012:産後と肥立ちと手紙
――アドルフの子が生まれた。
朝、軽い痛みを感じていた私は昼になってようやく、繰り返し襲ってくる痛みが陣痛なのだと気付いた。お腹の痛みが襲ったり、引いたり。お手洗いに行きたくなって向かえば、今度はその感覚が引っ込んでしまったり。
トルーデが産婆を呼んでくれ、忙しなさげに大量のお湯と清潔な布を用意してくれ、ロッテは側で大汗を流す私の額や肌を拭ってくれている。
アントンとゲオルグは男性だからと産婆さんから屋敷の庭へと強制的に追い出されていた。
そうして夜が訪れれば破水して、産婆が『そろそろかねえ』と呑気な声を上げる。トルーデも何人か子を取り上げたことがあるようで、落ち着いたものだった。ロッテは私の出産で初めて立ち合いを務めるようだ。今まで出したことのない大声を上げながら、痛みを耐えに耐えて、赤子が生まれたのだった。
出産は周りの女性から聞いていた話よりも、何倍も大変なものだったように感じた。
すぽんと出てくると笑う人もいれば、この世の終わりのように『痛かった。しんどかった』という人もいる。私は後者だったようで、次の子を生みたいかと問われれば、沈黙で答えるかもしれない。
猫の発情期のような鳴き声を上げる赤子の声を耳にしながら、産婆とトルーデは赤子になにかを施している。そうして赤子の身についた血や汚れを拭っていた。ロッテはおろおろしながら、あっちへ行ったり、こっちへ行ったりと忙しない。
「男の子だねえ。立派なものがついてるよ!」
カラカラと笑う産婆に愛想笑いをどうにか浮かべていれば、薄い布に包まれた赤子が私の腕の中に納まった。腕の中の子は泣き疲れたのか黙っているが、しわくちゃな顔を更にしわくしゃにしながら、もぞもぞと口を動かしている。腕や顔を左右に動かしているのだが、赤子はなにをしたいのだろうか。目の前の子がなにを求めているのか……喋ってくれなければ、私は分からないと眉間に皺を寄せる。
「エレノアさま、お乳をあげてみましょう」
トルーデが困っている私を見つめながら口にする。
「まだ終わりじゃないからね。気を抜かないでおくれよ」
産婆の言葉に、私は思わず顔をしかめた。
「……まだ?」
なにかあるのかと私は訝しんでしまう。赤子が誕生したというのに、何故産婆はそんなことを言うのだろう。
「赤ん坊が出できたからって、それで全部終わりじゃないんだよ」
そう告げた産婆が、初めてなら知らないのもしょうがないけれどねえと肩を竦める。そんな話をしていると下腹部にまた違和感を覚えた。
「ん、これでしまいだよ」
産婆の声にトルーデはほっとし、ロッテは顔色を青くしていた。彼女は大丈夫かと私がトルーデに声を掛けると、ロッテは肩を落としながら部屋を出て行った。
腕の中の子はどうにかお乳に辿り着いたようで、一生懸命に小さな口を動かしている。抱いている子が可愛いという気持ちよりも、小さな命がこれから無事に育ってくれるのかと不安な気持ちの方が大きい。
アドルフの子が成人するまで、私はきちんと育て上げることができるだろうか。父親がいないことで不利益を受けてしまわないだろうか。いろいろと不安が駆け巡るものの、出産で疲れ果てている私はただただ赤子が乳を飲む姿を眺めることが精いっぱいだった。
――一週間後。
出産も大変だったけれど、生まれて間もないアドルフの子の世話は更に大変だった。出産は一日で終わったけれど、授乳におむつの替えに、泣く子をあやすことが一週間ずっと続いている。
股の痛みや出血は少しづつ落ち着いてはいるものの、気の休まらない日々が続いていた。父も稀に様子を見にきてくれ、トルーデとロッテも手伝ってくれているから少しはマシだけれど、私が生んだアドルフの子だ。きちんと責任を持って面倒をみなければいけない。
そしてもう一つ、悩ましいことが起きている。
アドルフの子であるハンス――名前はありふれたものを選んだ――がお腹が空いたと泣いたため部屋で授乳をしているのだが、私の乳の出はどうにも悪いらしい。どうすれば私の乳の出が良くなるのだろうか。商売の知識や貴族のしきたりであれば分かるけれど、赤子については知らないことが多い。全て手探りだなと私はハンスを腕に抱きながら溜息を吐いた。
「量が少ない、か」
私の呟きに一緒に部屋でハンスの様子を見てくれていたトルーデがポンと手を叩く。
「教会を頼ってみませんか?」
「教会?」
何故、そこで教会が出てくるのだろう。不思議に感じて私が首を傾げると、トルーデが微笑みを浮かべた。
「出過ぎて困るという方が分けてくれるはずですよ」
トルーデ曰く、母乳がたくさん出る平民は教会に赴いて赤子に授乳をしているそうである。始めは教会に捨てられた赤子に施されていたようだが、困った人が相談したことから始まった制度だとか。お金のない人には無料で、余裕がある人には寄付を募るそうである。派遣もしてくれるとトルーデが教えてくれた。
「でも、ハンスを他の人に任せるなんて……良いのかしら」
