021:感謝と反省と試験
体調を崩した日の夜。
五時間の睡眠で私の体調は随分と持ち直している。ただ、また倒れてはいけないとロッテが常に私の側で侍っていた。誰かがずっと側にいる状況を嫌がる人もいるかもしれないが、私は男爵夫人を務めていたから少しばかり慣れていた。
それにロッテに対して抱いている気持ちは、妹のようだと認識しているため側に侍られていても苦痛ではない。明るい子だし、ハンスのことも凄く気に掛けてくれている。
流石に今日は繕い物は止めて、ゆっくり過ごそうということになった。ロッテは監視役みたいなものであるが、私が無茶を押し通した結果である。側にいなければいけないロッテには申し訳ないことをしている。明かりが灯る自室で椅子に腰かけた私はベッドの横でハンスを構っているロッテを見た。
「ロッテ、ありがとう」
急に声を掛けられたロッテは少しだけ身体を揺らした。ゆっくりとこちらに振り向けば、笑みを浮かべている。
「エレノアさまにはいつもお世話になっております! だから、本当は私がお礼を言わなきゃいけないんです!!」
ロッテが続けて『ありがとうございます』と声に出し頭を下げた。お世話になっているのは私の方である。仕事を手伝って貰っているし、身の回りの世話とハンスの面倒も見て貰っている。文字の読み書きについては、ロッテに学ぶ意志がなければできないことだった。難しいと詰まっても、ロッテは時間を掛けて答えを導き出している。
たしかに教材として問題を作ることに手間を掛けているものの、正解を導いた時のロッテの笑い顔を見るのは私にとって幸せな時間というか。なににせよ、感謝されるようなことはしていない。
でも、私とロッテの立場を入れ替えたなら、私も主人に礼を伝えるだろう。私はロッテを真剣に見つめた。
「ロッテ。これからも迷惑を掛けることがあるけれど、よろしくね」
「はい! 私の方こそ、よろしくお願いします! エレノアさまにはたくさんのことを頂いておりますので!!」
ロッテとそんなやり取りをしていれば、随分と遅い時間になっていた。そろそろロッテは寝なさいなと告げれば、後ろ髪を引かれているのか私とハンスを気にしながら彼女は部屋を出て行く。さて、私はハンスに起こされるまで睡眠を取ろうと、就寝の準備を終えてベッドへ寝転んだ。少し仕事のやり方や量を考えなければいけないと、自問自答していればいつの間にか眠りに落ちているのだった。
ハンスに起こされたり、授乳をしなければとぱっと目が覚めるのを何度か繰り返していれば、部屋の窓から朝陽が射し込んでいた。
「起きよう」
ベッドの上で独りごちれば、部屋の外からノックの音が二度鳴った。ロッテかなと私は『どうぞ』と告げれば、トルーデが顔を出し朝の挨拶を口にする。
「エレノアさま、ご体調は? 朝ご飯は食べられますか?」
「おはよう、トルーデ。体調は戻っているし、朝ご飯も食べられるわ」
私はそう告げたあと、言葉を続けた。
「疲れているという自覚が足りなかったみたいだから、もう少し気を遣ってみるわね」
ベッドの上で喋り続けるのも失礼かと、私は身体を動かして床に立ち上がる。眩暈もしないから、本当に睡眠不足に陥っていただけのようだ。偶には纏まった睡眠時間を確保すれば、昨日のようにはならないだろう。イダにも心配を掛けてしまったから、今日の訪問で謝罪とお礼をしなければ。そんなことを考えていれば、トルーデが眉根を下げながら私を見ている。
「エレノアさまはお一人で抱え込む癖がございますから。知っていながら、諭せなかった私の落ち度でもあります。申し訳ございません」
「気にしないで。私が言うのはおかしいけれど……次、倒れないようにすれば良いだけだから。また倒れるかもしれないけれど……昨日は迷惑を掛けてごめんなさい」
