029:過ぎていく日々と後悔の再来
ヴァルターへの気持ちを私は理解しつつ、日々が過ぎていく。
そうして月に一度の訪問の日がやってきて、別れてしまうことが寂しいと感じるようになっていた。そして早く次の訪問がくるように、偶然に街で出会わないかと。月に一度の訪問を終えたあと、私はベアトリーチェに手紙を送ったところだ。
ドレスの直しが終わったと。ドレスの腰の位置はトルーデが苦労しつつもきっちり直してくれ、私は刺繍に専念できた。傷んでいたところに手を入れて、昨夜、ようやく完成したのだ。
真っ赤なドレスはベアトリーチェの性格によく似合っているだろう。
夜会で彼女が着ている姿を想像してみる。うん。やはり気の強い部分のある彼女にはぴったりだと私はドレスを着せたマネキンに視線を向けた。
「古臭さは感じないかしらね」
「ええ。お話を聞く限りでは問題なく仕上がっているかと」
「ドレスの雰囲気が随分と変わりましたよね、素敵です!」
トルーデとロッテが真っ赤なドレスに視線を向けている。ドレスの流行りは巡るものだから、数年後には目の前のドレスは古臭いものと言われているかもしれない。ただ私たちが直した事実は残っている。また手を加えられて、全く違うデザインのドレスに生まれ変わる可能性もあるだろう。さて、直したドレスを先ずはベアトリーチェが認めてくれると良いけれど。
流石に上級貴族が多く参加する夜会に彼女たち夫妻は向かわないはず。
騎士爵位と男爵位と子爵位、そこから上の家格である伯爵位と侯爵位と公爵位では見えない壁があると言われている。なんとなく低位貴族と高位貴族の住み分けがなされているのだ。だからベアトリーチェが上級貴族も参加する夜会には場に合ったドレスで向かうはず。無用な心配よりも、やはり見て貰って認められることだけを考えよう。
二日後のお昼過ぎ。ルシアンを連れた、ベアトリーチェが屋敷にやってきた。
自室ではハンスとルシアンが遊んで、ロッテが面倒をみてくれている。応接室へと移動させたマネキンが着た赤いドレスをベアトリーチェはまじまじと見つめていた。ときどき顔を凄く近付けて、傷んでいた部分も直していることに感心してくれた。確認を終えたベアトリーチェは椅子に戻り優雅に腰を掛けた。
「期待以上の仕上がりですわ!」
彼女の言葉に私とトルーデは安堵の息を吐く。流行りの模様をそのまま使うのではなく、配置や組み合わせに工夫を凝らした。修繕の作業をしながら、ドレスの直しにも注力していた。私たちの努力が報われた瞬間だった。
ドレスを見たイダは貴族関連だと察して、関わろうとはしなかった。いつも通りに服を持ち帰り、いつも通りに納めてくれ、いつも通りにお金を受け取っている。だから情報が外へ漏れる心配はないだろうと私は目を細める。
「では……」
「問題ありません。お約束の代金を支払いましょう。そして以後も継続してお願いすることになますわ」
と言っても、頻繁にお願いすることはないとベアトリーチェが言葉を付け加えた。流石に頻繁に持ち込まれると、仕事の許容量を超えてしまう。たまに依頼を受けるくらいがちょうど良いだろう。
「ありがとうございます。私たちも良い経験となりました」
私はベアトリーチェに礼を執る。私は買い付けに向かうようになったし、トルーデはもっと技術を磨かなければと気合を入れている。ロッテもドレスを直してみたいという願いを持ったようで、修繕作業に以前よりも真剣に取り組み始めていた。
ベアトリーチェからの依頼は驚いたけれど、受けて良かったと再認識したのだ。それに、やはり、こうして腕を認めてくれたり、形見の衣装を直した時の老人のように感謝されたりすることに大きな意味がある。お金を頂くことも大事だけれど……表現しがたい達成感を得られるのだ。
「では、お暇いたします。ドレスは家の者に回収させましょう」
