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神剣のセレスティア  作者: 玉響すばる


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第85話 ルシェル、記録を斬る

 白樹の森の記録室は、朝から静まり返っていた。


 机の上には、ヴァルグレイン侯爵家から預かった古い帳面が置かれている。


 帳面は三重の封印袋から取り出され、白樹の森、人間王国、ヴァルグレイン侯爵家、それぞれの封蝋が確認された。


 立ち会う者は限られていた。


 白樹の森の王。


 王妃エルフィリア。


 セレスティア。


 ミレーヌ。


 ルシェル。


 人間王国の老記録官。


 白樹の森の記録官二名。


 そして、ヴァルグレイン侯爵家からは、老執事が一人。


 侯爵本人は来なかった。


 体調不良を理由に、代理として家令を出すという話もあったが、ルシェルが拒否した。


 資料鑑定に必要なのは、侯爵家の弁明ではない。


 資料そのものだった。


 ルシェル・クラルテ・アルヴァレインは、記録板を机の脇に置いた。


 今日は、いつもの記録板だけではない。


 紙質鑑定用の薄刃。


 墨成分を見るための精霊水。


 繊維を浮かび上がらせる光石。


 筆跡を照合するための透明板。


 南方砂漠補助陣地の既存記録。


 七十年前の地名一覧。


 戦後復興期の役職名簿。


 補給制度改革前後の用語表。


 すべてが並べられている。


 セレスティアは、少し離れた場所に立っていた。


 黒星、閃白、解白は静かだ。


 ここは戦場ではない。


 だが、刃はある。


 紙の上に。


 文字の中に。


 記録の矛盾の中に。


 ルシェルが、静かに言った。


「鑑定を始めます」


 人間王国の老記録官が頷いた。


「確認します」


 まず、帳面の全体確認から始まった。


 革表紙は古い。


 七十年前のものとして矛盾はない。


 糸も、基礎部分は古い。


 だが、問題のページ周辺だけ、綴じ糸の張りが違う。


 ルシェルは光石を斜めに置いた。


 紙面の凹凸が浮かび上がる。


「該当ページの綴じ直し跡を確認」


 記録官が書く。


「綴じ穴周辺に新しい圧痕あり」


 老記録官が目を細めた。


「一度抜いて戻した跡です」


「同意します」


 ルシェルは、問題のページを慎重に開いた。


 エルディオ・ヴァルグレイン。


 南方砂漠補助陣地第三支援列。


 封印補助副監。


 アルメリア街道南端にて戦死。


 その文字は整っている。


 貴族家の記録にふさわしい、読みやすい字だった。


 だが、それが逆に不自然だった。


 七十年前の戦時記録は、もっと荒い。


 現場で書かれたものは、急いだ筆跡になる。


 補給記録、死者記録、負傷者搬送記録は、整える余裕がなかった。


 ルシェルは、該当箇所の周囲を指した。


「この一段だけ、筆跡が違います」


 ミレーヌが息を詰める。


 人間王国の老記録官は、別紙を出した。


「同じ帳面の他ページと比較します」


 透明板が置かれる。


 七十年前の元の筆跡。


 問題の文字。


 筆の入り、止め、払い、曲がり。


 いくつも重ねる。


 違う。


 明らかに違う。


 ルシェルは淡々と言った。


「該当箇所は、同帳面の主要筆記者と異なる筆跡です」


 記録官が書く。


「確認」


 次に、墨の鑑定へ移る。


 精霊水を極少量、文字の端に触れさせる。


 古い墨は紙に深く沈んでいる。


 七十年を経た墨は、精霊水に触れても大きく動かない。


 だが、問題の文字は違った。


 ほんのわずかに色が浮いた。


 老記録官が眉を寄せる。


「新しい」


 ルシェルが言った。


「七十年前の墨ではありません」


 セレスティアは、静かに帳面を見ていた。


 紙は古い。


 帳面も古い。


 だが、そこへ後から名が入れられた。


 古い場所へ、新しい欲が差し込まれている。


 それが、目の前に見えていた。


 次に紙面の削り跡を確認する。


 光石を低くする。


