020:悩みと疲労と睡眠
――ヴァルターさまには、お困りごとはないのですか?
エレノア殿から問われた言葉が頭の中で反芻していた。最近、エレノア殿のことが気になって仕方ない。月に一度の訪問では足りないと心が叫んでいる。
騎士団の詰め所で自室に腰を下ろした私は、報告書を認めている手が止まっていた。いつもであればものの数十分で書き上げることができるというのに、今日は何故か一時間以上机に座っている。
ハンスを抱いてみたいと望んだ気持ちは本物だ。恩師であるアドルフ殿の子を抱きしめられることが、どれだけ幸せなことか私は理解しているつもりである。しかし、昨日会ったエレノア殿の顔色は優れなかった。無理をしていないかと私が問えば、笑って誤魔化された様な気もする。普段より私が自席にいる時間が長いためか、以前、エレノア殿の屋敷を訪問した三人組が少し離れた位置から視線を寄越していた。
「エレノアさんのところに……」
私の視界に姿は見えないが、気を張れば彼らがいることは一目瞭然だった。そして誰かが『エレノア』と声を上げたことが分かり耳に意識を集中した。
「夜会で氷の騎士って呼ばれているヴァルターがねえ」
「難攻不落ってえのも聞いたことあるぞ?」
「顔が良いって得だよなー俺も女の子をたくさん侍らせたいなー」
エレノア殿のことを語っているのかと思いきや、私のことを好き勝手言っている。とはいえ彼らの私を揶揄う言葉を否定する気にはなれない。夜会ではエスコート役も付けず、一人で参加する私を女性貴族は孤高だと黄色い声を上げていた。
元より私は騎士だから、女性との浮名を求めるような真似はしたくない。父であるアイゼンベルク伯爵は私に『婚約者は好きに選べば良い』と告げていた。家督を継ぐ長兄と予備である次兄がいるからと、私は騎士として過ごすことを許されている。だから、余計に婚姻を考えず、夜会には父から申し付けられたものだけに参加をし、壁の染みに徹していれば『氷の騎士』『難攻不落』と呼ばれていただけのこと。
顔が良くてもエレノア殿が……――
――なにを考えているのだろうか。邪な気持ちを抱いてはいけないと私は頭を振り、事務作業に戻るのだった。
◇
ヴァルターが屋敷を訪れた翌日。
今日も今日とて老人からの形見の服の修繕と騎士服の修繕に通常の修繕を行いつつ、代筆業とハンスの面倒を見ながら時間が過ぎていく。朝、少し時間が欲しいと私は食事を抜き、ハンスを横に騎士服の修繕に取り掛かっていた。
朝とお昼の時間の間となる頃、ハンスの授乳にとイダが屋敷に顔を出す。何度も屋敷と彼女の家を往復して貰っているから悪い気もするが、お金を支払った対等な契約だ。私は作業の手を止めて、いつも通り顔を出したイダに声を上げた。
「今日もよろしくお願いします。イダ」
「ああ、よろしくさね」
そう声を上げるイダはそそくさとハンスがいるベッドへと寄って彼を抱き上げる。凄く慣れた手つきでハンスを抱き上げたイダは早速授乳を始めていた。私もイダのように乳がたくさん出れば良かったけれど、叶わぬ願いだと首を振って作業に戻る。そんな私を見ていたのか、イダは不意に声を上げた。
「ねえ、ハンス。貴方の母ちゃんはさ、忙しくしていても大丈夫だって言っているけれど、本当に平気なのかねえ?」
イダがハンスに語り掛けるのは良くあることだ。今日はご機嫌だねとか、少し元気がないかとか、寝痕が付いているとか、本当に何気ないことを口にしている。今日に限って、私を少し責めるような口調でイダはハンスに語り掛けている。
少し前、彼女に疲れていないかと問われて、私が大丈夫と答えたことを気にしているのだろうか。もちろん、トルーデとロッテには少しの時間だったけれど、仕事を休んで貰っている。
二人は大丈夫だと私と同じように口にしたけれど、なにかあってからでは困るからと私が押し切ったのだ。私も休めとトルーデとロッテ、果てはアントンとゲオルグからもお願いされたけれど、屋敷の主人が真っ先に休んでは示しがつかない。
「イダ、ありがとう。でも私は大丈夫だか――あれ?」
上手く針穴に糸が通らない。トルーデは年齢のせいか偶に苦労をしていた。ロッテはそんな彼女を見て、代わりに通しますよ! とか糸通しの道具を渡している。まさか私の身にも早い加齢が訪れたのかと困惑していれば視界がぐらりと揺れる。倒れるのは駄目だと、身体に力を入れてどうにか堪える。するとイダがハンスを抱えたまま身体を押し付けてきた。どうにか倒れずに済んだと安堵していると、イダが眉間に皺を寄せている。
