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由佳は、自分のオフィスが入っているビルを島田から買い取り、オフィスの上の階に研究所を設けることにした。ビルは四階建てで、研究所が四階。二階は喫茶店だったらしいが、廃業して二年経っているとのことだった。由佳は、ついでに二階をリフォームしてそこを住居として使うことに決めた。オフィスのある階には手を付けないので、仕事にも生活にも不都合はない。古いとはいえコンクリ打ちっぱなしの物件で、騒音もそんなに気にはならなかった。凄いわね、あの家、と、由佳は島田に言った。
「昭和中期のコンクリ建築は、丁寧に練ってあるからもの凄く硬いらしいですよ。いまは納期がきついから、早めに固めちまうんで柔らかいんだとか。」
「お金が人を駄目にする、ってことね。」
島田が苦笑する。なに?と由佳が聞き返す。いや、と島田は手でごめんなさいのゼスチャーをしながら答える。
「姉さん若いのに時々、婆さんみたいな喋り方するなぁと思って。」
まあ、わりとお婆ちゃんっ子だったから…と由佳はもごもご言う。
「友達にも何回も言われたわ、それ。」
まあ、悪いことじゃないです、と島田。
「俺にゃ最近の若いやつらは異星人みたいに見えます。姉さんと話してると時々、ほっとしますよ。」
「いま褒められてるの?」
そうですよ、と島田は珍しく人のいい笑みで答える。由佳が高い買物をしたのでご機嫌なのかもしれない。それとも、悪いことをしなくなって、少し性格が穏やかになってきているのだろうか?まあ、いいわ、と由佳。
由佳は仕事をこなしながら、ラインと相談して研究所に入れる機材をあれこれ見繕った。結構な額になったが、一括で払うことが出来た。服と食事、あとは住処の諸々の経費以外であまり金を使わなかったので、イルーガルな仕事の報酬がどんどん溜まっていくのだ。とりあえず物を押さえてもらっておいて、工事終了後、由佳が電話を入れてから搬入という段取りにしてもらった。ふう、と、面倒なやり取りを終えて由佳は息をついた。
「楽しみね、研究所。」
「とうとう私の夢が叶うんだわ…。」
「ところでなんの薬を作るつもりなの?」
いろいろ、よ。
「いままであの研究所で見てきたものはもちろん、それを応用して出来るものは全部作ってみるつもりよ。要は、人間の身体に関するものはほとんど試してみるってことになるかしら。」
ふうん、と由佳。
「とりあえず疲れたからお風呂に入りましょう。」
「お、おう。」
すべて整ったのは半年ほど経ってからだった。研究機器の操作についてはラインも知らないことが多かったので、担当の人間に1日ついてもらって指導を受けた。それで、基本的な部分はだいたい頭に入れることが出来た。お若いのに凄いですね、と、あまり信用出来なさそうな、漫画に出てくる嫌なエリートみたいな感じの、三十代くらいの男はそう由佳をおだてた。いやまあ、と、由佳は苦笑いをした。
それから少しの間、なにも起こらなかった。由佳はひと月にひとつかふたつの仕事をし(島田の提案でそういうことになった)、残りの時間は研究や、ちょっとした旅行を楽しんだりした。そういえばいまの仕事になってから、忙しいとかあんまり気にしなくなってたなぁ、とぼんやり思った。最盛期には少し多いなとか思ったりもしたけれど、ほとんどの場合、目の前に来たものを淡々とこなしていただけのような気がする。たくさんの人間の感情に触れたのに、そのほとんどはあまり思い出せない。それが良いことなのか悪いことなのか、由佳にはわからなかった。感情が希薄なのだ、と、由佳はいつかラインが言っていた言葉を反復した。けれど、数限りない依頼人の心にいちいち感応していたら、心がいくつあってももたないだろう。それはやはり悪いことではないのだ。由佳は仕事を始める前に、自分で島田にそう言っていた。「適材適所」いまの自分だから出来る仕事。これより他に自分のやるべき仕事があるとは思えなかった。仕事をセーブしてからなんだか考え事ばかりしてるわね、とラインにも突っ込まれた。
「どうも仕事にやりがいを感じているみたいだわ、私。」
「いまのあなたには日常というものがあまりないわね。」
日常か…と由佳は考えた。たまにする旅行は、趣味とは言えるけど日常ではないものなぁ。
「音楽でも聴くか。オフィスでも流れるようにしてさ。依頼人だってリラックス出来るでしょ。」
微妙に仕事の話になってる気がするんだけど、と、ラインはつっこみを入れた。しまった、と、由佳は頭を掻いた。