「はい。ではルシアンさまを呼んで参ります」
すると、護衛に抱かれたルシアンとロッテに抱かれたハンスが応接室へとやってきた。二人ともまだ遊びたいと主張しているが、別れなければならないということも察知しているようで不機嫌になっている。
「かか。もっちょ」
ロッテの腕から降りたハンスが私の下へとやってきた。
「ハンス。ルシアンさまに『またね』と言いましょうか。そうしたら、またルシアンさまと遊ぶことができるかも」
ルシアンは護衛に抱えたままベアトリーチェの方へと顔を向けた。
「かあさま。もうかえらねばなりませんか?」
「ええ、用事は済みましたもの。ハンスと再会の約束を交わして戻りましょう」
私とベアトリーチェはお互いの子に苦笑いを浮かべる。大人の都合で動いているから少し申しわけなさを抱くけれど、またきっと会えると二人を諭せば、屋敷に静寂が訪れた。やはりベアトリーチェは華があると感じながら、ハンスの面倒と修繕の作業に代筆業を担っていれば、また日々が過ぎて行く。
――ハンスが二歳になった頃。
ヴァルターとの距離感は、以前より親しくなっていた。でも、お互いにどこか線引きがなされていて、踏み越えないようにと意識している。
ハンスが凄くヴァルターに懐くようになり、私よりも息子の方が彼の別れを惜しんでいるかもしれない。ルシアンとも仲が良く、本当に友達のようになっていた。ベアトリーチェも以前の依頼から、本依頼を一つ寄越してくれている。
私は自室にある幼児用のベッドで眠るハンスに視線を向けた。隣にいるロッテは眉尻を下げている。
「ハンスさま、大丈夫でしょうか?」
「そうね、なにもなければ良いけれど……」
ハンスはこの一ケ月、食欲が落ち元気がなかった。医者に診て貰ったが原因は分からなかった。そして二、三日前、には鼻水と咳が酷くなり……そして今日、ついに熱を出してしまった。また医者にハンスを診て貰えば、子供がよく罹る症状だからベッドで寝ていれば治る笑っていた。私は眠るハンスの額についた汗を手で拭い、ロッテに仕事に戻ってと伝える。
「なにかあれば、お知らせください」
ロッテは心配そうな顔で部屋を出て行く。すると途端に部屋の雰囲気がガラリと変わった。ハンスの鼻が詰まっている寝息しか聞こえない部屋は凄く寂しい。
暇だからと繕い物をしようにも、ハンスが気になって集中できなかった。仕方ないと修繕の仕事は諦めて、別のことをしようにもなにも手が付かない。今、ヴァルターが屋敷に訪れても、いつものように対応はできないし、彼もいつも駆け寄って行くハンスがいないことを不思議に思うに違いない。
「駄目な母親よね、ハンス」
ごめんなさいと、またハンスの額を手で拭う。こんな時まで、ヴァルターの姿を追いかけるようになるなんて……アドルフ以外の男性に目が行くなんて全く考えていなかった。ずっと、アドルフしか知らないまま生きていくだろうと婚姻前は朧気に考えていたのに。
「なにか身体に良い物を食べなきゃね。卵でも買ってきて貰いましょうか」
もしかしたらハンスの病気が治るかもしれないと、私は席を立って扉を開けてロッテにお願いをした。するとロッテは少し嬉しそうな顔になり『直ぐ買ってきますね! あとトルーデさんにハンスさまが食べられる卵料理を作って欲しいってお願いします!!』と告げ、短い廊下を走って行く。そうして卵を買ってきたロッテが私に報告をくれ、少し離れた位置にはトルーデとアントンが自室に視線を向けている。そして丁度部屋の前にやってきたゲオルグが眉根を顰めた。
「いや、気持ちは分かるんスけど、エレノアさまが食べなきゃ、ハンス坊ちゃんが治っても意味ないでしょ!」
