コレクション……
ベルナールが消えた。
その事実を認識しているのは、この広大なヴァレンタイン公爵邸の中で、私一人だけだった。
「アイリス様、本日のハーブティーでございます。カモミールを中心に、心を落ち着かせる調合にしてございます」
新しく私の専属となった若手のメイドが、震える手で磁器のカップをテーブルに置く。彼女の目は決して私の目と合わない。視線は常に私の足元か、床の絨毯の模様に向けられている。
「……ありがとう。でも、私、カモミールよりもペパーミントの方が好きだわ」
何気なく、本当に何気なく呟いた一言だった。
その瞬間、メイドの顔からサァッと血の気が引いた。彼女は手に持っていた銀のトレイをガタガタと鳴らし、その場に崩れ落ちるように跪いた。
「申し訳ございません! 申し訳ございませんアイリス様! すぐに、すぐに淹れ直してまいります! どうか、どうかルシアン様には……っ!」
「あ、違うの! 謝らないで、ただの好みの話で――」
私が言いかける前に、彼女はトレイを抱えたまま這うようにして部屋を飛び出していった。
私は頭を抱えた。
私の「不快」や「不満」は、この屋敷において、いや、この領地において絶対的な『死刑宣告』なのだ。私が何かを否定すれば、それを構成する事実が、人間ごと世界の理から消去されるのかもしれない。
人々が私に向ける、あの引きつった完璧な笑顔の正体が、ようやく理解できた。あれは敬愛などではない。私の機嫌一つで自分たちの存在が世界から消されるかもしれないという、極限の恐怖が生み出した「防衛本能」なのだ。
(ルシアン様は、一体何者なの……)
彼が私に向ける溺愛は、本物だ。それは痛いほど伝わってくる。しかし、その愛の具現化の仕方が、あまりにも異常すぎる。人間一人の存在や、厨房の歴史そのものを一晩で書き換えるなど、いかに強大な魔力を持つ公爵とはいえ、不可能なはずだ。
神の御業か、それとも――悪魔の呪いか。
その日の夜、ルシアン様はバルカ帝国の皇宮での夜会に出席するため、珍しく邸宅を留守にしていた。
「アイリス、良い子で待っていておくれ。君を不快にさせる泥虫どもを、しっかりと間引いてくるからね」
出がけに私の唇を奪った彼の言葉を思い出し、私は背筋を凍らせた。間引く? 一体何を?
静まり返った深夜の屋敷。私はベッドを抜け出し、一振りの銀の燭台を手に廊下へと出た。
この狂気の正体を突き止めなければ、私は遠からず、この完璧な箱庭の中で精神が崩壊してしまう。そう思ったのだ。
目指したのは屋敷の最下層。かつてベルナールを連れ去った黒ずくめの護衛たちが、決まって向かっていた東棟の地下階段だ。
普段は厳重に施錠されているはずの重厚な鉄格子の扉が、なぜか今夜はわずかに隙間を開けていた。今日の限って警備すらいない。まるで……まるで私を誘い込むかのように。
私は息を潜め、錆びついた鉄の扉を押し開けた。
ギィィ……と、鼓膜を引っ掻くような鈍い音が響く。
階段を下りるにつれ、空気は急激に冷え込んでいった。屋敷の上階を満たしていた甘い薔薇の香りは完全に消え去り、代わりに鼻を突いたのは、濃厚な「鉄の匂い」――いや、血の匂いだ。
ひび割れた石壁には、不気味な青白い魔導灯が等間隔に灯り、私の影を不自然に長く引き伸ばしている。
一体どれほど下りただろうか。永遠に続くと思い始めていた階段はやがて終わり、目の前には、およそ公爵邸の地下とは思えない、広大で禍々しい「監獄」のような空間が広がっていた。
通路の両側に並ぶのは、太い鉄格子で仕切られた無数の部屋。
私は燭台の光を頼りに、恐る恐る最初の部屋の中を覗き込んだ。
「……っ」
悲鳴を上げそうになる口を、両手で必死に押さえた。
そこにいたのはベルナールだった。
しかし、それは私の知っているベルナールではなかった。
彼は全裸で床に転がっていたが、その身体の半分は、ドロドロとした黒い泥のような肉塊に変形していた。頭部からは不揃いな角が生え、皮膚の隙間から無数の「目玉」がこちらを向いてギョロギョロと蠢いている。
「あ……い……り……す……さ……ま……」
肉塊の裂け目から、ベルナールの声が漏れた。
「ちが……う……おれ……は……料理長……じゃ……ない……おれは……ただの……影……」
「ベ、ベルナール……? どうして……一体どうして、そんな姿に……!?」
私が一歩近づくと、隣の檻、その奥の檻からも、一斉に不気味な物音が響き始めた。
ガタガタ、バキバキと、骨が軋む音が地下空間に反響する。
「アイリス様!」「美しいアイリス様!」「幸福ですか?」