「ほーら、言わんこっちゃない! 纏まった時間、寝てやしないだろ。少しでも良いから、今は寝な! ハンスの世話はあたしらでやっておくから!」
言い終えたイダはトルーデとロッテの名前を叫ぶ。ハンスはイダの大きな声を全く気にしていない。たしかに最近の私は睡眠時間を削って服の修繕をしていた。夜中にもハンスの授乳があるし、時間まで修繕をしていようとベッドに入ることを粘っていた。その反動が今、訪れたようである。どうして一人でない時に身体が悲鳴を上げるのだろうと、意識が薄い中で口を曲げてしまう。
「付き合いは短いけどさ、アンタは強情だよねえ」
イダが私の横で盛大な溜息を吐きながら、丸椅子を寄せて座った。そうして身体を預けなと声を上げる。なかなか体重が掛からないことに気付いたイダはハンスを抱き直して、片手をそっと私の肩へと伸ばした。
「イダはお人好し過ぎます」
寄せられた彼女の身体の柔らかさが伝わってきた。なんとなく目を閉じれば、イダの溜息がまた聞こえてきた。
「憎まれ口を叩く元気はあるんだねえ。ほら、トルーデとロッテがきたらベッドに行きな」
こういうことを母相手にしたことはないなと、幼い頃の記憶を振り返る。もし母と身体を寄せ合うことができていたなら、幸せだと安心できただろうか。イダを相手にこんなことは言えないと私は口から出そうになった言葉を咄嗟に変えた。
「温かい」
「あーもう! そんなこと言われちゃ、怒れやしない!!」
まったくと悪態をつくイダの声が聞こえれば、トルーデとロッテが部屋にやってきたようだ。トルーデの『お嬢さま!』という声とロッテの『エレノアさま!?』という声が聞こえてきて、私の意識がどんどんと薄くなっていくのだった。
「――あ」
目を覚ました私が窓の外へと視線をやれば、陽が傾いている。あと一時間もすれば陽が暮れる頃だろう。どのくらい眠っていただろうか。もしかして一日以上寝ていたなんてことにはなっていないだろうか。
そしてなによりハンスはどこだろうとベッドから身体を起こして部屋を見渡せば、ハンスはベッドの中で寝息を立てていた。今までお腹が空いたとぐずったり、おしめが気持ち悪いと訴えただろうに、私はハンスの声を聞き届けることはなかったようだ。母親失格だと自嘲していれば、トルーデが部屋の扉を開けて様子を見にきてくれたようである。
「エレノアさま、目を覚まされましたか」
「ええ、ついさっき。ハンスはどうしていたの?」
トルーデが顔を出してくれたことで、少し安堵の気持ちが湧いていた。どうしてこんなことを考えるのか分からないけれど、私とハンスだけの部屋は寂しいと感じてしまったのかもしれない。トルーデはハンスのおしめが濡れていないことを確認したあと私のベッドの側に立つ。
「イダが代わりを務めてくださいましたから。おしめの交換は私とロッテが担っておりました」
私はそう、と頷き、気になっていたことを問うた。
「どれくらい私は寝ていたのかしら?」
「五時間ほど。まだ寝て欲しい気持ちはありますが、スッキリなさっておられるようで安心しました」
私たちではエレノアさまに強く言えないので、イダには感謝しておりますとトルーデが言葉を付け足した。たしかに父に雇用され、私の屋敷で働くようにと告げられている四人は私に強く願い出られないこともある。
以前、私と老人の会話に声を挟んだゲオルグは父から小言を頂いたそうである。トルーデもロッテも私の体調が優れないと分かっていながら、大丈夫と告げる私に強く言えなかったようだ。トルーデは今回のことを父に報告させて頂きますと告げたから、父の店から屋敷に派遣される人が増えるかもしれない。また父に頼ってしまうのかと目を顰めた瞬間。
――ぐう。
私の腹の虫の音が鳴る。トルーデにもしっかり届いていたようで、彼女は小さく笑っていた。
「すぐになにかお持ちしましょう」
そう言い残して部屋を後にするトルーデは本当に直ぐ戻ってきた。彼女の手にはトレイに乗せた小鍋と取り分け用の皿がある。麦粥を作ってくれたようで、魚醤で味を調整してくださいねとトルーデが告げた。はふはふと冷やしてから口に運んだ麦粥はどこか懐かしい味がする。何故、感傷に浸るのだろうと首を傾げていれば、母が私が病気の時に作ってくれた麦粥の味に似ていると私は気付くのだった。