ハンスを他の人に任せて良いのかという葛藤と、ハンスが腹を空かせては可哀そうだという葛藤が同時に湧き上がる。どうすれば良いのだろうと腕の中にいるハンスに私は視線を向ける。生まれたての頃に皺は取れて、目鼻立ちが一週間で随分とはっきりしている。なんとなくアドルフに似ているだろうか。もしアドルフが生きていれば、この件についてなんと口にするのだろう。
「良いのですよ。困った時は周りに頼るのが一番です」
トルーデが片手を腰に当てて笑いながら息を吐く。ハンスが大きく育たないのは困るし、弟のようになれば更に困ると私はトルーデの意見を飲むのだった。
教会に依頼を出せば、直ぐに乳母が派遣された。出産から十日目のことだ。
派遣されたのは教育担当の乳母ではなく、授乳だけを与える乳母である。派遣された人の歳は私と同じで二十五歳。つい最近、五人目を生んだそうだ。しかし近所に住んでいるとは驚きだ。私が屋敷から出ていないことの証左だなと肩を竦めながら、ハンスが乳を飲む姿を眺めていた。
「いやあ、ウチは貧しいから助かります!」
旦那の稼ぎがからっきしでと豪快に乳母の彼女が笑う。ハンスを抱く彼女の手は傷だらけだ。きっと懸命に子供のためにと彼女も旦那さんも働いているのだろう。子供が生まれてなかなか働きに出られないから、私からの依頼を即引き受けてくれたそうである。
「私も助かります、イダ」
私も笑みを作るのだが、こちらの事情を彼女に明かせないことが少し心苦しい。ただイダはなにも聞いてこないから、教会から相手の事情や生活に深く立ち入らないようにと言い含められている可能性もありそうだ。
とにかく、イダが明るく子育てに慣れている人で良かった。ハンスを抱く彼女の腕は慣れた手つきそのもので、お乳の飲ませ方も上手かったのだ。素人の私とは大違いだと片眉を上げていれば、授乳が終わったようである。イダは上げていた服をぱっと下ろして、ハンスを私に渡してくれる。そうして彼女は『げっぷはきちんとさせてくださいねー!』と告げたあと、勢い良く席を立つ。
「また数時間後に!」
へらりと笑ったイダが部屋を出て行く。ロッテが廊下で待機していたようで『外までお送りします!』という大きな声が聞こえた。ハンスを肩に私は背中をぽんぽんと軽く叩く。
「みんな元気ね」
ふっと笑った私に答えるようにハンスが身じろぎした。
「けぷ!」
出るものが出たと私は安心しながら、ハンスを子供用のベッドに寝かしつける。すると満足したのか穏やかな顔でハンスは直ぐに眠った。私も自分のベッドの端に腰を掛けると、眠気がぐっと襲ってくる。抗うことができないまま、私もハンスと一緒に眠りに落ち、数時間後に泣きじゃくるハンスに起こされるのだった。
ハンスが生まれて十五日。ミュラー家の義両親から速達で手紙が届いた。内容は主に私が妊娠を経て出産したことを問うたものだ。
アドルフの血が流れているのかという問いも一緒に綴られている。意外だったのは私の身体の調子を伺うことも一緒に記されていた。
継承に関わる男児が生まれたのだから、真っ先に問われるのは子供のことだと思っていた。それなのに、手紙には私の身体を案じる言葉まで記されていた。ミュラー家の義両親の義理堅さに感謝をしながら、私は彼らに向けた手紙を記すため自室の机に腰を下ろしている。
「書けない……義両親にどう書けば良いんだろう」
悩む私の机の上には反故にした紙くずがいくつも転がっていた。隣ではお腹を満たしたハンスがすやすやと寝息を立てている。ミュラー家の義両親には正直に打ち明けるしかないのだろう。私は意を決し、定型の挨拶を認めたあと本題にはいる。正真正銘アドルフの子であること、アドルフが亡くなる一ケ月前に休暇で戻ってきた頃に妊娠したこと、男児であったことを記す。
アドルフの子に会いにきて欲しいとは書けなかった。本当に問題を引き起こして申し訳ないという気持ちしか湧かない。
ハンスをミュラー家の当主にと私は声高に叫ぶつもりはない。だってミュラー男爵家はアドルフの弟さんが継いだのだから。それに幼い息子さんもいるはずだ。あまりミュラー男爵家の事情を知らないのは私が王都のタウンハウスで過ごしていたからだろう。
義両親と弟さんは領地で生活を行っていたのだから。今はどうなっているのか知らないが……穏やかな気持ちで過ごしているところに、水を差すようなことを知らせるようで申し訳ない気持ちで一杯になる。
「これで大丈夫かしら……」
手紙を読んだ義両親と弟さん家族は激怒するだろうか。ミュラー家の義両親はアドルフが避妊を施していたことを知っている。私に子供ができたという事実は彼らにとって、雷が落ちたような衝撃だったかもしれないと息を吐いた。
「エレノアさま、騎士さまがいらっしゃいましたよ」
ロッテが扉の向こうから声を掛けてくれた。どうやらヴァルターがまた屋敷を訪れてくれようである。少し彼を迎えることを億劫に感じるも、対応しないわけにはいかない。毎月同じ日に屋敷へ顔を出す彼だが、少しだけ早い訪問だった。




