第86話 フジャイラの王、囮となる
調査隊が、山から戻ってきた。
三日ぶりに帰った彼らの顔を見て、僕は言葉を失った。日に焼けて逞しかったはずの男たちが、まるで長い病を患ったように、青ざめ、痩せて見えた。隊を率いたカルロスさんが、震える声で報告した。
「陛下……あの山は、死んでいます」
カルロスさんは、水を一杯飲んでから、ようやく続けた。
「麓から、様子がおかしいのです。木に葉がない。春だというのに、芽の一つもない。鳥の声も、虫の音もしない。川には、腹を見せた魚が、びっしりと浮いていました。……そして、進むほどに、体が重くなる。魔力が、吸われていくのです。松明の魔道具が、みるみる暗くなりました。これ以上進めば、皆、動けなくなると思い、引き返しました」
ナガさんが、目を閉じた。
「……間違いない。あれが、山を喰っている。もう、山には喰うものが残り少ない。残りを喰い尽くせば——次は、里へ下りてくる」
部屋が、静まり返った。調査隊の一人が、ぽつりと言った。
「あんな場所へ、あんなものと戦いに行くのですか。俺たちは……勝てるのですか」
無理もない恐怖だった。姿も見ていない。だが、山を一つ枯らす力の片鱗に、触れてきたのだ。
僕は、皆を見回した。ここで僕が怯えれば、全員が崩れる。
「戦いに行きません」
僕は、はっきりと言った。
「あれの土俵で戦えば、負けます。魔力を吸われて、動けなくなって、終わりです。——だから、あれを、こちらの土俵に呼びます」
僕は、大きな地図を広げた。東の山。フジャイラの街。そして、その間にある、大きな谷。
「作戦を説明します」
覚え書きを何度も書き直して、たどり着いた策だった。
「あれは、魔力を追って動きます。より多く、より濃い魔力へ。今、あれが街を狙っているのは、街に魔力が集まっているからです。なら——街の魔力を、全部、別の場所に移します。この大きな谷に」
僕は、谷を指した。
「街の魔石、魔道具、灯り、全部止めて、魔力を谷に集めます。街を、空っぽにするのです。魔力の匂いが消えた街には、あれは来ない。谷に集めた魔力の塊にこそ、あれは飛びつく。決戦の場所も、時も、僕たちが決めます」
マーガレット王女が、鑑定の目で地図を見ながら言った。
「なるほど。谷なら、三方が崖だ。逃げ場を塞げる。良い罠だ。……だが、アルス。一つ、抜けている。魔力の塊が、本当にあれを満足させるほど大きくなければ、あれは『物足りぬ』と気づいて、結局、街へ来る。街と谷、どちらが旨いか——それを決めるほどの、飛び切りの魔力が、谷にいるか?」
鋭い指摘だった。さすが、鑑定の王女だ。
僕は、少しの間、黙った。それから、答えた。
「います」
「ほう。何だ」
「僕です」
空気が、凍りついた。
「全属性の魔力を持つ人間は、この世に僕一人です。あれにとって、街の魔石をかき集めるより、僕一人の方が、遥かに旨い。……僕が谷の中心に立てば、あれは、必ず、僕を狙って降りてきます」
「ならん!」
叫んだのは、カミーラ王妃だった。いつも冷静な王妃が、顔色を変えて、僕の腕を掴んでいた。
「その手は、ならん! 私が見た夢を忘れたか! 呑み込まれるのだ、其方が!あの黒い口に!」
「カミーラ」
僕は、掴まれた手に、自分の手を重ねた。
「その夢は、呑み込まれる前で終わる、と言いましたよね。呑み込まれた先が見えない。——なら、僕は、呑み込まれる寸前で、あれを倒します。夢が終わるその瞬間に、決着をつける。予知が『その先を見せない』のは、そこで未来が変わるからです」
王妃の手が、震えていた。
「……そんな、綱渡りのような」
「はい。綱渡りです。でも、綱は、僕が渡ります。カミーラは——僕が落ちないように、綱の端を、握っていてください」
王妃は、唇を噛んだ。長い、長い沈黙の後、絞り出すように言った。
「……一つでも、手順を違えたら。一瞬でも、遅れたら。私は、其方を喪う」
「違えません。遅れません」
「約束、できるのか」
「できます。——だって、死ぬときは一緒だと、カミーラが言ったんです。僕だけ先には、行きません」
王妃は、僕を睨んだ。睨みながら、その目には、涙が滲んでいた。
「……卑怯だぞ、アルス。その言葉を、そこで使うか」
「はい。一番効く時に使えと、教わりましたから」
作戦は、動き出した。
一人では、できない。街の魔力を谷へ移すのも、あれを迎え撃つのも、全員の力がいる。僕は、持ち場を割り振った。
ドイシュ族には、魔力を溜める巨大な器を焼いてもらう。彼らの窯の技術が、谷に魔力を集める要になる。
カルロスさんとルドルフ隊長の防衛隊は、住民の避難。街の魔力を止める間、灯りも暖房も消える。人々を安全な場所へ移し、守る。
騎士団長アレオスさんには、谷での僕の護衛を頼んだ。あれが降りてくるまでの間、雑魚の魔物を寄せつけない盾だ。「今度こそ、リザードマンの弔い合戦です」と、アレオスさんは静かに頷いた。
ウン族のソノワさんには、合図の歌を頼んだ。谷中に響く歌で、全員のタイミングを合わせる。声の届かぬ広い谷でも、歌なら届く。
マーガレット王女は、進んで戦いに参加すると宣言した。鑑定の能力で、あれの弱点を見抜く役だ。降りてきた瞬間、どこを突けば良いか、僕に教えるという。
さらに王女には、事前に電話の魔道具で王都へ——マギビスタへの、援軍要請をお願いした。
『任せろ、アルス』
マーガレット王女の声は、震えていなかった。
『これは、フジャイラだけの戦いではない。次は、マギビスタが喰われる。父上と兄上を、必ず説き伏せる』
いつの間にか、人質の少女は、一国の使者の顔になっていた。
その夜、僕は一人、谷に立ってみた。
下見のつもりだった。三方を崖に囲まれた、すり鉢の底。ここに、街中の魔力を集める。ここに、僕が立つ。ここへ、あれが降りてくる。
風が、鳴った。
東の山の方から吹く風は、かすかに、腐ったような、魔力の焦げた匂いがした。あれの、匂いだった。
怖くないと言えば、嘘になる。呑み込まれる寸前まで、あの黒い口を引きつける。少しでも間違えれば、僕は、カミーラを、皆を、遺して逝く。
だが、と僕は思った。
夜空を見上げた。星が、いつもより、近く見えた。
この星空の下に、僕が作った国がある。呼び戻した民がいる。灯した灯りがある。それを喰わせはしない。三百年、逃げ続けた者たちの旅を、僕の代で、終わらせる。
「——来い」
僕は、東の山に向かって、小さく呟いた。
谷の風が、応えるように、ひときわ強く鳴った。
東の山の闇の中で、何かがゆっくりと目を開いた。




