第85話 フジャイラ王、山の王を考える
その夜、僕は眠れなかった。
展望レストランの窓から、東の山脈を見た。夜の闇に沈んで、そこに何があるのかは見えない。だが、いる。魔力を喰らう、山の主が。
隣に、カミーラ王妃が来た。
「眠れぬのか」
「はい。考えることが多すぎて」
「アルス。恐ろしいか」
僕は、正直に頷いた。
「恐ろしいです。リザードマンとは、比べ物にならない相手だと思います。それに——」
僕は、眼下の街の灯りを見た。帰還した民の区画にも、新しい灯りが点っていた。
「僕には、もう、失うものが多すぎる」
カミーラ王妃は、僕の隣に並んで、同じ灯りを見た。
「そうだな。私もだ。……だが、アルス。失うものが多いというのは、守るものが多いということだ。何も持たぬ者は、強くはなれぬ。何かを持った者だけが、本当に強くなれる。私は、そう思うぞ」
王妃は、僕の手を握った。
「それに、今度は、二人だ。いや——」
王妃は、街の灯りを見渡した。ウン族の劇場。ドイシュ族の窯の火。カルロスの村。フェルプスの商会。帰ってきた民の家々。
「二人ではない。国中だ」
東の山脈の上に、月が昇っていた。
僕は、その山を見据えた。恐れは、消えていない。だが、その恐れの奥に、確かに一つ、覚悟が座り始めていた。
——調べよう。あれが何なのか。どう眠り、どう目覚め、何を喰らい、どうすれば終わらせられるのか。
知ることから、始めよう。それが、僕のやり方だ。
そう決めた僕が、まず頼ったのは、三人だった。
トレシュ族のナガさん。「喰らうもの」を最もよく知る、生き証人。薬師のガレタさん。魔力と体の関わりを、誰より深く見てきた人。そして、カミーラ王妃。予知の資質を持ち、二つの亡国を知る、ただ一人の存在。
僕は、この三人を東の山脈が見える展望レストランに集めた。テーブルの上には、僕が徹夜で書いた覚え書きが広がっていた。
「敵の正体を、埋めていきます。分かっていること、分からないこと、全部です」
まず、ナガさんが知っていることを聞いた。
「あれは、いつも同じだ。ある日、山の魔力が、すっと薄くなる。獣が減り、木が枯れ、川の魚が浮く。里の古老は、それを『山が痩せる』と呼んだ。……そして、痩せきった頃、あれが山から下りてくる」
「下りてきた後は?」
「土地の魔力を喰い尽くすと、また山へ帰る。そして、眠る。長い、長い眠りだ。次に目覚めるまで、里は静かになる。……その静けさが、何より恐ろしい。皆、忘れた頃に、また来るのだから」
僕は、覚え書きに「痩せる→下りる→喰う→眠る」と書いた。周期がある。規則があるなら、読める。
「ナガさん。前に山が痩せたのは、いつですか」
「……去年の秋からだ。魚が、浮き始めた」
背筋が、冷たくなった。もう、始まっている。
次に、薬師のガレタさんに聞いた。魔力を喰らうとは、どういうことなのか。
「魔力は、土地にも、生き物にも、宿っています」
とガレタさんは言った。
「畑が実るのも、井戸が湧くのも、突き詰めれば土地の魔力です。それを根こそぎ奪われれば——土地は、死にます。しばらくは、何も育たない」
「奪われた魔力は、どこへ?」
「その獣の腹の中、でしょうな。魔石が魔力を溜めるように。そして」
ガレタさんは、少し考えて、続けた。
「魔物でも、魔力が満ちれば活動は止まります。腹一杯になれば、獣とて、動けなくなる。満腹で眠るのではないか。……もし、そうなら、その眠りの深さは、どれだけ喰ったかで決まるはずです。たらふく喰えば、長く眠る。少ししか喰えなければ、すぐ目覚める」
僕は、はっとした。眠りの長さは、獲物の大きさで決まる。
「カミーラ。メーリッシュは、豊かな国だったんですよね」
「五支族を擁する、大国だったと聞く」
「フジャイラは?」
「……小さな国だ。豊かではあったが、メーリッシュには遠く及ばぬ」
線が、繋がった。
「だから、間が空いたんです。三百年と、二十年。あれは大国メーリッシュをたらふく喰らって、三百年近く眠った。目覚めて、次に見つけた小さなフジャイラを喰らった。フジャイラは小さかったから、腹半分。だから——」
僕は、覚え書きの上で、指を止めた。
「だから、二十年で、また目覚めた」
テーブルに、沈黙が落ちた。
カミーラ王妃が、静かに言った。
「そして今、あれは、フジャイラよりも遥かに魔力の濃い国を、見つけた」
この国だ。魔道具の魔力、集められた魔石、全属性を持つ僕自身。「喰らうもの」にとって、これほどの馳走はない。僕たちは、自分たちで育てた繁栄で、獣を呼び寄せてしまったのだ。
その夜、カミーラ王妃が、久しぶりに予知のことを口にした。
「アルス。近頃、同じ夢を見る」
「夢?」
「山が、口を開ける夢だ。真っ黒な口が、この街を、呑み込もうとする。……だが、いつも、そこで終わる。呑み込まれる前に、目が覚める。呑み込まれた先が、見えぬのだ」
王妃は、自分の胸に手を当てた。
「私の予知は、変えられる未来しか見せぬ。呑み込まれた先が見えぬということは——まだ、決まっておらぬということだ。私たちの手で、変えられるということだ」
僕は、頷いた。恐怖の中に、一筋の光があった。
運命は、まだ決まっていない。
数日後、僕は、白銀の翼と、防衛隊のルドルフ隊長を集めた。
「二つ、始めます。一つは、調査隊。東の山に、少しずつ近づいて、あれの様子を探ります。ただし、決して戦わない。見て、聞いて、帰ってくるだけ。知ることが、今の武器です」
「もう一つは?」
と、カルロスさんが電話の魔石越しに聞いた。ベルンハルトからの参加だった。
「もう一つは、時間稼ぎでなく、備えです。あれが魔力を喰らう獣なら——魔力を、こちらの都合の良い場所に、こちらの都合の良い形で、置いておくことができる」
「陛下、何か、策はおありですか?」
カルロスさんが質問してきた。
「まだ具体的方法は思いついておりません。ただ、奴の性質を利用するしかないと思っています」
と僕が答えると、さらにカルロスさんは聞いてきた。自分の心配というよりは、村民や国民の対応を思ったのだろう。
「陛下、奴の性質を利用するとはどういうことでしょうか?」
「あれは、魔力に来ます。なら、迎え撃つ場所も、時も、こちらで決められる。逃げるのでも、待つのでもない。——おびき寄せて、終わらせます」
ナガさんが、三百年の流浪の果てに、初めて、笑った。
「……終わらせる、か。その言葉を聞くために、私は、生きてきたのかもしれん」
東の山脈を日が照らしていた。山は、まだ、静かだった。
だが、その静けさが、何より雄弁だった。あれは、下りてくる。近いうちに、必ず。僕たちには、それまでにやることが、山ほどあった。
そして、その間に、調査隊は魔力を喰らう魔物のいる東の山へと向かった。




