幸福な日々……
ルシアンの領地で暮らし始めて、三ヶ月が経った頃。
その日は、朝から酷く霧の深い日だった。
いつものように、ルシアンの豪華な私室で、彼自らが淹れてくれたハーブティーを嗜んでいると、ルシアンが書類を片手に、微笑みながら私のもとへ歩み寄ってきた。
「アイリス、君にとても素晴らしいニュースがあるんだ」
「素晴らしいニュース? ンフフ、一体何かしら♪」
私が笑顔で首を傾げると、ルシアンは私の隣に腰掛け、その長い指先で私の顎を優しく持ち上げた。彼の瞳には、何とも言えない、愉悦の色が浮かんでいた。
「君を追放した、あの不浄な国――グランツ王国が、完全に滅びたよ」
「……え?」
ティーカップを持つ私の手が、わずかに震えた。
ルシアンは手元に持っていた報告書を、私の前に広げて見せた。そこには、バルカ帝国の情報網が捉えた、生々しいグランツ王国の惨状が記録されていた。
「君という強力な『結界の要』を失ったあの国は、君が追放された直後から、四方から魔獣の猛攻を受けたそうだ。レナードとかいう愚かな王子は、君の代わりにミーシャという女を祭壇に立たせたらしいが……当然、彼女の微々たる魔力では、結界を一日すら維持できなかった」
ルシアンは、くく、と喉を鳴らして嗤った。
「魔獣の氾濫だよ。数万の魔獣が王都に雪崩れ込み、街は一晩で血の海に変わった。ラングレイ侯爵家は真っ先に魔獣に喰い荒らされ、跡形もなく消滅した。そして……君を裏切ったレナード王子と、あの男爵令嬢の末路も、ここに書かれている」
私は報告書の文字に目を走らせた。
そこには私の想像を超える、凄惨で、そして最高に「爽快な」事実が記されていた。
レナード王子は、王宮に侵入した巨大な魔獣から逃げ惑う際、なんとミーシャを身代わりにしようと彼女を突き飛ばしたという。しかし、ミーシャも負けじとレナードの足を引っ張り、結果として二人は並んで魔獣の群れの中に転落した。
レナードは両足を魔獣に無残に食いちぎられ、失血と恐怖で発狂。ミーシャは五体を引き裂かれ、生きたまま肉を貪り食われた――。
国は完全に崩壊し、生存者はわずか数%。グランツ王国は、歴史からその名を完全に消し去った。
「ふ、ふふ……あはははは!」
私の口から、抑えきれない笑い声が飛び出した。
笑いが止まらなかった。涙が出るほどにおかしかった。あまりに非現実的過ぎて、想像できなかったというのも大きい。
「当然の報いだわ! 私を道具のように扱い、冤罪を着せて追い出した報いを、最高の形で受けたのね!」
胸の奥に澱のように溜まっていた、暗くドロドロとした怨念が、一気に霧散していくような強烈な安堵感。
私を裏切った者たちが、これ以上ないほど惨めに、苦しみながら死んでいった。これほどの快感があるだろうか。私の心は、かつてないほどの全能感で満たされていた。
「そうだね、アイリス。彼らは君を傷つけた。だから、滅びて当然なんだ」
ルシアンは私の頭を優しく撫で、私の歓喜に満ちた表情を、うっとりとした目で見つめていた。彼の琥珀色の瞳が、部屋の薄暗がりの狂気の中で一瞬、異常なほど怪しくギラリと光ったような気がした。
「すべては君の望み通りだ。君を害するものは、もうこの世界に誰一人として存在しない。さあ、これからは何の憂いもなく、私と二人だけで、永遠の幸福に浸ろうじゃないか」
「ええ、ルシアン様……! 私、今とっても幸せですわ!」
私はルシアンの首に腕を回し、彼の甘い唇を受け入れた。
卑劣な祖国は滅び、裏切り者は無残に死に、私は世界最高の男に溺愛されている。
これ以上ない、完璧な第二の人生。
しかし何故だろう。ルシアンの私の背中に回された手の、不自然なほどの「冷たさ」。
