第84話 名誉を買う者
ヴァルグレイン侯爵領は、人間王国西方の丘陵地帯にあった。
緩やかな丘。
整えられた葡萄畑。
古い石造りの屋敷。
街道沿いには、侯爵家の紋章を刻んだ道標が立っている。
豊かな領地だった。
邪神戦争の被害も、他地域と比べれば軽い。
それでも、領内の街道には補修の跡があり、橋の石には新しい継ぎ目が見えた。
世界はどこも、無傷ではなかった。
セレスティア、ルシェル、ミレーヌ、白樹の森の記録官二名、人間王国の老記録官一名は、侯爵家の屋敷前に降り立った。
迎えに出たのは、ヴァルグレイン侯爵本人ではなかった。
昨日の使者でもない。
執事服を着た老年の男が、深く頭を下げる。
「ようこそお越しくださいました。剣神セレスティア様、ルシェル殿下、ミレーヌ殿下」
セレスティアは静かに言った。
「セレスティアで構いません」
老執事は一瞬だけ戸惑い、すぐに頭を下げ直した。
「失礼いたしました。セレスティア様」
ルシェルが淡々と聞く。
「侯爵は」
「応接室にてお待ちでございます」
「原本は」
「記録庫にて保管しております」
「先に記録庫を確認します」
老執事の表情が、わずかに揺れた。
「先に、侯爵よりご挨拶を」
「調査が先です」
ルシェルの声は静かだった。
だが、譲らない。
「死者名簿追加申請の確認に来ています。礼式訪問ではありません」
「……承知いたしました」
屋敷の中へ入る。
豪奢だった。
壁には祖先の肖像画。
廊下には古い剣。
石柱には一族の功績が彫られている。
何代目の侯爵がどの戦で功を挙げたか。
何代目の侯爵が橋を架けたか。
何代目の侯爵が王都へ穀物を納めたか。
そのすべてが、丁寧に残されていた。
ミレーヌが小さく言った。
「記録に熱心な家なのですね」
ルシェルは廊下の碑文を見ながら答えた。
「ええ」
「よいことでは」
「本来は」
セレスティアは、黙っていた。
記録は大切だ。
死者の名を残すことも、家の歴史を残すことも、否定されるものではない。
だが、記録は飾りになる。
飾りは権威になる。
権威は欲を呼ぶ。
廊下の奥に、厳重な扉があった。
ヴァルグレイン侯爵家記録庫。
扉の上に、そう刻まれていた。
老執事が鍵を出す。
だが、手が少し震えている。
ルシェルは、その手を見た。
「大丈夫ですか」
「年のせいでございます」
「そうですか」
鍵が回る。
扉が開いた。
中は、よく整えられた記録庫だった。
棚ごとに分類されている。
家系記録。
領地管理記録。
納税記録。
婚姻記録。
従軍記録。
功績記録。
そして、戦争記録。
湿度管理用の石壺も置かれている。
紙の保存状態も悪くない。
ルシェルは一目見て、記録庫そのものの管理水準が高いと判断した。
だからこそ、偽造があれば目立つ。
「申請資料の原本を」
老執事は、一番奥の棚へ向かった。
戦争記録棚。
そこから、革表紙の古い帳面を取り出す。
「こちらでございます」
ルシェルは、直接触れなかった。
まず記録官に手袋をつけさせる。
人間王国の老記録官が、慎重に帳面を受け取った。
机へ置く。
光石を調整する。
ルシェルは、ページを開いた。
そこに、エルディオ・ヴァルグレインの名があった。
南方砂漠補助陣地第三支援列。
封印補助副監。
アルメリア街道南端にて戦死。
昨日見た写しと同じ文言。
ルシェルは、しばらくそのページを見た。
紙は古い。
革表紙も古い。
だが、問題はそこではない。
墨だ。
該当箇所だけ、墨の沈み方が違う。
周囲の文字は、紙の繊維に深く馴染み、時を経て薄く褪せている。
しかし、エルディオ・ヴァルグレインの項目だけ、褪せ方が浅い。
同じ古い紙に、後から書かれたように見える。
ルシェルは、隣の老記録官へ視線を送った。
老記録官も同じ箇所を見ていた。
顔が険しい。
「光を横から」
「はい」
記録官が光石を低く置く。
斜めの光で、紙の表面が浮かび上がった。
該当箇所には、微細な削り跡があった。
元の文字を削り、上から新たな文字を書いた痕跡。
ミレーヌが息を呑む。
「削っているのですか」