 問題の文字の下に、かすかな横筋が見える。


 削った跡。


 以前そこに何かが書かれていた可能性がある。


 ミレーヌが小さく言った。


「もともとは、何が書かれていたのでしょう」


 ルシェルは答えた。


「完全には分かりません」


「分からない」


「はい」


「でも、何かを消している」


「その可能性が高いです」


 ミレーヌは、死者名簿を抱きしめた。


「そこにも、誰かがいたかもしれないのですね」


「はい」


 ルシェルの声は、わずかに低くなった。


「その可能性があります」


 記録室に、重い沈黙が落ちた。


 偽名を加えただけではない。


 元の何かを消したかもしれない。


 それは、さらに重い。


 死者の場所を奪っただけでなく、別の記録を削った可能性がある。


 王妃エルフィリアが静かに言った。


「続けなさい」


「はい」


 ルシェルは、次に用語の照合へ移った。


 まず、第三支援列。


 七十年前の南方砂漠補助陣地記録では、支援列という呼称は一例もない。


 当時は第三支援班。


 支援列という言葉が公的に使われるのは、戦後四十年後の補給制度改革以降。


 次に、封印補助副監。


 この役職も七十年前にはない。


 戦後復興管理期、封印地外縁の保全作業で設置された役職である。


 次に、アルメリア街道。


 七十年前は存在しない。


 邪神戦争後、南砂第二補給路を再整備した際に命名された街道名。


 ルシェルは、三つの表を並べた。


「所属名、役職名、地名の全てが後代のものです」


 人間王国の老記録官が頷いた。


「偶然ではありません」


 ルシェルは言った。


「この記録は、七十年前の現場記録ではありません」


 白樹の森の記録官が筆を走らせる。


「確認」


 老執事が震えながら立っていた。


 顔は青い。


 だが、逃げない。


 彼は三年間沈黙した。


 だが今、記録室に立っている。


 ルシェルは、老執事へ視線を向けた。


「証言を確認します」


「はい」


「あなたは三年前以前、エルディオ・ヴァルグレインという名を侯爵家の戦争記録内で見たことがありませんでしたね」


「はい」


「三年前、侯爵、記録係マドック、外部写字師カレンが記録庫に入り、あなたは外されましたね」


「はい」


「その後、エルディオ・ヴァルグレインの名が家の古い話に加わった」


「はい」


「その証言に間違いはありませんか」


「ありません」


 老執事の声は震えていた。


 しかし、はっきりしていた。


 ルシェルは頷いた。


「記録しました」


 老執事は深く頭を下げた。


 次に、ヴァルグレイン侯爵家の家系記録を照合する。


 エルディオ・ヴァルグレイン。


 その名は、三年前以前の家系図にはない。


 だが、近年作られた家系図写しには加えられている。


 位置は、侯爵の曾祖父の弟。


 戦死したため直系ではない。


 しかし、名誉ある戦死者として家系に加えるには都合がよい位置だった。


 ルシェルは、淡々と記録した。


「三年前以降の家系図写しに、エルディオ・ヴァルグレインの名を確認」


「三年前以前の家系図には確認できず」


「家系挿入の可能性あり」


 ミレーヌが苦しそうに言った。


「名前を作ったのですか」


 ルシェルは答えた。


「断定はまだしません」


「まだ」


「はい」


「でも」


「ですが、既存資料上、三年前以前の存在確認はできません」


 セレスティアは、目を閉じた。


 未判明者の欄。


 そこに、まだ名を呼ばれていない誰かがいる。


 そこへ、三年前に作られたかもしれない名が差し込まれようとしている。


 そのことが、静かに胸を刺した。


 鑑定は半日続いた。


 紙の古さ。


 墨の新しさ。


 綴じ直し。


 削り跡。


 筆跡不一致。


 後代用語。


 家系図への後年追加。


 関係者の死亡と所在不明。


 老執事の証言。


 既存の南方砂漠補助陣地記録との不一致。


 それらが、積み上がっていく。


 夕刻。


 ルシェルは、鑑定結果をまとめた報告書を王の前に置いた。


 表題。


