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「自分自身の行方の調査」という、およそ他の誰にも経験出来ないだろう件をきっかけに、千佳はそれまでの名を捨て、由佳になることを決めた。もちろん、由佳が千佳であることを知っているのはラインくらいだったし、誰になにを宣言するようなものでもなかったけれど、由佳の心はそれで随分楽になった。名前にこだわっていた分の過去が身体に引っかかっていたのだろう。由佳はそれから三件ほど立て続けに仕事をこなし、一週間休みを取った。由佳がずっと休みなく働いていたことを島田も気にしていたので、そこにはなんの問題もなかった。由佳はきちんと人間の交通機関を使ってちょっとした旅行をし、山奥の温泉でのんびりした。ラインは温泉に完全に病みつきになり、一日に何度も入りたがった。そんな風に三日を過ごし、リフレッシュして帰って来ると、オフィスの前に島田が立っていた。
「ああ、姉さん。」
その、姉さんっていうのやめて、由佳は顔をしかめた。
「いつも言ってるでしょ。」
すいません、と島田は頭を下げた。
「しかし、これが自分らの生きてきた世界の礼儀です。自分らはこういうふうにしか喋れないように出来てるんです。」
「自分で限界点を定めてしまうのは、その時点で成長を諦めるということだわ。」
「なにを言ってるのかまったくわかりません。」
由佳はため息をついた。いまや、島田の部下どころか、近所の人間まで由佳を姉さんと呼ぶ始末だった。
そんなことより姉さん、ちょっとお耳に入れたいことが、と島田は声を潜めた。大事な話をするときに内緒話みたいになるのもこの世界の常識なのかしら、と由佳はどうでもいい部分について考えた。まあいいわ、とため息をつきながら由佳はオフィスの鍵を開けた。
「中で聞くわ。」
「洋二がやられました。」
「…誰に?」
「自分らが組だったころの、対抗勢力だった、隣県の組の人間にです。後ろから刺されました。昨日、葬儀を終えました。」
由佳は洋二、という男には数度しか会ったことがなかった。陽気な、下らない冗談ばかり言ってる男だった。でも任された仕事はきちんとこなす、見た目に合わない真面目さを持ってる男という印象だった。
「それで、昔の仲間に連絡を取っていろいろ調べてみたんです。やつら、俺たちがもうなにも武器を持っていないことを確認したうえで、潰しに来ようと考えているようです。」
ふー、と、由佳は目を閉じて首を揉んだ。
「汚いわね。」
ええ、汚いです、と島田も認めた。
「しかし、立場が逆なら、我々も同じことをするかもしれません。」
うーん、と由佳は考え込んだ。
「どうも私のせいみたいね。というか、完全にそうね。」
「そういうつもりでは…」
いいのよ、と、由佳は言った。
「私ちょっと、今夜にでもそいつら片付けてくるわ。」
「え?」
「だから私ちょっと、今夜にでもそいつら片付けてくるわ。」
「そんな、買物行ってくるみたいな調子で言われても…。」
買物より楽な話よ、と由佳は笑った。島田は久しぶりに背筋が寒くなるのを覚えた。そうだ、そういう人だった…。
一人でいい、と、由佳が何度言い張っても、島田はついていくと言ってきかなかった。
「俺と吉田でついて行きます。」
「なにしに来るのよ。」
「俺らがひとこと言わないと、突然とんでもない娘が事務所に来て暴れ出しても向こうはわけわからんです。戦国時代の、戦の前に叫ぶのと同じです。この戦争はこういうものだという宣言が必要なんです。」
「言い方。」
「すいません。」
まあそれも一理あるわね。
「私にその辺説明出来そうもないし。それが礼儀だってんならそうするわ。でも始まったら脇にどいて大人しくしててね。でないと巻き添え食らうわよ。」
「わ、わかりました。」
「じゃあ、あなたたちの車で行きましょうか。
「…準備します。」
島田は吉田に電話をかけ、姉さんのオフィスに車回せ、とだけ言って、切った。その様子を由佳は唇を少し尖らせて見ていた。
「最初から私が行くことを見越して来たんじゃないでしょうね。」
島田はいや、それは…、ともごもごと言い淀んだ。由佳は苦笑いをした。
「ねえ、いま私が住んでるビル、買取るとしたら幾らくらい?」
「なんですか、急に?」
襲撃に向かう車の中である。なんてのんびりしてんだ、と内心島田は思いながら、だいたいの値段を伝えた。
「じゃあ買取るから、事務所帰ったら手続してくれない?」
「そりゃあいいですけど、なんか商売でもするんですか?」
「商売はしないけど、空いてるフロアに研究所を作ろうかと思って。」
「研究所…?なんの研究です?」
「薬のね。あ、あなたたちが得意な薬じゃないわよ。」
「はぁ…。」
「それで、ある程度機材を揃えたいんだけど、そっち方面に知り合い居る?」
「いや、そういうツテは…。」
そうだろうとは思ったけど、と由佳は頷いた。
「じゃあ、買取の件だけ、よろしくね。」
「はい。」
着きましたよ、と、運転席の吉田が言った。正面につける馬鹿いるか、と島田が怒鳴り、吉田は慌ててパーキングに車を滑り込ませた。