お互いに頭を下げる。顔を上げればお互い、苦笑いになっていた。トルーデに着替えたら朝ご飯にしましょうと告げられた私は夜着から、普段着を纏い食堂へと向かうのだった。
――昼前。
イダが屋敷に顔を出した。私が謝ると『そんなこと、どうでも良いんだよ!』と一言で済まされる。え、と私が困惑していると、イダが背を正す。私を射抜くイダの赤茶色の瞳に私が映り込んでいるような、そんな勘違いをしそうなくらい真剣だった。
「ねえ、エレノア。相談したいことがあるんだ。良いかい?」
「構わないけれど」
どうしたのだろうと私が不思議に感じていれば、イダは雰囲気を軽くする。
「じゃあ、ハンスにお乳をあげてからだね!」
ちょっと待ってて、と歯を見せながらイダはハンスがいる私の自室へと向かって行った。玄関先で話していたのでアントンとゲオルグも『どうしたのでしょうか?』『なんなんスかね?』と私の自室に視線を向けていた。トルーデもイダも玄関先で三人固まって話していることが、不思議だったようで声を掛けてくれた。私が『イダが私に話があるって』と告げれば、なにかあったのではと眉尻を下げていた。
まさか授乳の仕事を辞めたいという申し出があるのだろうか。イダは屋敷への行き来に五分という距離のところに住んでいる。そのお陰で再々顔を出してくれているのに、イダの代わりの人を見つけるのであれば苦労しそうだ。
仕事を辞める話でなければ良いけれどと、集まった面子と顔を突き合わせていればイダが私を手招きする。私はごくりと息を呑み、イダの下へと歩いて行く。
――初めて交渉事をした時のような気分だ。
自室にある二個の丸椅子を置いて、私の正面にイダが腰掛けた。ハンスはお腹が満たされて、ご機嫌なのかベッドの中で声にならない声を上げている。ハンスの声を聞きながら、イダは息をぎゅっと手を握り込んだ。
「前から考えていたけれど、昨日のエレノアを見て早くした方が良さそうだと決めたんだ」
イダの赤茶色の瞳がじっと私を見つめている。私のイダを見る目は不安で揺れていないだろうか。なにを言われるのだろうと不安で落ち着かない。膝に置いた両の手を絡ませたり、解いたりしてイダの言葉を待つ。
「修繕の仕事、あたしも参加させてくれないかい? 簡単な繕い物ならあたしでもできる。エレノアは少し楽ができて、あたしは金を得られる。悪い話じゃないと思うんだけれど」
どうだろうとイダが顔を少し傾けた。
「え?」
予想外の言葉に私は呆けてしまう。するとイダがすぐさま反応した。
「え、ってなんだい!」
「てっきり、イダは授乳の仕事を辞めたいと申し出るのかなって……」
前のめりになるイダに私は膝の上に視線を向けた。私は盛大な勘違いをしていたようで、少し恥ずかしい。
「はあ? こんな条件の良いところ、辞めるわきゃないだろ!!」
イダがぐしゃっと前髪を掻き分けた。そうしてイダは息を整える。
「厚かましいこと言っているから、ちゃんとエレノアにお願いしなきゃって考えたあたしの気持ちを返しとくれよ!」
緊張は無駄だったとイダが椅子に座り直す。私は手元から視線を上げてイダを見る。
「ごめんなさい。でもイダを雇えるとは簡単には言えないの。修繕の仕事はお金を受け取っているから、イダにきちんとした腕がないと雇えない。お給金についてもお互いが納得していなければ、仕事は続かないでしょう?」
「そりゃそうなんだけれどさ、本当にアンタは生真面目だよね……雇い主はあたしらを馬車馬の如く使い潰すって考えるだろうに」
たしかに学がない、能がないと安い賃金で雇い、そんな人たちは使い潰してしまえば良いという商人はいる。
「それは……私の考えとはかけ離れているから」
