↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【連載完結】婚約者の王子に婚約破棄されましたが、隣国の冷徹公爵に溺愛されています……  作者: 逆立ちハムスター


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

5/5

陽光の真実……

冷たい。

全身を、いや、魂そのものを押し潰すような圧倒的な水圧と、氷のような冷気が私を包み込んでいた。


「――っ!?」


目を見開く。

視界を覆っていた赤い肉のドームも、おぞましい無数の目玉も、腐肉の甘い匂いも、すべてが消え失せていた。

あるのは、深く、暗く、底なしに澄んだ青緑色の世界。

私は、水の底に沈んでいた。


(息が……っ!)


気管に水が入り込み、肺が焼けるような激痛を上げる。パニックに陥った脳が、生存本能だけを強烈に叩き起こす。さっきまでの狂気に満ちた記憶が、冷たい水に急速に溶けて薄れていく。


上……上へ。光のある方へ。


私は重いドレスを纏ったまま、無我夢中で手足を動かした。

過酷なまでの苦痛が私を襲う。

酸素を求める肺が痙攣し、喉の奥からゴボッと泡が漏れる。衣服の布地が水を吸って鉛のように重く、水を掻く腕の筋肉は千切れそうに悲鳴を上げている。

目の前がチカチカと点滅し始めた。意識が遠のく。手足の感覚が麻痺し、ただ「死の恐怖」だけが首元に食い込んでくる。


(嫌だ、死にたくない……っ!!)


ただ……ただ生きたい。

その一心で最後の力を振り絞り、水面へ向かって腕を突き出した。


ザァァァァッ!!!


水面を割り、顔を出した瞬間。

「かはっ、はぁっ、はぁぁっ……!」

気管に詰まった水を吐き出しながら、私は貪るように外の空気を吸い込んだ。

むせ返るような緑の匂い。頬を撫でる、爽やかな風。


見上げた先には、果てしなく高く、突き抜けるような晴れやかな青空が広がっていた。

湖の周囲を囲むのは、太陽の光を浴びてきらきらと輝く、生い茂る木々の緑。鳥の囀りが遠くで聞こえる。

それは狂気や呪いなど微塵も存在しない、ただ美しく、残酷なほどに正常な「自然の景色」だった。


「はぁっ……げほっ、岸……岸へ……行かなきゃ……ゴボ……はぁはぁ」


安心している余裕はなかった。体温は奪われ続け、手足はすでに限界を超えている。いつまた溺れてしまうか分からない。

私は波打つ水面でもがきながら、泥にまみれた岸辺を目指した。

水を飲む。咳き込む。視界がぼやけ、爪が割れるのも構わず、水底の泥と水草を掴んでは己の身体を前へ引きずっていく。


バシャ、バシャ……。


ついに、岸辺の泥に指が食い込んだ。

私は這いつくばるようにして浅瀬に身体を引き上げ、水から半身を出したところで、完全に力尽きた。

下半身を冷たい湖水に浸したまま、泥だらけの岸辺に顔を伏せる。肺がヒューヒューと浅い音を立て、視界の端が黒く霞んでいく。もう、指一本すら動かせない。


(あぁ……このまま……死ぬのかな……)


朦朧とする意識の中、遠くから何かが近づいてくる音が聞こえた。

ドッドッドッ、という、激しい馬の蹄の音。それも、一頭や二頭ではない。


「アイリス!!」


張り裂けんばかりの、悲痛な叫び声。

その声に、私の心臓が大きく跳ねた。


重い瞼を微かに開けると、数人の騎士たちと共に、馬を猛スピードで走らせてくる二つの影が見えた。

先頭を走っていたのは、銀色の甲冑を纏い、顔を真っ青にした美しい金髪の青年――私の婚約者である、レナード王子。その後ろには、馬に乗るのも不慣れなはずなのに、必死にしがみついてついてきた従姉妹のミーシャの姿があった。


「アイリス! アイリス!!」


レナードは馬が完全に止まるのを待たずに飛び降り、泥を跳ね上げながら私のもとへ駆け寄ってきた。

「レナー……ド……?」


「ああ、神よ……! よかった、間無事だった! おい、こっちだ! 早くしろ!」

レナードは泥だらけの私を力強く、けれど壊れ物を扱うようにそっと抱き起こした。彼の腕は温かかった。あの地下牢で見た異形の怪物でも、私を憎悪する裏切り者でもない。彼の瞳からは、大粒の涙がボロボロとこぼれ落ちている。


「アイリスお姉様!」

遅れて駆けつけたミーシャが、自分のマントを急いで脱ぎ捨て、ずぶ濡れの私の肩にしっかりと掛けた。

「お姉様、しっかりして! ああ、なんて冷たいの……! 早く、早く温めないと!」


彼女の手が、私の冷え切った頬を優しく包み込む。

その顔には、あの悪夢で見たような邪悪な笑みなど欠片もなく、ただ純粋な家族への愛と、深い心配だけが刻まれていた。


「……どう、して……。私、追放されたんじゃ……」


掠れた声で呟く私に、レナードは泣き笑いのような顔で首を横に振った。


「何を馬鹿なことを言っているんだ! 君が、結界の要石を直そうと一人でこの危険な湖に入ったと聞いて、どれだけ肝を冷やしたか……! なんて無茶をするんだ、君は!」


叱責するような言葉とは裏腹に、彼の手は私を失うことを恐れるように震えていた。

ミーシャも、ポロポロと涙を流しながら私に縋り付く。

「そうですわ! 私たちがいるじゃないですか! もう二度と、一人でこんな無茶をしないでください……でも無事でいてくれて、本当によかった……!」


――ああ、そうか。


あの傲慢な婚約破棄も、冷徹な公爵も、狂気に満ちた溺愛の箱庭も。

結界を維持する重圧と、無意識下に抱えていた不安が、湖で溺れて生死の境を彷徨う私の脳内に見せた、ただの恐ろしい悪夢(幻覚)に過ぎなかったのかもしれない。


「レナード……ミーシャ……」


私は震える腕をゆっくりと持ち上げ、二人の背中にそっと回した。

触手の不気味な感触ではない。本物の人間の、温かく力強い体温。脈打つ生命の鼓動。


「ごめんなさい……。もう、無茶はしないわ……」


私の言葉に、レナードとミーシャは顔を見合わせ、そして堰を切ったように泣きながら、私を強く、強く抱きしめた。

三人の重なり合う体温が、凍え切った私の身体と心を、芯から溶かしていく。


見上げた青空は、どこまでも澄み渡っていた。

もう、呪いも狂気もない。

ただ私を心から愛し、心配してくれる大切な人たちがここにいる。

本物の、かけがえのない温もりの中で、私は静かに安堵の涙を流した。


ただ、私には微かな異音が聞こえた。それは、金属が擦れるような、不気味な音だった。しかし、気のせいだったかもしれない。さっきの異音はもう、聞こえないのだから。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。