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依頼人―が帰ったあと、千佳は島田に電話を入れ、一週間の仕事に決まったから次の仕事はその後に入れてくれと告げ、再びソファーへもぐるように座り込んだ。くるりと反転して窓に向かい、雑然とした余所の低いビルの屋上が並ぶ景色に降り注ぐ正午近くの太陽を黙って眺めていた。
ほぼ一年ぶりに出会った母親。随分痩せた。心労のせいだろう。けれど、なにより千佳の心を悩ませたのは、そんなことではなかった。まるで、そこには百年ほどの隔たりがあるかのように、千佳がずっと感じていたそのことだった。母親のことなどすっかり忘れていたのだ。近隣の街で行方不明者を探す仕事をすれば、いつか自分を探している母親の耳に止まるかもしれない、そんな可能性すら考えなかった。過去は千佳の中で、驚くほどあっさりと清算されていたのだ。いま人間であった過去と対峙したとき、そんな事実をどんな風に受け止めればいいのかわからなかった。ラインは空気を読んで黙っていた。もとより蜘蛛である自分に理解出来るような問題ではないのだ。虫には親は無い。生まれてから死ぬまで、繁殖以外はずっと一人で過ごす生きものなのだ。けれどそんなことを口にしたところで、千佳にとって慰めになるとは思えなかった。千佳なら多少時間を費やしても、自分できちんと消化するだろう、そんな思いもあった。結局その日は千佳はなにもしなかった。オフィスの中でずっとなにかを考えていた。
三日ほどが同じ調子で過ぎた。千佳はオフィスの中でテレビを見たり音楽を聴いたりしながら、心ここにあらず、といった様子だった。三日目にラインは一度だけ聞いた。
「大丈夫?」
大丈夫、心配しないで、と千佳は微笑んで言った。
「やる気がないわけじゃないのよ。することがないだけなの。あの山に行って、私の制服を拾ってくるくらいしかね。」
行方不明の女子高生。山に捨てられていた破れた制服。とラインは呟いた。
「警察が少しは動いてくれるかもしれないわね。」
「鞄だってあるしね…もう指紋とかは無理かもしれないけど。研究所を探してくれたりくらいはするかもしれない。あの五人の誰かを突き止めるくらいはしてくれるかもしれない。それは私にはわからない。でも、私の仕事としてはそれで十分だと思うの。」
そうね、とライン。さて、と千佳は立ち上がり大きく伸びをした。
「そろそろ、行きますか。」
数分後には千佳は姿を消して街の上空を飛んでいた。
「擬態して飛べば人目を避ける必要なんてなかったのよね。」
と千佳。なんで思いつかなかったのかしら、とライン。
「私たち、凄い間抜けみたいじゃない。」
しょうがない、と千佳。
「去年まで空なんか飛んだことなかったんだもの。」
「それもそうね。ともあれこれで、移動は格段に楽になるわ。」
仕事ももう少し増やせるかもね、とライン。減らしたいわ、と千佳。
「もう少しお金が溜まったらオフィスが入ってるビルを島田から買って、空いてるフロアに研究所を作ろうよ。」
あら、とラインは嬉しそうに言った。
「覚えていてくれたのね。」
「当り前でしょ。でもね、研究所ってなかなかお金がかかるのよ。」
「それは蜘蛛でもわかるわ。」
そんな暢気な話をしながら、二人は久しぶりに出会いの場となった研究所に降り立った。破れた制服はかろうじて原形を保っていた。千佳はそれを手袋をした手で拾い、ジッパーのついたビニール袋に入れて丁寧に閉じた。カマキリの鎌で藪を切り裂きながら周辺をもう少し探してみると、靴を見つけることも出来た。千佳はそれを少しの間懐かしそうに眺めて、同じようにビニールに入れた。そして、終了、とぽんと手を打ち、手袋を脱いだ。
「楽な仕事だったわ。」
そりゃそうだ、とライン。千佳は苦笑する。
「まさか、自分の行方を追うなんて思いもしなかったわ。」
「生きているといろいろなことが起こるものね。」
「まったく。」
折角だから少し研究所を探索していこう、ということになり、二人はあの窓を開けて懐かしい研究所に侵入した。
「ひとつ、探してみたいものがあるのよね…ここにはないかもしれないけれど。」
なにかしら、とライン。
「研究データよ。そのまま置いてある可能性だってなくはないじゃない?それがあれば、これからのあなたの研究の役にも立つじゃない?」
ラインは驚きの声を上げた。
「正直言ってそんなこと考えもしなかった。」
虫と人間の違いかしらね、と千佳は笑った。
「人間ほど過去に生きている生きものは居ないと思うわ、最近。」
深い言葉だわ、とラインが茶化す。真面目な話よ?と千佳は釘を刺す。
「父さんがよくお酒を飲んでゴキゲンになった時に…昔話ばかりしてたのよね。昔は、昔は、昔は…あの頃はよくわからなかったんだけど、こんな仕事してるいまはなんとなくわかるのよ―過去の延長でしかない現在を生きてる人がたくさん居るんだって。」
「蜘蛛にはわからない話だわ。」
「あなたたちは刹那的よね。常にいましかない。」
だけどあなたは、過去をきちんと積み重ねていまに居るわよね、と千佳。そうかな、とライン。そうよ、と千佳。
「だから私たちこうしているんじゃない?」
そう口にした千佳の手には、「重要」と記されたファイルが既に握られていた。




