第84話 フジャイラ王、フジャイラの民を集める
ソノワさんから、「フジャイラ国物語」の歌劇ができたという報せが届いた。
「陛下、王妃様。上演の前に、お二人にだけ、聴いていただきたいのです」
誰もいない劇場に、僕とカミーラ王妃は招かれた。舞台には、ソノワさんと、弦を抱えたウン族の若者が一人。客席は、僕たち二人きりだった。
「この物語を作るのに、王妃様から昔のお話を伺いました」
ソノワさんは静かに言った。
「辛いことも、話していただきました。だから、まず、お二人に。もし、間違っていたら、書き直します」
弦が、鳴った。
歌は、まだ国があった頃から始まった。
穏やかな川のほとりの、小さな国。市場の賑わい、祭りの灯り、王の娘が二胡を弾く昼下がり。僕は横のカミーラ王妃を見た。王妃は、身じろぎもせず舞台を見ていた。
やがて歌は、翳っていく。
不作の年が続き、国は痩せ、弱った国に魔物の氾濫があった。王は民を守ろうとして力尽き、国は一夜で崩れた。歌の調子が、激しく掻き鳴らされる。散り散りに逃げる民。名を捨て、国を捨て、生きるために盗賊となった姫——。
カミーラ王妃の指が、膝の上で強く握られたのが分かった。僕は、そっとその手に自分の手を重ねた。
歌は、一番暗いところで、ふいに静かになった。
弦が、一音だけ、ぽろん、と鳴る。
『——遠い西の空の下、ひとりの少年が、名もなき娘に出会った』
それは、僕とカミーラ王妃の物語だった。名を失った姫が、名を持つ国の王妃になるまで。滅びた国の名が、新しい国の名として、もう一度この世に灯るまで。
最後の一節を、ウン族の若者は、ことさら静かに歌った。
『失くした名は、消えたのではない。次の誰かが呼ぶのを、待っていただけ』
弦が、鳴り止んだ。
誰もいない客席で、カミーラ王妃は、声を殺して泣いていた。僕は、何も言わずに、その手を握っていた。
やがて、王妃は顔を上げた。涙で濡れた顔で、まっすぐソノワさんを見た。
「ソノワ」
「はい」
「一言も、書き直すところはない。……これを、王都で歌ってくれ。フジャイラの名を、一人でも多くの者に聞かせてくれ」
ソノワさんは、深く頭を下げた。
「フジャイラ国物語」は、王都の劇場で幕を開けた。
評判は、「五つの川の歌」の比ではなかった。滅んだ国が甦る物語は、戦や飢饉で故郷を失った者の多い王都で、深く胸を打ったらしい。連日、劇場は満員になった。
そして、変化は、静かに始まった。
ある日、アルスブルクの門に、痩せた身なりの一家が立った。門番の報せで僕が出ていくと、年老いた男が、震える声で言った。
「歌を、聴きました。王都で。フジャイラの名を……久しぶりに、聞きました」
男は、崩れるように膝をついた。
「わしは、フジャイラの生まれです。国が滅んで、名を隠して、二十年、他所の国の隅で生きてきました。もう、あの名は、この世から消えたものと……」
その時、僕の後ろから、カミーラ王妃が進み出た。
男は、王妃の顔を見て、目を見開いた。
「その、お顔は……まさか、姫様……ご存命で……」
「久しいな」
王妃の声は、震えていた。
「よく、生きていてくれた。よく、帰ってきてくれた。——おかえり」
その一言で、老人は、子供のように泣き崩れた。
門の前で、王妃は老人の手を取り、いつまでも離さなかった。あの雪の日、展望レストランで「フジャイラの民はどうして来ないのだろう」と漏らした王妃の横顔を、僕は思い出していた。
来たのだ。歌に呼ばれて、一人、帰ってきたのだ。
その夜、僕とカミーラ王妃は、また展望レストランにいた。
眼下の街には、灯りの魔道具が、いくつも灯っている。その一つ一つが、誰かの帰る場所だった。
「アルス」
「はい」
「一人だった。今日は、たった一人だ」
王妃は、ガラスに映る街の灯りを見ていた。
「だが、一人来た。ならば、二人目が来る。三人目も来る。そうだろう?」
「はい。きっと」
「私は、待つ。父が言ったように。強い心を持って、努力して、待つ。……今度は、絶望の中でではなく、この灯りの中で待てる」
王妃は、僕の方を向いて、笑った。もう、涙はなかった。
「其方が、灯りを作ってくれたからだ。道を作り、声を届け、歌を広めてくれたからだ。ありがとう、アルス」
僕は、首を横に振った。
「作ったのは、皆です。ウン族が歌い、ドイシュ族が焼き物を作り、カルロスさんが村を守り、フェルプス商会が商いを広げた。僕は、少しだけ、きっかけを作っただけです」
「ふん。相変わらず、良い格好をする」
王妃は、笑いながら、僕の頭にそっと手を置いた。
眼下の街に、また一つ、新しい灯りが点った。
僕は録音の魔道具で「フジャイラ国物語」を録音し、その歌劇を再生する魔道具の販売をフェルプス商会のファビオさんにお願いした。そして、その販売とその効果に期待をし、どこかにいるフジャイラの民に向かって呼びかけ続けた。
「フジャイラ国物語」の再生の魔道具は、フェルプス商会の手で各地へ広がっていった。それに呼ばれるように、旧フジャイラの民が一人、また一人と門を叩いた。街の一角に、帰還した民のための区画ができるほどだった。
