無限の螺旋……
「嫌ぁぁぁぁぁぁっ!!!」
鼓膜を突き破らんばかりの自分の絶叫が、暗く冷たい地下の階段に反響する。
私はドレスの裾を強く握り締め、もつれる足を必死に動かして、上へ、上へと駆け上がり続けた。
背後からは、この世のあらゆる汚濁と狂気を煮詰めたような、おぞましい音が追いかけてくる。
ズルズルと肉を引きずる音、骨がへし折れては再生するバキバキという音。そして何より恐ろしいのは、その異形の群れから発せられる「声」だった。
『アイリス様……どこへ行かれるのですか?』
『私たちはあなたを愛しています……あなたが望むように変わりました……』
『どうか私たちを消さないで……!』
何十、何百という歪んだ声が合唱となって、私の背中を撫で回す。かつて私に微笑みかけていた領民たち、屋敷の使用人たち、そして私を裏切ったレナードとミーシャの声までもが、一つの巨大な「肉の津波」に飲み込まれ、私を追ってきているのだ。
「来ないで……お願いだから、来ないで!!」
私のその「拒絶」の言葉が空間に響くたび、世界の因果が凄まじい軋みを上げるのがわかった。
ドクン、ドクンと、まるで巨大な心臓の中にいるかのように、石造りの階段全体が脈打ち始める。壁の石材がひび割れ、そこから赤黒い血管のような管が無数に這い出し、手すりは白骨へと姿を変えていく。
私の魔法――いや、ルシアン様が『因果改変の呪い』と呼んだその忌まわしい力は、私の「恐怖」や「不快」を感知して、自動的に世界を書き換え続けている。
私が彼らを「恐ろしい怪物だ」と認識し、パニックに陥れば陥るほど、世界は私のその認識を正解にするために、彼らをよりグロテスクで、より凶悪なクリーチャーへと変異させていくのだ。
息が上がり、心臓が肋骨を突き破りそうなほど激しく打つ。
肺に吸い込まれる空気は、カビと鉄の匂い、そしてひどく甘ったるい死臭が混ざり合った異様なものに変わっていた。
どれだけ階段を上っても、一向に地上に辿り着かない。
かつて屋敷の東棟にあったこの階段は、せいぜい数十段しかなかったはずだ。しかし今は、螺旋状に果てしなく上へと伸びており、まるであの肉の津波から私を「永遠に逃がし続ける」ために、空間そのものが無限に引き伸ばされているようだった。
「はぁっ、はぁっ……! 誰か、誰か助けて……っ!」
無意味だとわかっていながら、私は泣き叫んだ。
その瞬間。
『アイリス……』
鼓膜に直接響くような、信じられないほど優しく、甘く、そしておぞましい声が頭蓋骨を震わせた。
『誰かを呼ぶ必要はない。君の願いは、この私がすべて叶えよう』
背後の肉の津波の中から、ひときわ巨大な「何か」が飛び出してきた。
それは、ルシアン様だったもの。
かつての月光のような銀髪は、無数に蠢く白く細い触手の群れとなり、完璧だった美貌は引き裂かれ、その下から大小様々な琥珀色の目玉がギョロギョロと私を見つめている。彼の纏っていた漆黒の外套は、巨大なコウモリの翼と、人間の腕を何十本も繋ぎ合わせたようなグロテスクな器官に変わっていた。
だが、その異形の怪物は、いまだにルシアン様の「声」と「愛」を持っていた。
『君が私を怪物だと恐れるなら、私はこの世で最も悍ましい怪物になろう。君が逃げたいと望むなら、私は永遠に君を追いかけ、君の恐怖という感情を満たしてあげよう。すべては、愛しい君の心の赴くままに』
「狂ってる……狂ってるわ!!」
私は涙で視界を滲ませながら、ついに見えてきた最上階の鉄格子に縋り付いた。
錆びついた扉を力の限り押し開け、私はついに屋敷の一階、広大なエントランスホールへと転がり出た。
私は床の絨毯に倒れ込み、激しくむせ返ってしまった。しかし顔を上げて周囲を見渡した瞬間、私はさらなる絶望に叩き落とされた。
そこは私の知っているヴァレンタイン公爵邸ではなかった。
豪奢なクリスタルのシャンデリアは、無数の人間の頭蓋骨をシャンデリアの形に繋ぎ合わせたものに変わり、一つ一つの頭蓋骨の眼窩から、青白い燐光が漏れ出している。
壁に飾られていた美しい風景画はすべて、顔を歪めて泣き叫ぶ人々の生き写しとなっており、キャンバスの中で彼らは実際に血の涙を流し、爪を立てて外へ出ようと藻掻いていた。
そして屋敷の正面にあるはずの、巨大な樫の木の扉。
そこから外へと逃げ出そうとした私の足は、扉の前に立った瞬間に凍りついた。
扉は半分開いていた。
しかし、その向こうに広がっていたのは、美しい領都エリュシオンの街並みでも、広大なバルカ帝国の領地でもなかった。
