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まだ姿も見えていないというのに、その存在の圧力に男は気圧されていた。男の名は島田といい、日本の裏社会でいま彼の名を知らぬものは居ないとまで言われた男だった。現代では珍しい武闘派であり、なおかつ頭も良く、機転も利いた。潜り抜けた修羅場は数知れず、殺した者も、殺されかけた数もいまでは誰も把握出来ていないほど多い―そんな男が、一人の少女に畏怖しているのだった。
(なんなんだ、なにが起こっているんだ…。)
やがて、足音が近づき、階段を降りてきた少女がこちらへと向き直った。その目は爛々と輝き、視線だけで心臓を射抜くのではないかと思わせるほどだった。最後まで影になっていた右腕がようやく見えた時、島田は目を見張った。少女の右腕の肘から先は巨大なムカデに変容しており、美味しい獲物を探しているかのようにうねり続けていた。
「な、なんなんだ、あんた…。」
質問したいのは私なんだけど、と、千佳は静かな声で言った。
「なぜ私を狙うの?ある程度想像はしてるけど。あなたから先に答えてくれた方が、きっと話がわかりやすいと思うわ。」
む、む…と島田は唸った。しかし、この少女に逆らうことは出来ないだろうことは、本能がとっくに察知していた。
「あんたとすれ違ったあの街で、あんたは人を殺しただろう…おそらくは、五人。」
少女はふっと笑って、ええ、と簡潔に答えた。
「あのリュックの中には、死体が入っていたんだろう?だけど随分小さかったな―どうやったんだ?」
こうやったのよ、と、少女は右腕のムカデを一度ぶんと振った。次の瞬間、それはカミキリムシへと変化してギチギチと歯を鳴らしていた。
「簡単なものだったわ。」
「しかし、血は…あそこに残っていた血はあまりにも少なかった。」
「体液はすべて吸い取ったわ。なかなか美味だったわよ。」
島田の身体を戦慄が駆け抜けた。少女が、まだ答えないの?という目をして島田を見ていた。島田は、ふぅ、とひとつ長い息を吐いて、渇いた声で答えた。
「その五人の中に、俺の息子が居たんだ―一番若く、一番小さいやつだ、覚えてるか―?」
あの子ね、と、千佳はクスクス笑った。
「お漏らしとかしてたわ。愉快な子だったわよ。」
島田は瞬時に怒りに支配されたが、それでも指一本動かすことが出来なかった。じゃあ今度は私が話す番ね、と千佳は右腕を自分のものに戻した。
「あ、勘違いしないでね。私の武器はこれだけじゃないから…あと九十くらいあるはずよ。三つくらいしか使ってないけどね。それだけで足りちゃうのよ、なんか。」
そう言いながら友達と話しているみたいに笑う。
「簡単に言うとね、私はバイトの帰り、あなたの息子さんたちにさらわれて、車の中で好き放題されて、首の骨が折れるまで絞められて死んで―服も着せてもらえずに山に捨てられたのよ。」
島田は今度は驚きと落胆によって大きく目を見開いた。少女が嘘を言っているかもしれないなんて考えもしなかった。
「そこにはちょっと変わった蜘蛛が居てね。私に潜り込んで、私の命になってくれたの。その蜘蛛の中には百匹の虫の遺伝子があって、その特性を私は存分に使えるというわけ。」
はあ、と、島田は大きなため息をついた。
「疑いようがないわな、あんなもん見せられちゃ。」
島田は一歩前に出た。続こうとする残った部下を制し、銃を捨て、床に頭を擦り付けて土下座をした。
「息子が酷いことをした。女子供に手を出すなんて外道のすることだ。理由を聞かずに仇扱いをして、これだけの兵隊を連れてあんたを殺そうとした俺が全面的に悪い。殺すなら殺せ。どのみち俺はあんたには敵わないだろう。」
殺しはしないわ、と千佳。
「少しだけ付け足しさせて?あなたの息子さんとお友達、そんな外道な真似を何度もしていたらしいわよ…興味があるなら調べてみるといいわ。ここから車で二時間程度の方々の街でやってたみたいよ。私、車の中に転がされてるときに全部聞いたのよ。」
島田はもう声を出すことも出来なかった。息子を殺されて、原因すら知らずに逆上せあがった自分が恥ずかしくてしょうがなかった。いっそのこと少女に歯向かって殺されてしまおうか、とさえ考えた。それでね、殺しはしないのだけど…と、千佳は島田の心境にはお構いなしで話を続けた。
「その前に自己紹介ね。私はいまは由佳と名乗っているわ。あなたは?」
「島田だ。」
島田、と千佳は復唱した。
「ええとね、話せば長くなるのだけど、とりあえず、小さなオフィスをひとつ用意出来るかしら、島田さん?」




