024:律儀と禁止と腕の中の命
今日はヴァルターが一ケ月に一度、屋敷に私の様子を伺いにくる日である。卵を届けてくれた日は、私の体調を心配しての予定外の訪問だった。あの日は本当に飛んで帰ってしまったから、今日は少し話す時間があれば良いけれど。
もうすぐ彼が訪れる時間となっている。一ケ月前に『ハンスを抱きたい』となんでもない願いを口にしていたが、丁度ベッドの中で声にならない声を上げている。彼がハンスを抱く良い機会となれば良いけれど。
「泣かないでね、ハンス」
真面目な彼が凄く困り顔になるだろうからと私はハンスの頬を撫でると、きゃっきゃっと声を上げた。するとハンスはもっとして欲しいと強請るように身体を動かした。
まだ小さくて、時折、息をしているかと怖くなるけれど、私の気持ちを知らないままハンスは順調に育っているようだ。大丈夫。ハンスは弟のようにならないと自分に言い聞かせていれば、いつも彼が屋敷に訪れる時間になっていた。
ぱたぱたと廊下を歩く音が聞こえ、今度は扉の向こうからノックの音が二度鳴る。私は『どうぞ』と答えれば、トルーデが部屋に一歩入ってくる。
「エレノアさま。ヴァルター・フォン・アイゼンベルクさまがおいで下さいました」
「ありがとう。行きます」
トルーデの横に私が並ぶと、彼女はこちらに視線を向けている。
「本当に、一ケ月に一度、同じ時間にこられますねえ」
「そうね」
目尻の皺を深めたトルーデの言葉に、私は屋敷のみんなが考えていることだろうとおかしくなる。本当に初めて彼と出会ってからというもの、律儀に月に一度の訪問を守っていてくれた。
用事があるからと日程を変更したいという要請もない。他の騎士団の人も彼のように、どこかへ月に一度、同じ時間に恩人の家族の下へ向かっているのだろうか。
ヴァルターに聞いてみようかと思い付くものの、それはそれで失礼なのかもしれないと私は首を軽く振る。妙なことを考えている場合ではないと、私はトルーデと一緒に玄関を目指す。途中、ロッテにハンスを応接室に連れてきて欲しいとお願いをする。
短い廊下のはずなのに、いつもより長く歩いているような……いや、廊下の長さが変わったら怖いなと前を向けば、開いた玄関の扉の向こうにヴァルターが立っていた。
「ようこそ、ヴァルターさま」
「出迎え、ありがとうございます。先日は突然の訪問、失礼致しました」
私が頭を下げると、彼も礼を執る。私に謙る必要はないというのに、アドルフの元妻として慮ってくれていた。なにか胸にくるものを感じるが正体は分からない。とりあえず、先日のお礼をと私は彼の顔を見上げる。随分と顔を上げなければならないことに今更気付いて、少し可笑しかった。
「いえ。頂いた卵ですが、とても美味しかったです」
私が礼を告げれば、彼は薄蒼色の目を細める。外から吹き込む風はまだ冷たいと彼を屋敷の中へと導いて応接室を目指す。
長く屋敷に通い続けている彼は自ら語ろうとはしない。必要なことだけを口にして、用件を済ませればそそくさと帰る。もしこの先も彼が屋敷に通ってくれるなら、もっとお喋りができるようにしたい。そう考えた私は半歩後ろを歩く、ヴァルターへと視線を向けた。
「私は、家の者から料理はしない方が良いと止められているので、トルーデに作って貰いましたが」
卵の話の続きだから、唐突さはないはずだ。彼のことを聞いてみたいけれど詮索は宜しくない。それなら私の事情を打ち明けるしかなかった。
「何故?」
「一通りできるのですが、どうにも味が整わなくて……だから作らない方が良いと、父からもアドルフさまからも言われました」
私は商家出身である。嫁ぎ先により家事ができないと困ることもあるだろうと、父が使用人に命じて私に全て仕込んでくれた。料理、洗濯、掃除に他、諸々。
全て一通りできるけれど、料理だけは上手くいかない。屋敷の料理人に『お嬢さまはレシピ通りに作られますが、最後に一工夫をなさろうとするので……』とコック帽を取って凄く済まなさそうに教えてくれた。
アドルフにも私の手料理を振舞ったことがある。だが、アドルフから返ってきた言葉は『美味しい』でも『ありがとう』でもなく『独創的な味だな……貴族になったんだ。せっかくなら楽をしよう』と困惑気味で告げられた。それから、一切料理をしなくなった。たしかに私が作る品よりも料理人やトルーデが作ってくれた方が美味しい。
私の話を聞いたヴァルターは凄く不思議そうにしていた。
「意外です。エレノア殿は器用でしょうに」
「そうでもなかったようです」
廊下は短く、応接室にすぐ辿り着いていた。会話が終わってしまったなと、私は扉のノブに手を掛ける。
「どうぞ、中へ」
