陽光の真実……
冷たい。
全身を、いや、魂そのものを押し潰すような圧倒的な水圧と、氷のような冷気が私を包み込んでいた。
「――っ!?」
目を見開く。
視界を覆っていた赤い肉のドームも、おぞましい無数の目玉も、腐肉の甘い匂いも、すべてが消え失せていた。
あるのは、深く、暗く、底なしに澄んだ青緑色の世界。
私は、水の底に沈んでいた。
(息が……っ!)
気管に水が入り込み、肺が焼けるような激痛を上げる。パニックに陥った脳が、生存本能だけを強烈に叩き起こす。さっきまでの狂気に満ちた記憶が、冷たい水に急速に溶けて薄れていく。
上……上へ。光のある方へ。
私は重いドレスを纏ったまま、無我夢中で手足を動かした。
過酷なまでの苦痛が私を襲う。
酸素を求める肺が痙攣し、喉の奥からゴボッと泡が漏れる。衣服の布地が水を吸って鉛のように重く、水を掻く腕の筋肉は千切れそうに悲鳴を上げている。
目の前がチカチカと点滅し始めた。意識が遠のく。手足の感覚が麻痺し、ただ「死の恐怖」だけが首元に食い込んでくる。
(嫌だ、死にたくない……っ!!)
ただ……ただ生きたい。
その一心で最後の力を振り絞り、水面へ向かって腕を突き出した。
ザァァァァッ!!!
水面を割り、顔を出した瞬間。
「かはっ、はぁっ、はぁぁっ……!」
気管に詰まった水を吐き出しながら、私は貪るように外の空気を吸い込んだ。
むせ返るような緑の匂い。頬を撫でる、爽やかな風。
見上げた先には、果てしなく高く、突き抜けるような晴れやかな青空が広がっていた。
湖の周囲を囲むのは、太陽の光を浴びてきらきらと輝く、生い茂る木々の緑。鳥の囀りが遠くで聞こえる。
それは狂気や呪いなど微塵も存在しない、ただ美しく、残酷なほどに正常な「自然の景色」だった。
「はぁっ……げほっ、岸……岸へ……行かなきゃ……ゴボ……はぁはぁ」
安心している余裕はなかった。体温は奪われ続け、手足はすでに限界を超えている。いつまた溺れてしまうか分からない。
私は波打つ水面でもがきながら、泥にまみれた岸辺を目指した。
水を飲む。咳き込む。視界がぼやけ、爪が割れるのも構わず、水底の泥と水草を掴んでは己の身体を前へ引きずっていく。
バシャ、バシャ……。
ついに、岸辺の泥に指が食い込んだ。
私は這いつくばるようにして浅瀬に身体を引き上げ、水から半身を出したところで、完全に力尽きた。
下半身を冷たい湖水に浸したまま、泥だらけの岸辺に顔を伏せる。肺がヒューヒューと浅い音を立て、視界の端が黒く霞んでいく。もう、指一本すら動かせない。
(あぁ……このまま……死ぬのかな……)
朦朧とする意識の中、遠くから何かが近づいてくる音が聞こえた。
ドッドッドッ、という、激しい馬の蹄の音。それも、一頭や二頭ではない。
「アイリス!!」
張り裂けんばかりの、悲痛な叫び声。
その声に、私の心臓が大きく跳ねた。
重い瞼を微かに開けると、数人の騎士たちと共に、馬を猛スピードで走らせてくる二つの影が見えた。
先頭を走っていたのは、銀色の甲冑を纏い、顔を真っ青にした美しい金髪の青年――私の婚約者である、レナード王子。その後ろには、馬に乗るのも不慣れなはずなのに、必死にしがみついてついてきた従姉妹のミーシャの姿があった。
「アイリス! アイリス!!」
レナードは馬が完全に止まるのを待たずに飛び降り、泥を跳ね上げながら私のもとへ駆け寄ってきた。
「レナー……ド……?」
「ああ、神よ……! よかった、間無事だった! おい、こっちだ! 早くしろ!」
レナードは泥だらけの私を力強く、けれど壊れ物を扱うようにそっと抱き起こした。彼の腕は温かかった。あの地下牢で見た異形の怪物でも、私を憎悪する裏切り者でもない。彼の瞳からは、大粒の涙がボロボロとこぼれ落ちている。
「アイリスお姉様!」
遅れて駆けつけたミーシャが、自分のマントを急いで脱ぎ捨て、ずぶ濡れの私の肩にしっかりと掛けた。
「お姉様、しっかりして! ああ、なんて冷たいの……! 早く、早く温めないと!」
彼女の手が、私の冷え切った頬を優しく包み込む。
その顔には、あの悪夢で見たような邪悪な笑みなど欠片もなく、ただ純粋な家族への愛と、深い心配だけが刻まれていた。
「……どう、して……。私、追放されたんじゃ……」
掠れた声で呟く私に、レナードは泣き笑いのような顔で首を横に振った。
「何を馬鹿なことを言っているんだ! 君が、結界の要石を直そうと一人でこの危険な湖に入ったと聞いて、どれだけ肝を冷やしたか……! なんて無茶をするんだ、君は!」
叱責するような言葉とは裏腹に、彼の手は私を失うことを恐れるように震えていた。
ミーシャも、ポロポロと涙を流しながら私に縋り付く。
「そうですわ! 私たちがいるじゃないですか! もう二度と、一人でこんな無茶をしないでください……でも無事でいてくれて、本当によかった……!」
――ああ、そうか。
あの傲慢な婚約破棄も、冷徹な公爵も、狂気に満ちた溺愛の箱庭も。
結界を維持する重圧と、無意識下に抱えていた不安が、湖で溺れて生死の境を彷徨う私の脳内に見せた、ただの恐ろしい悪夢(幻覚)に過ぎなかったのかもしれない。
「レナード……ミーシャ……」
私は震える腕をゆっくりと持ち上げ、二人の背中にそっと回した。
触手の不気味な感触ではない。本物の人間の、温かく力強い体温。脈打つ生命の鼓動。
「ごめんなさい……。もう、無茶はしないわ……」
私の言葉に、レナードとミーシャは顔を見合わせ、そして堰を切ったように泣きながら、私を強く、強く抱きしめた。
三人の重なり合う体温が、凍え切った私の身体と心を、芯から溶かしていく。
見上げた青空は、どこまでも澄み渡っていた。
もう、呪いも狂気もない。
ただ私を心から愛し、心配してくれる大切な人たちがここにいる。
本物の、かけがえのない温もりの中で、私は静かに安堵の涙を流した。
ただ、私には微かな異音が聞こえた。それは、金属が擦れるような、不気味な音だった。しかし、気のせいだったかもしれない。さっきの異音はもう、聞こえないのだから。