ルシェルは静かに答えた。
「その可能性が高いです」
老執事の顔が青ざめる。
「そのような」
ルシェルは、さらにページの綴じ目を見る。
古い帳面の中で、この一枚だけ糸の締まりがわずかに違う。
「このページは、一度外されています」
老記録官が頷いた。
「綴じ直しの跡があります」
「いつ頃か分かりますか」
「正確には鑑定が必要ですが、少なくとも七十年前のままではありません」
ルシェルは次に、帳面の前後を確認した。
前のページは穀物徴発の記録。
後ろのページは負傷者搬送の記録。
どちらも七十年前の用語で書かれている。
だが、問題のページだけ、用語が後代のものになっている。
あまりにも不自然だった。
セレスティアは、静かに帳面を見ていた。
剣は鳴らない。
外理ではない。
邪ではない。
人の欲だ。
だからこそ、嫌な重さがあった。
ルシェルは老執事へ問う。
「この帳面を最後に修復したのはいつですか」
「十年ほど前に、表紙の補修を」
「該当ページの修復は」
「記録には、ございません」
「記録庫の入室記録は」
「ございます」
「出してください」
老執事は、別の棚から入室記録を出した。
ルシェルは、過去十年分を確認する。
侯爵本人。
長男。
家令。
記録係。
外部写字師。
数名の名が並ぶ。
その中で、三年前にひときわ長い滞在記録があった。
ヴァルグレイン侯爵。
記録係マドック。
外部写字師カレン。
戦争記録棚整理。
滞在時間、六時間。
ルシェルが指を止める。
「この日の作業記録を」
老執事は、少し遅れて別紙を出した。
戦争記録棚整理。
古文書の虫干し。
表紙の清掃。
索引作成。
その程度しか書かれていない。
ルシェルは、その紙を置いた。
「記録係マドックと外部写字師カレンは、現在どこに」
老執事は答えに詰まった。
「マドックは、昨年病で亡くなりました」
「カレンは」
「退職しております」
「所在は」
「存じません」
ルシェルは静かに記録した。
ミレーヌの顔が曇る。
都合がよすぎる。
死者と所在不明者。
セレスティアは、ようやく口を開いた。
「ヴァルグレイン侯爵に会いましょう」
老執事は、深く頭を下げた。
「承知いたしました」
応接室。
ヴァルグレイン侯爵は、銀髪の痩せた男だった。
年は人間としては高齢。
背筋はまっすぐで、目には貴族らしい矜持がある。
セレスティアたちが入ると、侯爵は深く礼をした。
「剣神セレスティア様、ならびに白樹の森の皆様。遠路お越しいただき、光栄に存じます」
セレスティアは静かに言った。
「セレスティアです」
「失礼いたしました」
侯爵は微笑んだ。
その笑みは整っていた。
だが、心は見えない。
王侯貴族の笑みだった。
ルシェルが前に出る。
「記録を確認しました」
「ありがとうございます」
「複数の疑義があります」
侯爵の笑みが、わずかに浅くなった。
「疑義」
「はい」
「当家の記録にですか」
「はい」
ルシェルは一つずつ示した。
支援列という後代呼称。
アルメリア街道という後代地名。
封印補助副監という後代役職。
該当箇所の墨の新しさ。
紙面の削り跡。
ページの綴じ直し。
三年前の不自然な長時間作業。
記録係の死亡。
外部写字師の所在不明。
侯爵は、黙って聞いていた。
最後まで聞いた後、静かに言った。
「記録というものは、時を経れば乱れるものです」
ルシェルは答えた。
「乱れます」
「写しの際、後代の者が分かりやすい言葉へ置き換えることもある」
「あります」
「古い紙を補修する際、墨を入れ直すこともある」
「あります」
「ならば、それをもって偽造と断じるのは早計では」
ルシェルは、少しも動じなかった。
「偽造とはまだ断じていません」
「では」
「だから調査しています」
侯爵の目が、少しだけ細くなる。
「我が家は、王国西方を支えてきた家です」
「はい」
「邪神戦争でも、多くの物資を出した」
「その記録はあります」
「ならば、我が祖が封印補助に関わったとしても、不自然ではないでしょう」
「可能性としてはあります」
