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千佳は、それを開いてラインに読ませてみた。間違いないわ、とラインは弾んだ声を出した。
「残されていたのね。」
「当時だったらフロッピーとかに入れてデータの方は持って行ったのかもしれないね。」
「そうかもね…何冊ある?九冊ね?少し大荷物ね…。」
なにかちょうどいい袋ないかな、と、千佳は少し研究所を探してみた。洗濯室でそこそこ大きめのランドリーバッグを見つけた。
「これにしましょう。」
やったぜ、とライン。
「なんか、仕事そっちのけで盛り上がっちゃったね。」
「本当、あなたには感謝だわ。」
じゃあ、帰るか!と千佳はバッグを持ち上げた。
数時間後、オフィスでぐったりする千佳の姿があった。分厚いファイルを九冊、ずっとぶら下げて飛んで帰って来たのだ。こんなことなら電車でも使えばよかったわ。そう思いながらコーヒーを入れた。あとは依頼人に渡すものを揃えておかなくちゃ…。
「そろそろ、前の名前捨てようかな。」
不意にそんな言葉が口をついて出る。そのままでもいいんじゃないの、とライン。
「なんかね…こないだから居心地が悪くて。昔の名前を本名みたいにしてるところが。」
「人間というのは複雑な生きものね。」
そうね、と千佳。
「でも、複雑さを面倒臭がって、単純さだけで生きていく人も居るわ。でも、そんな人って死ぬまで同じようなことを言って、同じようなことばかりして暮らしてる。複雑さときちんと向き合わなければ、本当の成長は無いんだと思うの。だから私は複雑さにはこだわっていたいかな。」
「なるほどわからん。」
いつそんな言葉覚えたのよ、と千佳は笑う。
「でも私、千佳のそういうところ結構好きよ。千佳でも由佳でもいいんじゃない。スッキリする方を選べば。」
そうね…と千佳。
「いまの件が一段落したら正式に由佳にするわ。千佳の名は遺留品と共に捨てます。」
そして千佳は宣言するかのようにマグカップを掲げ、残ったコーヒーを一気に飲み干した。乾杯、とラインも儀式的な調子で続いた。
ああ、と、依頼人は千佳が山で拾ってきたものを受け取ると、こらえ切れずに涙を流した。事件性を感じるには十分なものだと思います。千佳は、破れた制服の襟の辺りを指さした。
「ここに、血痕があります。よく見ないとわからないですが…靴の、踵の部分に残っている染みも、多分。それが千佳さんのものだということになれば、もしかしたら警察は捜査をしてくれるかもしれません。事件の可能性が限りなく高いということになりますから。」
ありがとうございます、と、依頼人は消え入りそうな声で言う。
「もしも、これをどこで見つけたのかと聞かれたら、探偵に依頼したと言ってください。そして、最初にあなたが連絡した男の番号を警察に教えてください。それでなにも問題はないはずです。」
「わかりました…ありがとうございました。本当に…。」
鈴原さん、と、千佳は呼びかけた。
「千佳さんは生きているかもしれません。もちろん生きていないかもしれません。でも、どちらの事実も証明することはいまは出来ません。楽観することは出来ないかもしれませんが、どうか悲観しないでください。これは、私の個人的な意見ですが、どうも、千佳さんはどこかで生きているような気がするんです。ただなにか理由があって、帰らないほうを選んだというような…そんな感じがするんです。そういうのって、何度も関わっていると、なんとなく感じるんですよね。そして、あまり間違ってはいない気がします。無責任な発言ではあります。でも、希望だけは失わないでください。もしも生きていれば、いつか帰って来ることもあるかもしれません。」
依頼人はぼろぼろと泣きながら何度も頭を下げ、ありがとうございましたと言い、大きなビニルバッグにまとめられた服と靴、それから学生鞄を大事そうに抱えてオフィスを出て行った。千佳は窓のそばに立ち、ビルを出ていく依頼人の背中を見えなくなるまでずっと眺めていた。彼女の姿がすっかり消えてしまうと、ねえ、と、ラインに話しかけた。
「虫って、泣かないものなのかな。」
どうかしらね、と、ラインはあえていつもの調子で答えた。
「私は虫から人の感覚を手に入れたから、感動のあまり涙を流したけど、人から虫の場合は、もしかしたら感情表現が希薄になる部分は間違いなくあるでしょうね。」
そっか、と、千佳は言った。そして、なにも見えなくなった通りを、暗くなるまでそうしてずっと眺めていた。