そして、私の言葉に呼応するように、部屋の隅の影が、まるで生き物のように不気味に蠢いた気がした。
────
グランツ王国が滅亡したという報せを聞いてから、私の毎日はまさに天国のようだった。
私を虐げ、利用するだけ利用して泥の中に捨てた者たちは、一人残らずこの世から消え去った。毎晩のように私の夢を蝕んでいた、暗く冷たい地下牢の記憶や、魔力を絞り取られる激痛も、ルシアン様が与えてくれる極上の羽毛布団と甘い香炉の煙の中に溶けて消えていった。
「おはよう、私の愛しいアイリス。今日の君も、朝露に濡れた百合のように美しい」
朝の陽ざしとともに、完璧な美貌を持つ公爵が私のベッドの傍らに跪き、私の手の甲に恭しく口づけを落とす。彼の銀髪が陽光を反射してきらきらと輝き、琥珀色の瞳は私への底なしの愛情で満ち溢れている。
私は微睡みの中で身をよじりながら、幸福な溜息をついた。
「おはようございます、ルシアン様。今日も……素晴らしい朝ですね」
「君がそう言ってくれるなら、この世界は今日も完璧だということだよ」
ルシアン様は甘く囁き、私の額に再びキスをした。
ここ、バルカ帝国の公爵領での生活は、何から何までが完璧に整えられていた。食事は、並の貴族すら口にできないような珍味や極上の素材が毎食並び、私が身につけるドレスは常に最新の流行を取り入れた最高級の絹で仕立てられている。私が歩けば、使用人たちが床の塵ひとつ残さないように磨き上げ、私が咳を一つすれば、国中から最高位の医師が血相を変えて飛んでくる。
私は世界で一番幸せな女だ。そう、間違いなく。
しかし……その「完璧すぎる幸福」の裏側に、ほんのわずかな、しかし決して無視できない違和感が混じり始めたのは、いつからだっただろうか。
最初の違和感は、私の身の回りの世話をしてくれる若いメイド、アンナとの些細なやり取りだった。
ある朝、アンナが私の長く伸びた金髪を銀のブラシで梳かしてくれていた時のことだ。彼女の手がわずかに滑り、ブラシが私の髪に少しだけ引っかかってしまった。痛みというほどのものではない。ほんの少し、ちくりとしただけだ。
「あ……」
私が小さな声を漏らした瞬間。
ガシャン! と、鈍い音が部屋に響いた。アンナが持っていた純銀のブラシを床に取り落とした音だった。
鏡越しに振り返った私は、我が目を疑った。
アンナは床に這いつくばり、まるで死刑宣告を受けた罪人のように、全身をガタガタと激しく震わせていたのだ。彼女の顔面からは完全に血の気が失せ、唇は紫に変わり、目からはボロボロと大粒の涙がこぼれ落ちている。
「お、おおおお、お許しくださいませ……! あ、アイリス様! この命に代えましても、どうか、どうかお慈悲を……! 私めが、私のようなゴミ屑が、至高の女神であらせられるアイリス様の御髪を傷つけてしまうなど……っ!」
彼女は自分の頭を、ゴツン、ゴツンと大理石の床に打ち付け始めた。額から血が滲み出ても、彼女は止まらない。
「えっ? ちょ、ちょっと待って、アンナ! やめて! 今すぐやめて!」
私は慌てて椅子から立ち上がり、彼女の肩を掴んだ。
「別に痛くなかったわ。ただ少し引っかかっただけよ。気にしていないから、ね? だから顔を上げて、お願い」
私がそう言って微笑みかけると、アンナはピタリと動きを止めた。そして、信じられないものを見るような目で私を見上げ、次の瞬間、声を上げて泣き崩れた。
「あ、あああ……! ありがとうございます、ありがとうございます……! アイリス様は、私を『消さない』でくださるのですね……! この御恩は、魂が砕け散るまで忘れません……!」
彼女の言葉に、私は首を傾げた。
『消さない』?
