025:過行く日々といつもと違う言葉
――ヴァルターが初めてハンスを抱き上げてから一年が過ぎている。
ハンスは一歳三ヶ月となり、乳離れも進み、柔らかい固形物を口にするようになっていた。歩くこともできるようになったけれど、まだ覚束ない。ハンスは立ち歩きの方が楽なようで、壁や椅子に手を当てながら行きたいところに向かったり、機嫌が良くなれば両手をあげて勢いで歩いたりと。
私たちの言葉も理解をしていて、相槌を打ってみたり、首を振ってみたりと忙しい。私のことを『かか』と呼び、トルーデは『ルデ』と呼んでいる。
私はベッドから起き上がり、ハンスが眠るベッドへ視線を向ければもう起きていた。ベッドの柵を手で持って立ち上がり私を見ている。
「そちょ!」
「まだ朝早いから、もう少しあとにしようね、ハンス」
自室でハンスが外に行きたいと訴えているけれど、まだ朝ご飯を終えていない。着替えも済ませていないし、他のこともまだである。私が笑えば、ハンスがむすっとした顔になる。
泣くことしかできなかったハンスが今の様な感情表現ができるようになるなんてと、私はベッドから立ち上がる。
どうかこのまま、無事に育ちますように。
ベッドで一日中過ごしていた頃より、ハンスから目が離せなくなっている。まだまだ不安はあるものの、子供の成長を見守るのは楽しい。
代筆屋青い鳥は一日に三人か四人のお客がくれば良いところだ。時折、お客が重なって待って貰うこともあるから、少し対策を取らなければならないだろう。ロッテが随分と読み書きができるようになって、短い手紙であれば読めるようになっている。トルーデに協力を仰ぐこともできるけれど、彼女は服の修繕に集中していて貰いたい。
というのも、以前、奥方の形見を直した老人は律儀に約束を守っていてくれているらしい。彼から話を聞いて、大切な衣装や思い出の衣装を直して欲しいという依頼が何軒か舞い込んだのだ。
綺麗に直して欲しいという要望がほとんどで、少し時間は掛かってしまうが良い収入になっていた。トルーデとロッテとアントンとゲオルグを私が直接雇うには、一ケ月で最低金貨四枚は必要である。もっと余裕が欲しいから、月の売上は金貨十枚を目指したいが……まだ少し遠い道のりだ。売上は右肩上がりのため、いつかは成し遂げることができるだろう。
イダはハンスに授乳をすることはなくなっていた。でも、修繕の仕事は請け負ってくれている。以前より、作業が上達しているし、一日に直せる量も増えていた。子供の面倒を見つつ、たくさんの針子作業をするイダを見習いたいところだが、私はまだまだ彼女の領域には至れない。
私とハンスの朝の準備をしていれば、ロッテが部屋に顔を出す。
「エレノアさま、食事の準備が整いました」
「ありがとう、ロッテ。今行きます」
私はハンスをベッドから抱き上げる。本当に随分と重くなったと感じながら、廊下を歩いて食堂へ向かった。ハンスは部屋に入るなり、スープの匂いを嗅ぎ取ったようで、ぱあっと顔を明るくさせる。そうして自分がいつも座る椅子に手を伸ばして、早く食べたいと訴えているようだった。
「ほら、ハンス。暴れないで椅子に座りましょうね。きちんと座ってから食べないと。お行儀が悪いでしょう?」
私の言葉のすべてをハンスが理解できてはいないだろうけれど、たくさん喋り掛けてあげると言語の覚えが早くなるそうである。屋敷の四人も気を付けてくれ、ハンスに凄く言葉を投げてくれていた。
「エレノアさま、ハンスさまの分のお食事です」
「ありがとう、トルーデ」
「たくさん食べてくださいね、ハンスさま」
「ルデ!」
もう少しすればハンスはきちんと名前を呼べるだろうか。私はハンスの隣に腰を下ろして、彼の食事を進めながら自身も朝ご飯を口へ運ぶのだった。
私とハンスとトルーデとロッテと一緒に食事を終えた。ハンスは子供用の椅子に座って、今度は別のところに興味を移している。
「ロテ~」
「ごめんなさい、ハンスさま。私は仕事をしないと……」
ロッテはハンスに声を掛けて、朝の掃除を済ませるために食堂を出て行った。ハンスは遊び相手がいなくなったと顔をしわくちゃにしている。あ、泣きだすなと私が近寄ると『かか』と告げて、こちらへ両手を伸ばす。
「ご飯を食べたあとはゆっくりしようね、ハンス」
私はハンスを抱き上げて、あとはお願いとトルーデに片付けを任せた。ハンスの様子を見ながら、帳簿をつけようと私は自室に戻る。ハンスがよく動くようになって、私は修繕の仕事に取り掛かる機会が減っている。
遊び疲れたハンスが熟睡している時を狙い、トルーデとロッテの補佐に入るようにしている。ハンスが生まれた頃は、一年経てば少しは仕事に取り掛かれるだろうと安易に考えていた私に今の状況を教えてあげたい。
ハンスは凄く元気で目が離せないぞ、と。
予想外の出来事に嬉しいやら、悲鳴が上がりそうやら。なににせよ、日々は忙しなく過ぎていた。ハンスの成長も楽しみだが、店の成長も楽しみにしている。理想と現実は上手くいかないけれど、以前掲げていた目標の四人を私が直接雇用したいことの次に、店を持ちたいという欲も出てきていた。それを成し遂げるためには、なにか大きな起爆剤が必要そうだ。