その報せに紛れて、もう一つの流れが動き出していたことに、僕はしばらく気づかなかった。
きっかけは、ソノワさんだった。ある朝、劇場から血相を変えて飛んできた。
「陛下!トレシュ族です!トレシュ族が、来ました!」
五つに分かれた支族の、三つ目。ウン族、ドイシュ族に続く、離散した同胞だった。門の前にいたのは、十人ほどの、ひどく痩せた一団だった。だが、ウン族やドイシュ族の時とは、様子が違った。彼らの目には、再会の喜びよりも、怯えがあった。
一団の長らしき女が、僕とソノワさんを交互に見て、掠れた声で言った。
「歌を、追ってきた。五つの川の歌を。……だが、我らは、喜びに来たのではない。報せに来た」
女は、震える指で、来た道の方——東の山脈を指した。
「あれが、また、動き出した。メーリッシュを滅ぼした、あれが」
女は、ナガと名乗った。
食事と風呂を勧めても、彼女は座ろうとしなかった。まず聞いてくれ、と言った。カミーラ王妃とソノワさんを交え、僕はその話を聞いた。
「我らトレシュ族は、五族の中で、東の山に一番近い里に隠れ住んでいた。だから、知っている。メーリッシュを滅ぼしたのは、ただの魔物の群れではない」
ナガは、喉を鳴らして続けた。
「山の主だ。里の古老は、それを『喰らうもの』と呼んだ。魔石を——いや、魔力そのものを喰らう獣だ。魔力の強い土地、魔力の強い者を嗅ぎつけ、根こそぎ喰らって、また眠る。メーリッシュが栄えたのは、豊かな魔力の土地だったからだ。そして、栄えたからこそ、喰われた」
僕は、背筋が冷たくなるのを感じた。
リザードマンが、近隣を襲いながら「何かを探していた」こと。あれは、はぐれた獣ではなかったのかもしれない。何かに追われて、あるいは、何かの先触れとして、流れてきたのではないか。
「そして今」
とナガは言った。
「あれは、また嗅ぎつけて、動き出した。魔力の強い土地を。魔力の強い者を」
ナガの目が、まっすぐ僕を見た。
「歌を追ってここへ来て、分かった。この国だ。この国の王だ。……あんたたちは、次の獲物として、この上なく相応しい」
重い沈黙が落ちた。
その時、隣で、カミーラ王妃が身じろぎもせず固まっていることに、僕は気づいた。
「カミーラ?」
王妃は、僕の声が聞こえていないようだった。青ざめた顔で、宙の一点を見つめている。
「……そうか」
やがて、絞り出すように、王妃は呟いた。
「そうだったのか。ずっと、分からなかった。なぜ、あの豊かな国が、あんなにあっけなく滅んだのか。不作のせいだと、疫病のせいだと、皆そう言った。私も、そう信じてきた。だが——順番が、逆だったのだ」
王妃の手が、膝の上で固く握られ、震えていた。
「痩せたから喰われたのではない。喰われたから、痩せたのだ。土地の魔力が根こそぎ奪われ、作物が枯れ、井戸が涸れ、人が病んだ。父上は、見えぬ敵と戦っていた。誰にも、その正体が分からぬまま……」
ナガが、静かに言った。
「……あんたの国も、か」
「フジャイラ、という」
王妃は、顔を上げた。その目に、涙はなかった。あったのは、二十年ぶりに敵の顔を見つけた者の、静かな怒りだった。
「私の父の、国の名だ。あれに喰われた。メーリッシュと、同じように」
部屋の空気が、変わった。
これは、もう、見知らぬ国の、見知らぬ災いの話ではなかった。カミーラ王妃の祖国を滅ぼした、その同じものが、今、この国に牙を向けようとしている。
僕は、王妃の握られた手に、そっと手を重ねた。
「カミーラ」
「案ずるな、アルス」
王妃は、僕の手を握り返した。その声は、もう落ち着いていた。
「仇だと思えば、心が乱れる。だが、私はもう、名ばかりの姫ではない。この国の王妃だ。……これは、復讐ではない。父上が終わらせられなかったものを、終わらせるのだ。それだけだ」
せっかく築いたものが、栄えたがゆえに狙われる——それは、ナガの一族が、そしてカミーラ王妃の国が、かつて辿った道だった。
口を開いたのは、カミーラ王妃だった。
「ナガとやら。一つ聞く。其方たちは、なぜ逃げ続けなかった。報せに来れば、この国もろとも喰われるかもしれぬのに、なぜ、わざわざ危険の方へ歩いてきた」
ナガは、少しの間、黙った。それから、静かに言った。
「逃げ続けて、三百年だ。逃げて、隠れて、また逃げて。もう、疲れた。……五つの川の歌を聴いた時、思ったのだ。誰かが、この獣に、終わりを作ろうとしているのではないか、と。作れる者がいるなら、賭けてみたかった。逃げるのではなく、終わらせる方に」
カミーラ王妃は、僕を見た。僕も、王妃を見た。言葉はいらなかった。僕たちも、逃げた者だ。逃げた先で、国を作った者だ。
「ナガさん」
僕は言った。
「話してくれて、ありがとうございます。そして、この国を選んで来てくれて」
「……礼を言われる筋合いはない。厄介を運んできただけだ」
「いいえ」
僕は首を振った。
「厄介は、知らないでいる時に一番大きくなります。知ってしまえば、備えられる。——僕は、知るのが好きなんです」
ナガは、初めて、ほんの少しだけ、表情を緩めた。