昼間、街で見かけた領民たちが、檻の中から一斉に顔を突き出してきた。だが、彼らの顔はどれも半分が崩れ、引き裂かれ、ある者は腕が触手になり、ある者は顔一面が口になっていた。彼らは異形の姿で狂ったように笑い、私に「幸福」を問いかけてくる。
ここは監獄なんて生易しいものではない。まるで悪魔のコレクションのようだ。
奥へ進むにつれ、血の匂いはさらに濃くなっていく。
最奥にある、最も巨大な、魔法障壁で覆われた檻。その前に立ったとき、私は完全に思考を失った。
障壁の向こうにいたのは、二つの、人間の形を辛うじて保った「何か」だった。
一方は、両足を引きちぎられ、全身の皮膚を剥がされながらも、魔力の光帯によって強制的に生かされている男。
もう一方は、五体をバラバラに切断され、それらが不自然な糸で縫い合わされ、壁から吊るされている女。
「……まさか!? レナード……? ミーシャ……?」
私の口から、かつての婚約者と、裏切りの従姉妹の名前が溢れ出た。
バルカ帝国の報告書では、魔獣に喰い荒らされて無残に死んだはずの二人。彼らがなぜ、隣国の公爵邸の地下にいるのか。
私の声に反応し、レナードがゆっくりと首を傾けた。彼の瞳は濁り、狂気に染まっていたが、私を認識した瞬間、その顔が凄まじい憎悪と恐怖に歪んだ。
「アイリス……! お前、お前ぇぇぇっ!」
レナードは歯の抜けた口から血を吐き散らしながら、障壁に身体を打ち付けた。
「お前が……お前が『復讐』なんて望むから! 俺たちはこんな目に遭っているんだ! 魔獣の氾濫なんて起きていない! 最初から、最初からバルカの、あの銀髪の悪魔が、我が国を丸ごと『喰った』んだ!!」
「な、何を言っているの……!? ルシアン様が、グランツ王国を……!?」
パニックになる私に、吊るされたミーシャが、ケタケタと壊れた人形のような笑い声を浴びせてきた。
「気づいていないのね、哀れな聖女! 全部、貴女のせいよ! 貴女が私たちを、国を、心の底から『滅びてしまえ』と呪ったから……! 世界が貴女の願いを叶えるために、ルシアンを動かしたのよ!」
「私の……せい!?」
「そうだよ、アイリス」
「はっ!?」
背後から、凍りつくほど甘く冷徹な声が響いた。
驚いて振り返ると、いつの間にかそこにルシアン様が立っていた。
皇宮の夜会に向かったはずの彼は、漆黒の夜会服のまま、私のすぐ後ろに佇んでいた。彼の琥珀色の瞳は、地下の青白い光を反射して、まるでおぞましい肉食獣のように爛々と輝いている。
「ル、ルシアン様……これは、一体……」
私は恐怖で足がすくみ、燭台を取り落とした。銀の燭台が石床に落ち、高い音を立てて火が消える。周囲が青白い魔導灯の光だけになる。
ルシアン様はゆっくりと私に近づき、私の震える肩を包み込むように抱きしめた。
「見られてしまったね。できれば、君にはずっと、あの美しい薔薇の園だけで笑っていて欲しかったのだけれど」
「彼らは……国が滅びたというのは、嘘だったのですか?」
私の問いに、ルシアン様はくく、と愛おしそうに笑った。
「嘘ではないよ。現にグランツ王国はもう存在しない。だが、魔獣が滅ぼしたのではない。彼らが言った通り、君が『復讐』を望んだ瞬間、私の軍勢がそのすべてを蹂躙し、君を害した者たちを捕らえてここへ連れてきたんだ。君がもっと凄惨な結末を望むと思ったから、彼らは死ぬことも許されず、ここで毎日、肉体を弄ばれ続けている。異型としてね」
ルシアン様はレナードたちの檻を一瞥し、虫ケラを見るような目を向けた。
「しかしアイリス。君は勘違いをしている。私が君を愛して、この狂気を行なっているのではない。――まったく逆だよ」
「逆……?」
「君の持つ魔法……いや、呪いと言うべきか。『聖女の祈り』の真の姿は、結界を張ることなどではない。それは、君の『負の感情』を媒介にして、周囲の現実を強制的に書き換える【因果改変の呪い】だ。君が怒り、憎み、願ったことは、世界の抑止力として、私や周囲の人間を動かし、現実化する。とても恐ろしい、凶つの呪いだ。」
ルシアン様は私の頬に手を当て、狂おしいほどの情熱を込めて語りかけてくる。
「私はね、自分でも理解できず、ある日突然、君を狂信的に愛さざるを得なくなったんだ。君が国を追われ、泥を啜り、『誰か私を救って、愛して、裏切り者たちに復讐して』と魂の底から願ったその瞬間に。私の心も、記憶も、バルカ帝国の国力も、すべては君の『復讐』という願望を満たすための道具として、呪いに強制改変されたのだよ。こうして君が理解を求め、私がここへ来なければならなくなったように」
――ドクン、と私の心臓が大きく跳ねた。
私が願ったから?