誰かが欠けるなんて俺は嫌だとゲオルグが続ける。彼の声にトルーデもロッテもアントンも頷いていた。そういえばハンスが寝込んでから、ほとんど食事を摂っていなかったと気付く。あれ、と思えば途端にお腹が空いてきた。無意識に手を当てれば、私の腹の虫が鳴った。部屋で食べられるものを用意しましょうと、なんとも言えない表情でトルーデが離れた位置から教えてくれる。
そうして温かいスープとパンを口にすれば、少し落ち着いた気がする。そうだ、料理を作って貰ったお礼を告げていないと、私は空いた食器を持って調理場へと向かう。するとトルーデがいて、こちらに振り返った。
「トルーデ、ありがとう」
空の食器を返せば、トルーデはほっと息を吐いて私を見つめた。
「いいえ。エレノアさま。ハンスさまの面倒は我々が看ることができましょう。少しお休みなさってください」
トルーデは以前、私が無茶をして体調を崩したことを心配しているのだろうか。たしかに彼女が言った通り私が倒れるわけにはいかない。今はお店のこともあるのだ。素直に助言を受け入れよう。お腹が満たされたお陰で、きちんと考えることができていると私は笑みを作った。
「そうします」
私は食堂から自室に戻り、軽く着替えをしてベッドに潜り込む。ハンスの側にはロッテが控えてくれることになり、私はなにかあれば叩き起こして欲しいとお願いする。そうしてベッドに潜り込んで身体を横たわらせれば、私は知らぬ間に眠りに落ちていた。
目が覚めてもハンスの熱は下がっていなかった。次の日は少しだけ体調を戻したようで、ベッドの中で『あしょぶ!』とハンスは主張している。無理をしてまた熱を出しては困るからと、食事とお手洗いと睡眠と暇だろうと偶に私が読み聞かせをしたりしていた。
トルーデの卵料理は続いているが、ハンスは少し食べただけで止めてしまう。お腹が減っているはずだろうに……風邪のせいだろうか。ハンスの肌が荒れているように見えるものの、単に体調不良が続いているからなのか……なにか他に原因があるのかは私には分からなかった。
なににせよ、神に祈るしかないと熱を出したり引いたりを繰り返すハンスを心配していれば、また数日が経っていた。その間に何度も医者を呼んで診て貰ったけれど『風邪ではないか』『風邪のようなものだろう』という言葉しか貰えない。
また数日が過ぎれば、弱々しい声でハンスが私を呼んだ。そうして彼がいるベッドに私が寄り添えばにっと笑った。
「ハ……ンス?」
ハンスの口の隙間から血が見えた。私は驚いて、彼の口の中に親指を差し込む。すると歯茎が腫れて出血していた。
――弟と同じ!!
どうして亡くなった弟と同じだと今まで気付けなかったのだろう。元気だった弟は突然、体調を崩したあとずっとベッドで眠ることが多くなった。そうしていつの間にか歯茎から出血するようになっていた。
身体に痣が出ていて、偶に子供が罹るという病気だと医者から告げられた。そして治療法はないとも。私はハンスの服を捲る。すると身体の所々に痣が出ていた。私は膝から崩れ落ち、幼児用のベッドの短い柵を握り込む。
「ごめんなさい、ハンス。気付けなくて……今、気付いて、ごめんね」
とめどなく溢れる涙が止まらない。そして弟を死なせてしまった私の後悔も溢れ出てくる。
「どうしよう……どうすれば良いの。私はまた、見ているだけしかできないの?」
ハンスの幼い命の灯が消えてしまうまで、私はなにもできないのだろうか。十二年前、おろおろとなにもできずに世話だけをしていたあの頃の私のように。
「また、また……失うわけにはいかないの!!」
弟とアドルフを失い、ハンスまで奪われたなら、私はもう立ち直れる気がしない。けれど、けれど……もしかすれば。十年という時間が人間の知恵や努力により、治療方法や緩和方法が発見されているかもしれない。それにまだ王都には当たっていない医者がいる。遠く離れているけれど辿り着けない距離ではないと、私は机の引き出しに入れていた有り金を握りしめて部屋を出るのだった。