「では、名誉回復を」
「証拠が必要です」
侯爵の声が硬くなった。
「記録があります」
「疑義のある記録です」
「家伝もあります」
「家伝は参考記録です。確定記録ではありません」
「剣神様の御前で、我が家の忠義を疑うのですか」
部屋の空気が冷えた。
セレスティアは、静かに侯爵を見た。
昨日の使者と同じ言い方だった。
剣神の御前。
その言葉で、圧をかける。
剣神の前だから、忠義を疑うな。
剣神の前だから、名誉を認めろ。
剣神の前だから、記録に加えろ。
セレスティアは言った。
「わたくしの御前だからこそ、証拠が必要です」
侯爵は、口を閉じた。
セレスティアは続けた。
「あなたの家の忠義を否定しているのではありません」
「……」
「あなたの祖が戦った可能性を否定しているのでもありません」
「では」
「ただ、未判明者の場所へ、証拠なく名を入れることはできないと言っています」
侯爵は、膝の上で手を握った。
「七十年です」
その声に、少し感情が混じった。
「七十年、我が家は忘れられてきた」
ルシェルが言う。
「忘れられていたのですか」
「そうです」
「誰に」
「世界に」
「世界に、ですか」
侯爵は、声を強めた。
「邪神戦争で、我が家は財を出し、人を出し、物資を送った。だが、名を残したのは三賢者や王家、精霊に近い者ばかり」
ミレーヌの表情が変わった。
侯爵は続ける。
「戦後、誰が領地を立て直したと思っているのです。誰が街道を整え、誰が穀物を運び、誰が民を食わせたと思っているのです」
「それは記録されています」
ルシェルが答える。
侯爵は首を振った。
「足りない」
その一言で、部屋の空気が変わった。
足りない。
それが本音だった。
記録はある。
功績もある。
だが、邪神戦争の中心ではない。
石碑の中央には立てない。
剣神の物語には入れない。
死者名簿に名がない。
だから、足りない。
セレスティアは、静かに言った。
「名誉を買いたかったのですか」
侯爵は、セレスティアを見た。
「買うなど」
「では、足したかったのですか」
「……」
「自家の記録へ、死者の名を」
侯爵は答えなかった。
セレスティアは続けた。
「あなたの家が復興に尽くしたことは、記録されるべきです」
「はい」
「物資を出したことも」
「はい」
「街道を整えたことも」
「はい」
「民を食わせたことも」
「はい」
「それは、邪神戦争後の復興記録に正しく残すべきです」
侯爵の表情がわずかに揺れる。
「ですが」
セレスティアの声は静かだった。
「それは、封印補助者として死んだ者の名を作る理由にはなりません」
侯爵は、深く息を吐いた。
「分かっておられない」
ルシェルが眉を寄せる。
侯爵は、静かに笑った。
「剣神セレスティア。あなたは神だ」
「はい」
「神は、名を必要としない」
「違います」
セレスティアは即答した。
侯爵が一瞬止まる。
「違う?」
「神にも名は必要です」
セレスティアは言った。
「ただし、神名は家名ではありません」
「……」
「わたくしは、真神格を得た時点で、剣神としては家名に属しません」
「アルヴァレインではないと」
「出生は、セレスティア・リュミエール・アルヴァレインです」
「はい」
「ですが、剣神としては、ただのセレスティア。あるいは、剣神セレスティアです」
侯爵は黙っている。
「剣神は、アルヴァレイン王家の所有物ではありません」
「……」
「王権の源泉でもありません」
「……」
「家名の飾りでもありません」
セレスティアは、侯爵を見た。
「死者の名も同じです」
その言葉に、侯爵の顔がこわばった。
「死者の名は、家の飾りではありません」
沈黙が落ちた。
ミレーヌは、死者名簿を胸に抱いていた。
ルシェルは、記録板に筆を置いたまま、侯爵を見ている。
侯爵は、しばらくして言った。
「我が家の名は、軽いものではない」
セレスティアは頷いた。
「軽くありません」
「ならば」
「だからこそ、偽ってはいけません」
侯爵の肩が震えた。
怒りか。
悔しさか。
それとも、恐れか。
