私が安堵した瞬間でもあった。
「父さん、お店は順調なの?」
「ああ。ミュラー家の伝手のお陰で随分と動きやすくなったからね。今回のことは残念だが、エレノアとの婚姻で繋いだ伝手は捨てずに済むように手配してくれたよ」
私の疑問に父が真面目な顔で答えてくれた。ミュラー家の義両親は不義理を働くつもりはなく、カウフマン家に影響がないようにと立ち回ってくれるようだ。これで父と店で働く者がたち路頭に迷うことはなくなった。
私が安堵の息を吐けば、下働きの女性がワゴンを押しながらお茶を持ってきてくれる。私と父が座る横で、下働きの女性は慣れた手つきで紅茶を入れてくれた。ふいに鼻をくすぐる紅茶の匂いに、胃から込み上げてくるものがあった。
「――っ!」
吐き気がこみ上げた私は咄嗟に右手で口元を抑えた。どうにか吐かずに済んだものの、父は驚いた様子を見せ椅子から中腰になっている。
「大丈夫か、エレノア?」
心配そうに片眉を上げた父の姿に私は口元から手を放して笑みを作った。父が受け入れてくれたことに安堵して、私はすっかり忘れていた。紅茶の匂いは悪阻を誘発するのだ。
「平気だよ、父さん。ただ少し胃の腑の中身がせり上がっただけだから」
ふうと息を吐いた私はなんでもないように振舞えば、父がハッとした顔を見せる。
「エレノア、食事中に今と同じようになることは?」
「稀に」
「朝、気分が悪くなることは?」
「ここ最近多いかな」
父の疑問に私は素直に答えた。これは父に私が妊娠していることが露見したと諦めたからでもある。せっかく家族の下へと戻ってきたというのに、本当に予期せぬ妊娠はいろんな不都合を起こしてしまっていた。
「……月のものは?」
最後の父の疑問に私は無言で首を縦に振る。すると父は中腰から、また椅子に腰を掛け、上半身を前に倒して頭に両手を添えた。
「父親としては娘の妊娠を素直に喜ぶべきことだ……だが……商人として私はエレノアの慶事を素直に喜べない」
そうして父は手を放して上半身を起こして私を見つめる。私は父の言葉にどう答えるべきだろう。ごめんなさいと謝れば良いのか、無用な争いを避けるために子を堕ろすと口にすれば良いのか。
ただ私は義母に、アドルフの後を追わないと約束したばかりだ。ここでアドルフとの最後の繋がりとも言える子を自ら諦めてしまえば、私は本当に生きる理由を失ってしまう気がした。それならば王都から出て、どこかでひっそりと暮らすのが一番良い方法だろうか。私がなにも言わないでいれば、父は小さく息を吐き背を正した。
「私はもう家族を失いたくない。アドルフ殿のご両親の性格は知っているが、弟君がなにを考えるか私には予想がつかない。エレノアが妊娠していると分かれば、ミュラー男爵家が対策を打ってくる可能性は十分ある」
父は一瞬にして、ミュラー男爵家がどう出てくるかを考えたようだった。たしかに私も義両親のことは知っているものの、アドルフの弟のことは全く知らない。ミュラー家の次代は弟君の子に継がせると義父が口にしていた。
まだ幼いはずの子に自身の将来を揺るがす存在が生まれたとすれば、多少なりとも彼の成長に影を落としそうである。アドルフを失った矢先に妊娠してしまったと私は自分の腹に手を当てる。でも、アドルフの子を成せたことで石女ではなかったと安堵する気持ちもあった。
――妊娠のお陰か自分の気持ちが揺れてる。
アドルフのもとへ行こうと思ったり、どうして今になって子を授かったのだと後悔したり。それなのに、アドルフの子を授かれたことに安堵している自分もいる。自分でも呆れるほど、私の感情は揺れ動いていた。そんな私の気持ちを父は見透かしているのか、とても落ち着いた声を放つ。
「王都のどこかでエレノアが住めるように家を手配しよう。使用人も二人付ける。これで君が困ることはそうあるまい。あとは無事に元気な子を産んで欲しい」
そう告げた父は、一拍置いてまた言葉を紡ぐ。
「ただ、エレノアが母さんのようになるくらいなら…………子を諦めるという選択もあることを覚えていて欲しい」
眉間に皺を寄せた父の声は重いものだった。私はお腹の子をどうしたいのだろう。生めば良いのか、諦めてしまうのが最良の選択なのか……今はまだ答えは出ないけれど、父は私のことを支援すると申し出てくれた。
ならば、王都のどこかでひっそりと一人生きてみるのも良いのかもしれない。まだアドルフを失った傷も消えず、子を生み育てる覚悟も持てない私だけれど一筋の光が見えた気がする。私は父の目をしっかりと見据えた。
「……うん。たくさん考えてみるよ」
答えは出ないからきっとたくさん迷うことになるけれど、それでも今はほんの少し見えた光を頼りにしてみよう。父は私の言葉に深く頷き眉間の皺を解いて、重たい雰囲気を少しだけ軽くした。そして。
「ああ、そうだ。騎士団の方がエレノアに会いたいと打診していてね。明日、面会を頼んでも良いだろうか?」
父の言葉に私は随分と騎士団の動きが早いと訝しむ。どうして騎士団の人が私を訪れるのだろう。私はもうミュラー男爵家の者ではないというのに、実家に戻っていることをもう知っているとは。騎士団の耳が凄く良いのだなと首を傾げるものの、父は必要なことだから私に伝えたはず。なら、拒否はできないと『わかりました』と私は父に告げるのだった。