ルシアン様が私を溺愛しているのも、街の人々が私に怯えているのも、ベルナールが消えたのも……すべて、ルシアン様が犯人ではなく、私の内なる「呪い」が彼らをそうさせたというの?
「そんな……そんなの嘘よ……嘘よ!!」
私はルシアン様の手を振り払い、後ずさった。
「私はベルナールを消してなんて願っていない! ただ、少し苦いって言っただけよ!」
「君の表層の意識はね」
ルシアン様は、拒絶されてもなお、恐ろしいほどの笑みを崩さない。
「君の深層心理は、かつてグランツ王国で『薬が苦い』と文句を言っただけで虐げられた恐怖を思い出し、『この不快な記憶の引き金を消し去りたい』と強く望んでしまった。世界は君のその微かなストレスすら許さない。だから、彼は最初から存在しなかったことにされたんだ。不要なんだよ。街の人間たちもね、君が少しでも彼らを『不気味だ』と思えば、その瞬間に全員、この地下の化け物たちの仲間入りさ」
「あああああ……っ!!」
私は頭を抱えて叫んだ。
違う。私はそんなことを望んでいない。絶対に。私はただ、私を虐げたレナードたちに仕返しがしたかっただけだ。普通の「復讐」が欲しかっただけなのに!
「だがアイリス、怯えることはない。私は君の忠実な奴隷であり、君の願いを叶えるための刃だ」
ルシアン様が再び私へと歩み寄る。
「来ないで!!」
私が恐怖のあまり、全力で彼を拒絶した、その瞬間。
バリバリバリ!!! と、空間が引き裂かれるような凄まじい爆音が地下室に響き渡った。
「が、ああっ……!?」
ルシアン様の口から、苦悶の声が漏れた。
私が見たのは、この世の終わりよりおぞましい光景だった。
私の「恐怖」という強い感情に、呪いが過剰反応したのだ。
ルシアン様の美しい銀髪が、一瞬にしてウジ虫のような白細い触手の群れへと変貌していく。彼の完璧だった顔の皮膚がベきべきと割れ、その下から、何百もの琥珀色の「目玉」が噴き出してきた。
彼の纏う夜会服を引き破り、背中から、骨と血肉でできた不格好な巨大な腕が何本も生えてくる。
「ア……イ……リ……ス……」
怪物へと変形していくルシアン様が、それでもなお、その無数の目玉から血の涙を流しながら、私を求めて手を伸ばしてくる。
「君が……私を『恐怖の対象』だと定義したから……私は、君の恐怖を満たすための【完璧な怪物】にならなければならない……っ!」
周囲の檻にいた異形たちも、私のパニックに呼応して、檻を破壊し、ドロドロとした肉の津波となって通路へ溢れ出してきた。
空間そのものが歪み、壁の石材が肉腫のように脈打ち始める。
「嫌ぁぁぁぁぁぁっ!!!」
私は狂いそうな叫び声を上げながら、異形と化したルシアン様と、肉の津波から逃れるように、暗い階段へと駆け上がった。
背後からは、何百もの人間の声が混ざり合った、地獄の底のような合唱が追いかけてくる。
「アイリス様、あなたは今、幸福ですか?」
「アイリス様、私たちは貴女の望む通りに存在します」
幸福だったはずの私は、私の精神を燃料にして世界を喰い尽くす、底なしの呪いという地獄に過ぎなかった。私は涙と鼻水に塗れながら、終わりのない闇の階段を、ただひたすらに駆け上り続けた。