クビにしない、という意味だろうか。それにしても大げさすぎる。グランツ王国では、王族に仕えるメイドがミスをして鞭打たれることはあったが、この国では決してない。それよりも、今の彼女の恐怖は、まるで「世界の終わり」を予感したかのような異常なものだった。
「アンナ、あなたは少し疲れているのよ。今日はもう休んで」
「は、はい……! アイリス様がそう望まれるなら、私はすぐにでも……!」
アンナは逃げるように部屋を出て行った。
私は床に残された銀のブラシを見つめながら、背筋に冷たいものが走るのを感じた。彼女が怯えていたのは、私に対してではない。何か、もっと別の「得体の知れないもの」に対する、絶対的な恐怖のようだった。
その違和感は、数日後の外出でさらに色濃いものとなった。
「街に出てみたい?」
夕食の席で私がそう提案すると、ルシアン様は一瞬だけ、ナイフを動かす手を止めた。彼の琥珀色の瞳の奥で、何かが冷たく光った気がした。
「……そうだね。君がずっと屋敷の中にいて退屈しているなら、私の領地を案内しよう。だが、君はとても繊細で尊い存在だ。万全の準備をさせてくれ」
翌日、用意された馬車に乗って街へと向かった私は、窓の外の光景を見て息を呑んだ。
ルシアン様の領都・エリュシオン。そこは、驚くほど美しく、そして『異常』だった。
石畳の道には、ゴミひとつ、花弁や落ち葉のひとつすら落ちていない。建物の壁はすべてが新築のように塗り直され、街路樹の葉の形一枚一枚に至るまで、剪定され、まるで計ったように完璧に揃えられている。
そして何より異様だったのは、街の人々だ。
馬車が通り過ぎる道沿いには、数千人を超える領民たちが、等間隔に、一糸乱れぬ隊列を組んで並んでいた。
誰もが、最高級の休日の服を着ている。
その誰もが、両手を胸の前で上品に組み合わせている。顔の筋肉が引きつるほどに口角を上げ、不気味なほど完璧な「笑顔」を浮かべていた。
馬車がゆっくりと進む中、私は窓を開けて外を見た。
すると沿道に並ぶ人々が一斉に口を開き、まるで合唱するかのように同じ言葉を口にし始めた。
「アイリス様、ようこそ」
「アイリス様、美しい」
「アイリス様、あなたは今、幸福ですか?」
男性も、女性も、老人も、子供も。
声のトーンから感情の起伏まで、すべてが完全に同調していた。まばたき一つせず、ただひたすらに笑顔を貼り付けたまま、私の顔をじっと見つめて、「幸福ですか?」と問いかけてくる。
「……っ」
私は恐怖のあまり、思わず窓を閉めようとした。
その時、群衆の中から一人の小さな少女が進み出てきた。彼女は私の馬車の窓辺まで駆け寄ると、両手で抱えた美しい白百合の花束を差し出した。
「アイリスお姉様。お花をどうぞ。……あなたは、幸せですか? 私たちがあなたを不快にさせることは、ありませんか?」
少女の声は震えていた。笑顔の裏側から、悲鳴のような恐怖が透けて見えた。彼女の目は、私ではなく、私の隣に座るルシアン様の方をチラチラと見ていた。
「あ、ありがとう……。とても綺麗ね。私は……ええ! とっても幸せよ。本当にありがとう」
私が花束を受け取ると、少女は「ああ……」と深い安堵の息を吐き、そのまま糸が切れた人形のように、その場にへたり込んだ。群衆の大人たちが無表情のまま彼女を引きずって列に戻す光景は、もはや狂気としか言いようがなかった。
「どうしたんだい、アイリス? 顔色が悪いよ」
隣に座るルシアン様が、私の肩を優しく抱き寄せた。彼の表情は、いつものように穏やかで、慈愛に満ちていた。
「ルシアン様……この街の人たち、少し……おかしくありませんか? 私の考え過ぎでしょうか……。まるで……まるで、何かの劇を演じているような……」
