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由佳は玲奈を急かさないことに決めた。流れのままにすべてを決めさせてしまったら、ある日突然ついこの間の自分みたいに隅に追いやっていたものが爆発してしまう、そう思ったからだ。玲奈もそれをありがたいと思っているみたいに見えた。しばらくは毎日の挨拶と、当たり障りのない会話ばかりだった。一週間ほどそんな日が続いたが、流石に悪いと感じ始めたのか、家事を分担したいと言い出したり、自らの家庭のことについて話すことも多くなった。
「あの人は周りには凄く良い顔をするんです。陰で私を好き放題殴っていることなんて微塵も感じられないくらいに。」
玲奈は父親とは決して言わなかった。そして決まって、母さんが可哀想だから、と、暗い目をして言うのだった。
「なんだかんだ、母さんには優しいんです、あの人は。だから、私が我慢すればいいんです。いつまでもあの家に居るわけじゃないし。」
玲奈はその考えにすがることで、正気を保っているようだった。もし誰かがお父さんを殺してくれるとしたら、と、由佳はもう少しで切り出すところだったが、押さえた。彼女の本当の感情が表出してくるまでそれは待った方がいいだろう。
由佳が仕事に出る時には、ランが玲奈の相手をしてくれた。ランの能天気なノリを玲奈も気に入っているようだった。そのうち、自ら頼み込んで実験の手伝いなどもするようになった。
「あの子、筋が良いわ。ちょっとしたデータの管理くらいなら、もう任せられるわよ。」
げ、と由佳は言った。
「私まだそれ出来ないのに。」
ひと月を過ぎたころ、玲奈は夕食時におずおずとこんなことを言い始めた。
「私、いつまでもここにお世話になるわけにはいきませんよね?」
気にしなくていいのよ、と由佳が言い、そうよ、とランが答える。
「私たち、女子高生一人養うくらい痛くも痒くも無い程度にはお金持ちなの。」
それがまともな仕事ではないことくらいは、玲奈も感じているようだった。それでも由佳とランの暮らしは派手なものではなかったし、玲奈はそこが気に入っていた。
「私、家に帰ろうと思うんです。」
「帰れるの?」
と、由佳が探るような表情で尋ねる。玲奈は一瞬表情を歪めたが、なにか重大な決断を下したかのように頷いた。
「私、あの人を殺そうと思います。」
数時間後、玲奈は荷物を持って由佳の家を出て行った。由佳とランは姿を消して玲奈のあとを追った。由佳とランは、これを勝手に自分たちの仕事にすることに決めたのだ。母親を悲しませたくないがために父親の暴力に耐え続けていた玲奈が、環境を変えて考えた結果が父親殺しというのは意外だったが、押し殺していた自分の感情が穏やかな生活の中でゆっくりと浮上してきたのかもしれなかった。玲奈の言葉に本気を感じたからこそ、由佳とランはそれを尊重したが、たとえ殺すことが出来たとしてもそれをさせる気は無かった。とはいえ、それはほとんど不可能だった。人を殺すという行為は、結構難しいのだ。技術的な意味でも、精神的な意味でも。玲奈の家の場所はなんとなく聞いていたが、地下鉄をひとつ乗り換えて玲奈が向かっている場所はまるで違う方向だった。おそらく、父親の職場の方だろう。後をつけて後ろから刺すとか、そういうのを狙っているかもしれない。なんにせよ、あまり不自然に手を出すわけにはいかなかった。まだ何もわからないのだ。父親が真直ぐ家に帰るのか、それとも、どこかで一杯飲んで帰るのか。そういうことさえも。そして、由佳はまだ決めかねていた。父親に玲奈の思いを感じさせた方がいいのか、ということについて。まずは玲奈がどんなふうに父親と向き合うのか、それを見届けるしかなかった。
ある巨大なオフィスビルを通り過ぎたところで、玲奈ははす向かいのビルとビルの隙間に身を隠した。そこが父親の職場らしい。三十分ほど身じろぎもせずに待っていると、やがてインテリを鼻にかけたような、170センチほどの中年の男が現れた。ジムにでも通っているのか、スーツを着ていてもそこそこの筋肉がついていることが見て取れた。男はすでに行先を決めているようで、JRの駅の方へかなりの速足でスタスタと歩いていた。