――赤い、壁。
いや、壁ではない。空から地面まで、視界のすべてを覆い尽くすほどの、巨大な「肉のドーム」が、この屋敷と庭園をすっぽりと包み込んでいたのだ。
ドームの内側には、太い血管のようなものが脈打ち、生温かい赤い光を放っている。空には太陽も星もなく、ただ巨大な一つの「瞳孔」のような黒い穴が、ドームの頂点からこちらを見下ろしているだけ。
「嘘……外が、ない……?」
私はよろめきながら、庭園へと足を踏み入れた。
かつて私が「綺麗ね」と呟き、ルシアン様が一晩で埋め尽くしてくれた色とりどりの薔薇たち。
それらは今、すべてが真っ赤な血の色に染まり、花びらの中心には鋭い牙の生えた「口」が開いていた。私が近づくと、薔薇たちは一斉に私の方を向き、カチカチと牙を鳴らしながら、赤子の泣き声のような音を立ててすり寄ってくる。
庭園の地面は、大理石ではなく、柔らかくブヨブヨとした正体不明の肉の絨毯に変わっていた。歩くたびに、チュプ、チュプと嫌な音が鳴る。
ここには、出口などない。
この空間は、私の『呪い』が作り出した、外界から完全に隔離された「箱庭」。
私がこの場所を「安全で、誰も私を害さない完璧な世界」だと無意識に願った結果、世界は外部との繋がりを完全に切断し、この公爵邸とその周辺だけを、世界の理から切り離してしまったのだ。
「あ、あ、ああああ……」
私は崩れ落ち、血の色の薔薇が咲き乱れる肉の地面に両手をついた。
もう、どこにも逃げ場はない。
グランツ王国の連中を呪った結果がこれだ。私を虐げた者たちを滅ぼし、私を幸福にする世界を望んだ代償。
私の傲慢な復讐心と、安易な自己憐憫が、この狂気の世界を創造したのだ。
ズズン……ズズン……。
背後の屋敷の扉から、巨大な影が這い出してきた。
無数の琥珀色の目玉を爛々と輝かせた、触手と肉塊の怪物――ルシアン様が、ゆっくりと庭園へと降り立ってくる。
『ああ、アイリス。愛しのアイリス。逃げ惑う君の後ろ姿も、絶望に顔を歪めるその表情も、すべてがたまらなく美しい』
怪物は、何十本もの腕をうごめかせながら、私に向かってにじり寄ってくる。その足元(あるいはそれに相当する部位)が肉の地面に触れるたび、地面から悲鳴のような音が上がった。
私は後ずさりしようとしたが、地面の肉が私のドレスの裾に絡みつき、薔薇の牙が私の靴を噛んで放さない。
世界そのものが、私が彼から逃げることを許していないのだ。
「ルシアン様……来ないで! あなたをそんな姿にしたのは私なのよ! 私があなたを呪ったの! だから、もう私に構わないで!」
私は泣き叫びながら、落ちていた鋭い木の枝――いや、骨の破片を拾い上げ、彼に向けて構えた。
だが、ルシアン様は止まらない。彼の巨大な異形が、私の目の前まで迫り、空を覆うほどの影を落とした。
『知っているよ、アイリス。君が私を呪ったことなど、最初から気づいていた』
怪物の体の中央部分が裂け、そこから、かつてのルシアン様の「人間の口」だけが、まるで彫刻のように浮かび上がった。その唇が、悲しげに、そして限りない愛情を込めて弧を描く。
『私はバルカ帝国の公爵であり、戦神と呼ばれた男だ。ある日突然、見ず知らずの娘に対して、国を傾けるほどの異常な執着と愛情を抱くなど、正気の沙汰ではないと、自分の理性は理解していたさ』
「じゃ、じゃあ、どうして……!」
『それでも、私は君を愛さずにはいられなかった。君の呪いが、私の魂の奥底、自我の根幹から書き換えてしまったからだ。私が君を溺愛しているのは呪いの強制力だ。だがね、アイリス。その強制された感情の中で、私は初めて、本物の安らぎを知ったんだ』
彼から伸びた何本もの白く細い触手が、蛇のようにうねりながら私の手首に絡みついた。驚くほど冷たく、そして強靭な力。骨の破片を持っていた私の手から、それがポロリとこぼれ落ちる。
『君が望むなら、私は喜んで操り人形になろう。君が望むなら、喜んでこの醜悪な怪物にもなろう。君が私を「恐怖の象徴」として必要としているなら、私は君を永遠に脅かし、永遠に愛し続ける。これが、私から君への、たった一つの純愛だ』
「狂ってる……そんなの、愛じゃない!! ただの狂気よ!!」
私は力任せに彼を突き飛ばそうとしたが、びくともしない。
逆に、彼の触手は私の腰に絡みつき、私をふわりと宙に持ち上げた。
「嫌ぁぁっ! 放して! 触らないでぇぇぇっ!!」
喉がはち切れんばかりに絶叫したその時、視界が激しく、ぐにゃりと歪んだ。