「劇? ふふ、面白いことを言うね」
ルシアン様は私の髪にキスを落とし、窓の外の狂気じみた群衆を一瞥した。
「彼らはただ、君という至高の存在を前にして、ただただ緊張しているだけだよ。何しろ君は、我が国を救い、私に真実の愛を教えてくれた女神なのだから。彼らが君を崇拝し、君の幸福を願うのは当然のことだ。そうだね……彼らは、君が『不快』になることを、何よりも恐れているんだ」
彼の言葉は優しかったが、その奥にある氷のような冷たさに、私は思わず身をすくめた。
街歩きを楽しむどころではなかった。私はすぐに屋敷に引き返すよう頼み、その日一日をベッドの中で震えながら過ごした。
───
決定的な出来事が起きたのは、その翌日の夜だった。
屋敷の料理長であるベルナールは、大柄で陽気な初老の男性だった。彼の作る料理はどれも絶品で、私はいつも彼の料理を楽しみにしていた。
その日のメインディッシュは、珍しい魔獣の肉を香草で煮込んだシチューだった。
私は一口それを口に含み、ふと、眉をひそめた。
「ん……」
「いかがなさいましたか、アイリス様?」
控えていたベルナールが、揉み手をしながら私の顔色を窺う。
「いえ、とても美味しいのだけれど……この香草、少しだけ苦味が強いわね。なんだか、昔グランツ王国で飲まされていた、魔力回復の苦い薬を思い出してしまって……」
本当に他意のない、ちょっとした感想だった。
少し苦い。ただそれだけのこと。
しかし、その言葉を口にした瞬間。
ダイニングルームの空気が、文字通り「凍りついた」。
カチャリ、と。
向かいの席で食事をしていたルシアン様が、銀のフォークを皿の上に置いた。
ただそれだけの音で、部屋にいた数十人の使用人たちが一斉に息を呑み、微動だにしなくなった。
私がベルナールの方を見ると、彼は両手で自分の喉を掻きむしり、白目を剥いて床に倒れ伏していた。
「ひっ、ひぃぃぃっ! お、お待ちを! お慈悲を……! あ、アイリス様の御心に、グランツの穢れた記憶を呼び起こすような真似を……! も、申し訳ありまぜん、申し訳ありまぜんっ!!」
ベルナールは泣き叫びながら、床に額をこすりつけ始めた。あの恰幅の良い、いつも朗らかに笑っていた料理長が、恐怖で失禁しながら命乞いをしているのだ。
「ル、ルシアン様! 彼を許してあげて! ただ少し苦かっただけなの、私がわがままを言っただけで……!」
私が慌ててルシアン様を見ると、彼は信じられないほど冷たい、氷点下の瞳でベルナールを見下ろしていた。しかし、私に視線を戻すと、瞬時にあの蕩けるような甘い笑顔に戻った。
「気にするな、アイリス。君に昔の嫌な記憶を呼び起こさせるような無能は、この屋敷には必要ない。君の美しい唇からは、歓喜と愛の言葉だけが紡がれればいいんだ」
ルシアン様が軽く指を鳴らすと、黒ずくめの護衛たちが音もなく現れ、泣き叫ぶベルナールを引きずって部屋から連れ出していった。
彼の悲痛な叫び声が、長い廊下に消えていく。
「さあ、アイリス。別のものを用意させよう。君の好きな、甘い果実のタルトはいかがかな?」
ルシアン様はまるで何事もなかったかのように、私のグラスにワインを注いだ。
私は震える手でグラスを握りしめ、何も言えずにただ頷くことしかできなかった。
翌朝。
私はどうしてもベルナールのことが気になり、彼に直接謝罪しようと、使用人たちの区画へと足を運んだ。私がこんな場所に来るなどと誰も予想していなかったのか、すれ違うメイドたちは皆、幽霊でも見たかのように青ざめて道を空けた。
「あの、昨日の料理長のベルナールはどこにいるのかしら?」