老執事が部屋の隅で目を伏せている。
何かを知っている顔だった。
ルシェルが言った。
「原本は、詳細鑑定のため一時預かります」
侯爵が顔を上げる。
「家伝を持ち出すのですか」
「死者名簿追加申請の根拠資料です」
「それは」
「世界連合の審査対象です」
侯爵は唇を引き結んだ。
「拒否した場合は」
「申請は却下します」
ルシェルは淡々と答えた。
「さらに、偽造疑いの資料を根拠に死者名簿追加申請を行った件として、世界連合及び人間王国へ正式報告します」
侯爵は沈黙した。
やがて、低い声で言った。
「持って行きなさい」
「ありがとうございます」
ルシェルは記録官へ指示した。
帳面は封印袋へ入れられた。
白樹の森、人間王国、ヴァルグレイン侯爵家の三者封印。
開封は正式鑑定時のみ。
手続きは完璧だった。
帰り際。
老執事が、セレスティアたちを玄関まで送った。
その足取りは重かった。
屋敷の外で、老執事が小さく言った。
「セレスティア様」
「はい」
「私は、エルディオ様という方を知りません」
ルシェルが足を止めた。
老執事は、顔を伏せたまま続けた。
「幼い頃より、この家の記録庫におりました」
「はい」
「先々代、先代、今の侯爵様の記録を見てまいりました」
「はい」
「エルディオ・ヴァルグレインという名を、私は三年前まで見たことがありません」
ミレーヌが息を呑む。
ルシェルは、すぐ記録した。
「三年前」
「はい」
「その日、侯爵様とマドック、そして外部の写字師が記録庫に入りました」
「はい」
「私は外されました」
「なぜ」
「戦争記録棚の整理に若い手が必要だと」
老執事は、震える手を握った。
「その後、エルディオ様の名が家の古い話に加わりました」
「あなたは、それを誰かに伝えましたか」
「伝えられませんでした」
「なぜ」
「私は、この家に仕える者です」
その言葉は重かった。
忠義。
沈黙。
恐れ。
家を守ることと、記録を守ることの間で、この老人は三年揺れていたのだろう。
セレスティアは、静かに言った。
「今、話してくださいました」
老執事の肩が震えた。
「遅すぎました」
「いいえ」
セレスティアは首を横に振る。
「死者の名を守るために、今話したのです」
老執事は、深く頭を下げた。
「どうか、あの名を石に刻まないでください」
「はい」
「本当に死んだ者が、別にいるはずです」
「はい」
「その場所を、奪わないでください」
ミレーヌが涙をこらえながら頷いた。
「奪いません」
ルシェルも言った。
「記録します」
老執事は、静かに涙を落とした。
白樹の森へ戻る転移陣の前で、セレスティアは屋敷を振り返った。
美しい屋敷。
長い歴史。
多くの功績。
それでも、人は足りないと思う。
もっと名を。
もっと石碑を。
もっと中心を。
その欲が、未判明死者の場所へ手を伸ばす。
黒星が低く鳴った。
『斬るか』
「まだです」
閃白が言う。
『濁りは濃い』
「はい」
解白が淡く告げる。
『死者名簿改竄疑い、強』
「はい」
セレスティアは、ルシェルを見た。
「次は」
ルシェルは封印袋を抱えていた。
「鑑定です」
「はい」
「そして、記録で斬ります」
セレスティアは頷いた。
「お願いします」
白い転移光が開く。
その中で、ミレーヌが死者名簿を抱きしめていた。
「お姉様」
「はい」
「未判明の欄は、空欄ではないのですね」
「はい」
「そこには、まだ名を呼ばれていない誰かがいる」
「はい」
「なら、守らないと」
「はい」
セレスティアは、静かに答えた。
「必ず守ります」
白樹の森へ戻った後、正式鑑定が始まった。
紙の繊維。
墨の成分。
削り跡。
綴じ糸。
筆跡。
当時の地名。
役職名。
補給線。
南方砂漠補助陣地の配置。
すべてが照合される。
そして、ルシェルは一枚の報告書を書き始めた。
表題は短かった。
ヴァルグレイン侯爵家提出資料に関する記録鑑定報告。
その下に、最初の一文が書かれる。
本資料は、七十年前の死者を記録したものではない可能性が極めて高い。
ルシェルの筆は止まらなかった。




