第87話 フジャイラの王、得体の知れない魔物と戦う
決戦の朝が来た。
街から、灯りが消えた。暖房が止まり、動く歩道が止まり、あらゆる魔道具が沈黙した。街中の魔力が、一筋の川のように、リザードマンの谷へと流れていく。ドイシュ族が焼いた巨大な器が、すり鉢の底で、集まる魔力を受け止め、青白く光っていた。
街の人々は、西の避難所へ移った。灯りのない街に残るのは、僕たちだけだった。
僕は、谷の中心に立った。
背後に、騎士団長アレオスさん。崖の上に、マーガレット王女とウン族のソノワさん。谷の入口に、ルドルフ隊長の防衛隊。そして、僕のすぐ隣に、カミーラ王妃。
「配置に、つきましたね」
「アルス。今なら、まだ引き返せる。囮は、器だけでも——」
「カミーラ」
僕は、笑って見せた。
「綱の端を、握っていてください。それだけで、僕は落ちません」
王妃は、何か言いかけて、やめた。代わりに、僕の手を、痛いほど強く握った。
待つ時間は、長かった。
谷に集められた魔力の光を、僕は、自分の全属性の力で、さらに膨らませた。ここに、飛び切りの餌があると、東の山へ向かって、匂いを放つ。喰らうものよ、街ではなく、ここへ来い、と。
昼を過ぎた頃、風が、止まった。
鳥も、虫も、もとよりいない。だが、その「無音」が、急に、質を変えた。世界が、息を潜めたようだった。
東の山の稜線が、崩れた。
いや、崩れたのではない。山の一部だと思っていた黒い影が、動いたのだ。それは、ゆっくりと起き上がり——山より、大きかった。
「……なんて、大きさ」
誰かの呟きが、震えていた。
喰らうものは、決まった形を持たなかった。黒い靄のような体は、見るたびに輪郭を変え、ある時は獣のように、ある時は嵐のように見えた。ただ一つ、変わらぬものがあった。体の中心に空いた、真っ黒な——口。カミーラ王妃が、夢で見たという、あの口だった。
それは、地を這うように、谷へ、まっすぐ、降りてきた。餌に、飛びついてきた。作戦通りだった。作戦通りに、それは、あまりにも、恐ろしかった。
「マーガレット!」
僕は、崖の上へ叫んだ。マーガレット王女が、鑑定の目を、獣に向ける。
「見える……!体は靄だ、斬っても無駄!核がある!口の、奥だ!あの黒い口の、一番奥に、光る核が一つ——そこだけが、実体だ!」
口の奥。呑み込まれる、その先。
つまり、核を突くには、あの口の中に、手が届く距離まで——呑み込まれる寸前まで、近づかねばならない。
予知の通りだった。呑み込まれる寸前。そこに、勝機がある。
「アレオスさん!」
「はっ!」
アレオスさんが、駆けた。喰らうものの体から、無数の魔物が——喰われた獣たちの成れの果てが、湧き出してくる。それを、アレオスさんの剣が薙ぎ払う。
「ここは通しません!」
僕への道を、その身一つで、切り開いていた。魔物の爪がその鎧を破り、アレオスさんの腕からは血が吹き出し、剣には魔物の血だけでなく、自身の血が混ざっていた。僕は彼の切り開いた道を行く。
僕は、走った。谷の底を、あの口へ向かって。
カミーラの声が聞こえてきた。予知の力を使っているのだった。
「アルス、右だ。右に寄れ」
「そこで止まれ。魔物の魔法がくる」
「そこから、三歩前!新しい魔法だ」
「今だ、進め」
と未来を読んで僕を導いた。
僕はさらにその靄に近づいた。魔力が、吸われていく。近づくほどに、体が重い。全属性の魔力が、ごっそりと引き抜かれていく。喰らうものが、歓喜するように、うねった。旨い、旨い、と。もっと近くへ、と。
いい。もっと、欲しがれ。夢中になれ。僕から、目を離すな。
「ソノワさん!今です!」
谷に、歌が、響いた。
ウン族の歌。合図の歌。それは、全員への号令だった。ルドルフ隊長が、崖に仕掛けた岩を落とす。喰らうものの退路が、崖崩れで塞がれる。逃げ場は、なくなった。
そして、歌は、僕への、合図でもあった。
今だ。呑み込まれろ。
僕は、あえて、力を抜いた。抗うのをやめた。喰らうものの口が、僕を、一気に、呑み込みにかかる。黒い口が、大きく、開く。世界が、闇に、覆われる。
マーガレット王女が、叫んだ。
「核が移動した!」
カミーラ王妃の、叫び声が、聞こえた。
「アルスーーーッ!」
大丈夫。まだ、綱の上だ。
闇の中で、僕は、核が動くのを見た。逃げ惑う核を、僕は、闇の中で追い詰めた。ついに、手の届く距離まで。
夢が、終わる瞬間。
予知が、見せなかった、その先。
「逃がさない」
僕は、全身に残った、最後の魔力を——いや、僕の全属性を、たった一点に、束ねた。火も、水も、風も、土も、光も、闇も、全部を、一本の槍に。
「——終わりだ」
僕は、その槍を、核へ、突き立てた。
光が、闇を、内側から、破った。
喰らうものの、声にならない絶叫が、谷を、揺らした。その巨大な靄の体が、内側から、崩れていく。喰らってきた、無数の魔力が、行き場を失い、空へと、解き放たれていく。それは、まるで——三百年分の、囚われた命が、ようやく、天へ帰っていくようだった。
そして、静寂が、来た。
僕は、谷の底に、倒れていた。魔力を、使い果たし、吸い尽くされ、指一本、動かせなかった。空が、見えた。青い、ただ青い、何もいない空だった。
勝った。
そう思った瞬間、意識が、遠のいた。
「アルス!アルス!」
遠くで、カミーラ王妃の声がした。
誰かが、僕を、抱き起こす。温かい。この、匂いは、知っている。
「息を——息をしておる!生きておる!アルス、目を開けろ、私を置いていくな!」
僕は、渾身の力で、目を開けた。
涙で、ぐしゃぐしゃになった、カミーラ王妃の顔が、すぐ目の前にあった。こんなに取り乱した王妃を、見るのは、初めてだった。
「……綱、落ちません、でしたよ」
僕が、掠れた声で言うと、王妃は、一瞬、泣き笑いのような顔をして、それから、僕を、強く、強く、抱きしめた。
「馬鹿者……馬鹿者っ……!二度と、二度とするな、こんなことは……!」
谷の上から、皆が、駆け降りてくるのが見えた。アレオスさんが、マーガレット王女が、ルドルフ隊長が、ソノワさんが。空には、解き放たれた魔力が、光の粒となって、まだ、きらきらと舞っていた。
その時、隣で、カミーラ王妃が、空を見上げて息を呑んだ。舞い上がる光の粒の中に、王妃は、何かを見ているようだった。
「……父上」
王妃が、そう呟いた。僕には見えなかった。だが、きっと、そこにいたのだろう。二十年、この日を待っていた人が。
王妃が小さく頷き返すと、その視線の先の光は、空へ溶けていった。
その光の中で、ナガさんが、膝をつき、天を仰いで、泣いていた。
三百年の旅が、長く苦しい旅が終わったのだ。