通りすがりの初老の執事、セバスチャンを呼び止めて尋ねた。
すると、セバスチャンは心底不思議そうな顔をして、首を傾げた。
「ベルナール……? んー……、はて。アイリス様、それはどなたのことでございましょうか?」
「え? 何を言っているの。この屋敷の料理長よ。大柄で、いつも白いエプロンをしていて……昨日もシチューを作ってくれたじゃない」
セバスチャンは、まるで狂人の戯言を聞くような目で私を見た後、深く一礼した。
「アイリス様。お疲れのようでございますね。当家の料理長は、十年前からずっとマルセルという細身の男が務めております。ベルナールなどという名の者は、この屋敷に存在したことすらございません」
「なっ……」
私は息を呑んだ。
冗談ではない。彼は冗談をまったく言うことのない人だった。それに彼の目は、いつも通り至極真剣だった。
「う、嘘よ……! だって、昨日あんなに騒ぎになって……!」
私はセバスチャンを突き飛ばすようにして、厨房へと走った。
厨房の扉を勢いよく開けると、そこには、私の全く知らない、見知らぬ細身の男(恐らくマルセル)が、大勢の料理人を指揮していた。
「な、何か御用でしょうか、アイリス様!」
マルセルが慌てて頭を下げる。
私は厨房を見回した。ベルナールの姿はない。
それどころか、厨房の構造そのものが、昨日までとわずかに違っていた。ベルナールが愛用していたはずの巨大な銅鍋も、彼がいつも立っていた特注のまな板台も、跡形もなく消え去っている。
荒れた呼吸をなんとか整え廊下へ向かう。
食堂に戻る廊下には、歴代の料理長の肖像画が飾られていたはずだ。皆、私の知らないルシアン様を恐れているだけかもしれない。それで嘘を……。
しかし、ベルナールの自慢げな肖像画があったはずの場所には、今、何の変哲もない風景画が飾られていた。額縁の埃の積もり方を見る限り、十年前からずっとそこにあったかのように。
――き、消えた。
跡形もなく……。
私が「苦い」と不満を漏らしたから?
ルシアン様が、彼を殺した? いや、殺しただけではない。彼が「存在していたという事実」すら完全に……。
「アイリス」
背後から声がして、私はビクリと肩を震わせた。
振り返ると、ルシアン様が立っていた。逆光で表情は読めない。ただ、その琥珀色の瞳だけが、闇の中で異様に輝いていた。
「こんなところで何をしているんだい? 厨房は油の匂いがする。君のような尊い人が来る場所ではないよ」
彼がゆっくりと近づいてくる。
私は後ずさりしようとしたが、足がすくんで動けなかった。
「ル、ルシアン様……。ベルナールは……ベルナール一体どこへ……」
震える声で絞り出した私の問いに、ルシアン様は小首を傾げた。
「ベルナール? 誰だい、それは。……ああ、もしかして、君の夢の中の住人かな?」
彼は私の頬に手を添え、親指で優しく撫でた。その手は酷く冷たかった。まるで、体温を持たない人形のように。
「君は疲れているんだ、アイリス。グランツ王国の悪夢が、まだ君を苦しめている。でも安心して。君の視界に入るものは、すべて私が美しく、完璧にしてあげるから。君を少しでも不快にさせるものは必要ない」
彼の狂気に満ちた笑みが、私の顔の数センチの距離に迫る。
私は悟った。
ここは天国などではない。
終わりのない狂気の庭。
そして私は、この美しく恐ろしい怪物の腕の中から、永遠に逃れられないのだということを。
「さあ、部屋に戻ろう、アイリス。君の大好きな、あの花を飾り直したんだ」
ルシアン様に抱き抱えられながら、私は声にならない悲鳴を上げた。
完璧な幸福という名の、底なしの地獄が静かにその口を開けていた。