私は店の帳簿を見つめ、売り上げが安定してくれれば四人を雇うことができると、持っていた筆を机に置く。
「まだまだ、先かなあ」
アドルフの姿絵に視線を移した私はもう一度筆を握ると、側で遊んでいたハンスが音を立てた。ばっとハンスの方へ私は顔を向ける。
「あ」
声が勝手に漏れた瞬間には手遅れだった。床で遊んでいたハンスが積み木を口に入れている。先程、ご飯を食べたというのに、お腹が空いてしまったのだろうか。
なににせよ、積み木がハンスの涎塗れになる前に、食べ物ではないと教えなければと私は席を立つ。私がしゃがみ込めば『かか~』とハンスが声を上げ、積み木から手を離して抱っこをせがんだ。私はハンスの要望通りに抱き上げて、どうにか立ち上がる。
「ハンス、積み木は食べ物じゃないのよ」
と私が視線を合わせれば、ハンスは目を閉じたり開けたりを繰り返す。どうやら眠くなってしまい、積み木をしゃぶっていたようだ。私は苦笑いを浮かべて、ハンスをベッドへと連れて行く。
「おやすみ」
うとうととしているハンスの頭をしばらく撫でてやれば、直ぐに寝息を立て始めた。私は丁度良いとばかりに応接室へと向かう。すると片付けを終えたトルーデと掃除を終えたロッテが修繕作業に取り掛かっていた。
「エレノアさま。ハンスさまは?」
ロッテが修繕の手を止めて、私に声を掛ける。ロッテは一年前よりも随分と衣装の修繕作業が上手くなっていた。トルーデという良い先生がいるうえに、ロッテは教えたことを実践して、何度も失敗しながら今がある。
「寝ちゃった。しばらく起きないでしょうから、私も手伝うわ」
私の答えにロッテは『そうですか。エレノアさまがいないとハンスが泣かないと良いですけれど』と苦笑いを浮かべる。時々、ハンスの様子を見るつもりはあるのだが、私は簡単に直せそうな品はないかと服を探し空いている場所へ腰を下ろした。そうして三人で作業をしていると、来客があったようである。外で庭の手入れをしてくれていたアントンが私を呼びにきた。
「ヴァルター・フォン・アイゼンベルクさまがお越しになられました」
応接室に顔を出したアントンは玄関先でお待ちになっておられますと続けて教えてくれた。ヴァルターはずっと一ケ月に一度の定期訪問を欠かしたことはない。
そして時々、近くに寄ったから様子を伺いにきたとか、練習着を直して欲しいという騎士を連れてやってくるようになっていた。今日は定期訪問の日ではないし、どうしたのだろうと私は首を傾げる。考えても仕方ないと私は席を立って、ちょっと行ってきますとトルーデとロッテに告げた。そうして短い廊下を歩けば、玄関にはヴァルターが手になにかを持って静かに立っていた。
「ヴァルターさま。ようこそいらっしゃいました」
「エレノア殿。朝の早い時間に、突然訪れて申しわけありません。昨日、美味いと噂の焼き菓子屋のクッキーを頂いたのですが、私は甘い物が苦手です。皆さまで食べて頂けませんか?」
彼は王都で有名な焼き菓子店の名前が入った紙袋を私に差し出した。美味しいと有名で、以前にゲオルグにお使いを頼んだけれど、向かうのが遅かったのか買えずに戻ってきていた。そんな品を軽く受け取ってしまって良いのだろうかと私は紙袋に手を伸ばすのを戸惑う。
「……手に入り辛い物ですが、本当に頂いてよろしいのでしょうか?」
「騎士団の皆で食すには足りないのです。ですから、受け取って頂けると助かります」
再度ヴァルターが私に紙袋を差し出した。
「ありがとうございます。お言葉に甘えさせて頂きますね。ハンスに会って頂きたいのですが、今は眠っておりまして」
「ようやく彼が私に懐いてくれたのに残念です」
ヴァルターが小さく笑う。最近のハンスはヴァルターが屋敷を訪ねると『たー!』と言いながら駆け寄っていく。ヴァルターはそんなハンスを大事そうに抱き上げて『邪魔をするぞ』と告げるのだ。ハンスはヴァルターに抱き上げられると視界が高くなることが面白いらしい。そんなことでと思ってしまうが、子供にとっては新鮮なのだろう。背の高い彼だからこそできることだった。
しかしヴァルターは今まで甘い物が苦手と黙っていたようである。茶請けにお菓子を出すのだが、焼き菓子であることが多い。もっと早く知っていれば、違う品を用意していたというのにヴァルターは我慢して食べていたようだ。
「次の訪問の際には甘くない茶請けを用意いたしますね。教えてくだされば良かったのに」
私が冗談っぽく言えば、ヴァルターがはっとした顔になる。
「あ……いえ、その。食べられないことはないので……あまりお気を使わず」
「冗談です。また、お会いしましょう」
おそらく今の時間の訪問であれば、彼は今から騎士団へと向かうはずだ。ヴァルターも長居をするつもりはなかったのだろう。
「ええ。では、また」
そう告げて、玄関を後にして門扉に向かって歩いて行く。私はヴァルターさまを見送ろうと二歩、遅れて歩き玄関の前に立つ。いつもであれば、そのまま見送るけれど。
「ヴァルターさま!」
なんとなく彼の背が寂しく見えて、声を掛けてしまった。振り返ったヴァルターはどうしたのだろうと首を傾げる。
「お仕事、頑張ってください」
「はい」
私の声にヴァルターは目を細めながら笑い、門扉を出て騎士団の隊舎がある方へと歩いて行くのだった。