扉の奥にはベッドの横にロッテが控えていた。私たちが入るなり、ロッテは礼を執り壁際へと移動する。トルーデは『お茶を淹れてきます』と告げる。私は中へと足を進めて、ヴァルターに着席を促した。いつものように、対面にはヴァルターが腰を下ろし、私も応接用の椅子に腰を下ろした。
「体調は如何ですか?」
「なにも問題ありません。修繕作業の従事者を増やして、私の自由時間が少し増えましたから。楽をさせて貰っています」
ヴァルターの疑問に私が答えると、彼はロッテの方へと視線を向けた。ロッテはヴァルターの視線に気付いて首を縦に一度振る。
「それなら安心しました。しかし気を付けていても体調を崩すことはありましょう。ご無理をなさらずに」
膝の上に置いていた手を動かして、ヴァルターはそっと両手を組んだ。
「承知しました。以前の定期訪問で、ヴァルターさまはハンスを抱いてみたいと願っておられましたよね? 今日は丁度、起きているので抱いて頂けませんか?」
私の提案にヴァルターは目を丸く見開く。先月の訪問で彼はそう願っていたのに、忘れてしまっていたのだろうか。少し反応が鈍いヴァルターに私は席から立ち上がる。
ベッドの側に向かい、私はハンスを抱き上げた。もう、何度ハンスを抱き上げたのか分からない。たった三ヶ月なのに、ハンスが何度泣いたのか、何度笑ったのか、何度寝たのか、何度食事を摂ったのか……数えきれないほど繰り返している。
本当はアドルフと一緒にハンスと私と三人で過ごしていたと考えると、少し切なくなってきた。でも、いなくなってしまったアドルフを求めても答えてはくれないから。
そういえばハンスは父と屋敷で働く四人とイダ以外に抱いて貰うのは初めてではないだろうか。義両親とは一度しか顔を合わせておらず、その時のハンスはぐっすりと眠っていたからお二人は遠慮していた。とはいえ。
「家族以外の方がハンスを抱くのはヴァルターさまが初めてですね」
うん。少し語弊のある表現だけれど、屋敷で働く四人とイダは仲間だから、家族と言っても差し支えはないはず。私の言葉に椅子に腰を下ろしたままのヴァルターがようやく立ち上がった。
「その、光栄です。赤子を抱くのは初めてなので教えて頂けると」
ヴァルターが恥ずかしそうに告げる。彼は末息子と聞いている。それなら赤子を抱くのは初めてになるのだろう。私は腕の中にいるご機嫌なハンスをヴァルターの前に差し出した。
「首は完全にすわっていないので、どちらか片方の手で頭と首を支えてください。あとは反対の手でお尻を支えつつ腕で背中も支えてくださると。あとは、ご自身の身体の方に引き寄せてくださいね」
私の言葉にヴァルターが少し目を回していた。言葉で聞くより、実践した方が早かろうと私はハンスをヴァルターへと更に寄せる。
ヴァルターは覚悟を決めたのか、両腕を差し出した。私は失礼しますねと声を上げ、ハンスの頭をヴァルターの方へと向ければ、ぎこちなく手が伸びてくる。そうしてヴァルターは大きな手をハンスの頭に添える。首も支えられるようにと、手をもう少し下に動かして貰った。
「っ」
息を呑むヴァルターに私は苦笑いを浮かべながら、反対側の手をハンスのお尻に添えて貰う。上手にハンスの身体を私の腕から離せばヴァルターへと渡った。
「……」
ハンスを抱いたヴァルターはどうして良いのか分からないようで場から動かない。身体も動かさず、正面を向いてどうして良いのか分からないと言いたげだった。真面目で律儀なヴァルターらしいのかもしれないが、緊張し過ぎではないだろうかと私は彼を見上げる。
「屈強な騎士の方でも幼子には敵いませんね」
私が小さく笑えば、ヴァルターが口だけ動かした。
「申し訳ありません……上手くハンスを抱けているのか、私には判断が付きません」
「大丈夫です。あとは堅さが取れれば問題ないかと」
抱き方は問題ないのだが、微動だにしないヴァルターにハンスが驚きそうである。だが、当のハンスはあまり気にしていないようで、言葉にならない声を上げるだけだった。
「もう少しすれば人見知りが始まるそうなので、ヴァルターさまを見たハンスが泣かなければ良いのですが」
彼は屋敷に月に一度訪ねてくるだけである。今日はご機嫌に抱かれているけれど、次の訪問ではハンスは知らない人に抱かれていると大泣きするかもしれない。
「それは……月に一度の訪問なので難しいのでしょうね。大きくなれば、私を覚えてくれるはず……」
覚えていて欲しいと、ヴァルターがようやくハンスの方へと顔を向けた。するとハンスはにこっと笑う。どういう意味かは分からないけれど、もしかすると次は大泣きするぞというハンスの意思表明なのだろうか。そうなれば、途方に暮れるヴァルターを苦笑いを浮かべながら見守ることになるのだろう。