私は父の背を見て育った。安く雇えば店が儲かることは重々承知している人であったが、使用人や雇っている人に父は誠実である。父のように店を軌道に乗せ、雇っている人たちが店主に信頼を向けている状況になれるのか私は分からないけれど。
もしイダを雇うことになれば、私が直接雇用した初めての人となる。イダは五人の子供を育てる母親だから繕い物はお手のものだろう。ただ彼女の腕前がどんなものかはきちんと確かめて、給金もお互いに納得できる状況でないと雇えない。
私がイダに相場で給金を出すことはできる。店の仕事は順調に進み、蓄えができている。ミュラー家の義両親から頂いた金貨三十枚は手を付けていない。
ハンスの手が掛からなくなる頃には仕事はもっと増やせるから、トルーデとロッテとアントンとゲオルグを私が直接雇用できる状況になっているはずだ。確定事項ではないけれど、そういう未来が描けるように目指していこう。
ただイダも幼子を抱えているのは私と同じだ。その辺りもきちんと決めておかなければ。
「イダも小さい子を抱えているでしょう? ウチで作業をすることになれば、家を空けることになるけれど」
「そう、それも話しておきたかったのさ! 家に持って帰って繕い物ができりゃ嬉しい。纏まった時間は取れないだろうから、簡単な仕事をいくつか持ち帰って、次の日にまた持ってくるって形は駄目かい?」
「それなら、仕事は納期のないものを選んで貰えば良いわね。あと、お給金は出来高制で出した方が良さそうね」
「あたしもその方が気楽で良いさね。できる分だけ持ち帰って、できた分の金を頂く。エレノアたちが少し楽になって、あたしは小金を稼げる。お互いに悪い話じゃないはずだよ……ってまあ、あたしが金を出すわけじゃないから強く言えないんだけれどさ」
こうして言葉を交わしながら、雇用条件を決めていく。私が考えていたのはトルーデとロッテのような住み込みで働くようなものだったけれど、出来高制であれば高くはない金額でお願いできる。
簡単な繕い物というのであれば、更に安い金額となるだろう。イダも家族を支えられるような金額は望んでおらず、家計の足しにできるような、空いた時間で少し作業ができる条件の方が良いそうだ。雇用条件はこれで決まったとして、あとは。
「それじゃあ、イダの腕を見せて貰って良いかしら」
私が椅子から立つと、今度はイダが不安そうな表情になっていた。
「なんだか緊張してきたよ」
試験があると知ったイダは柄にもなく身構えている。気軽に受ければ良いと私はイダに伝えて応接室へと移動する。応接室ではトルーデとロッテが繕い物をしていたから丁度良いと私は中に入る。私の後ろにイダがいることに、トルーデとロッテは繕い物の手を止めた。
「イダに直せる繕い物を持って帰って貰って、次の日に納品して貰おうって話をしたの」
私はトルーデとロッテに対してイダの腕前を確かめたいと伝えた。イダに私は自分で直せそうな品を一着選んでくださいと告げれば、真剣に吟味していた。そうして『これかな』と選んだイダには椅子に腰かけて貰い、私とトルーデは選んだ服に目を通した。
五センチほどの布自体の破れがあるものだった。直してくれるなら私たちも随分と楽になると頷いて、イダに針と糸は好きなものを使ってくださいと告げる。そうして手早く針に糸を通したイダは手元の衣装と向き合った。緊張しているようだから、いつもの技量が出せるかと少し心配になるけれど……これは採用試験である。
「では初めてください」
そう告げたあと、私はハンスの様子を伺いに自室へ戻る。ベッドできょろきょろとしているハンスを私は覗き込む。
「合格点、イダに与えられると良いけれど……どうなるかな。ねえ、ハンス」
柔らかいハンスの頬を一撫ですると、嬉しそうにハンスは声を上げるのだった。