 ヴァルグレイン侯爵家提出資料に関する記録鑑定報告。


 その下に、結論が書かれていた。


 本資料は、七十年前の死者を記録した原資料ではない。


 該当箇所は後年に書き加えられた可能性が極めて高い。


 エルディオ・ヴァルグレインの存在及び南方砂漠補助陣地における戦死は、現時点で確認できない。


 したがって、同名を邪神戦争死者名簿及び記録碑へ追加することは不可とする。


 王は、静かにそれを読んだ。


 王妃も隣で目を通す。


 セレスティアは報告書を見つめていた。


 ルシェルは言った。


「この報告書を世界連合及び人間王国へ提出します」


 王が頷く。


「よい」


「同時に、偽造疑いとして調査を継続します」


「必要だ」


「ヴァルグレイン侯爵家の復興支援事業参加についても、一時停止が妥当です」


 王は少し考えた。


「人間王国側と協議する」


「はい」


 人間王国の老記録官が、苦い顔で言った。


「王国記録局としても、厳しく扱わねばなりません」


 王が問う。


「王国側の見解は」


「死者名簿への不正申請は、単なる家伝整理の誤りでは済みません」


 老記録官は、机の上の帳面を見た。


「しかも、元の文字を削っている可能性がある」


 その声には怒りがあった。


「これは、死者の名を足したのではない。死者の場所を削った可能性がある」


 ミレーヌが、目を伏せた。


 セレスティアが静かに言った。


「元の文字を復元できますか」


 ルシェルは首を横に振った。


「完全には難しいです」


「では」


「削られた箇所として記録します」


「削られた箇所」


「はい」


 ルシェルは、問題のページを見た。


「何が書かれていたか不明」


「はい」


「ただし、そこに何かがあった可能性がある」


「はい」


「それを、不明として記録します」


 セレスティアは頷いた。


「それがよいです」


 分からないものは、分からないまま守る。


 それは、死者名簿の原則だった。


 削られた記録も同じだ。


 無理に復元したことにしない。


 都合のよい名を入れない。


 削られた。


 不明。


 探索継続対象。


 忘却せず。


 それで守る。


 翌日。


 白樹の森の大広間に、世界連合の臨時会議が開かれた。


 議題は、ヴァルグレイン侯爵家提出資料に関する記録鑑定報告。


 人間王国の代表。


 海の巫女。


 ドワーフ代表。


 竜の谷の使い。


 草原諸族の族長。


 山の隠れ里の長。


 そして、白樹の森の王族。


 セレスティアも出席していた。


 ただし、席は王の隣ではない。


 記録机の近くに座っている。


 剣神として裁くためではない。


 見届けるためだった。


 ルシェルが中央に立つ。


 手には鑑定報告書。


 大広間は静かだった。


「報告します」


 ルシェルの声が響いた。


「ヴァルグレイン侯爵家より提出された、エルディオ・ヴァルグレインの死者名簿追加申請について、資料鑑定を行いました」


 全員が聞いている。


「結論から述べます」


 ルシェルは、まっすぐ前を見た。


「提出資料は、七十年前の死者を記録した原資料ではありません」


 大広間がざわついた。


 人間王国の代表は、苦い顔で目を伏せた。


 ルシェルは続ける。


「該当箇所は、後年に書き加えられた可能性が極めて高い」


「根拠を示します」


 ルシェルは、一つずつ並べた。


 紙面の削り跡。


 綴じ直し。


 墨の新しさ。


 筆跡の不一致。


 後代の所属名。


 後代の地名。


 後代の役職名。


 三年前の記録庫作業。


 関係者の死亡と所在不明。


 老執事の証言。


 三年前以前の家系図に名がないこと。


 南方砂漠補助陣地の既存記録と一致しないこと。


 大広間の空気は、説明が進むほど重くなっていった。


 ルシェルは、最後に透明板を掲げた。


 問題の文字と、七十年前の筆跡を重ねたもの。


 誰が見ても違う。


 記録に詳しくない者でも分かるほどだった。


「以上により」


 ルシェルは言った。


「エルディオ・ヴァルグレインを、邪神戦争死者名簿及び記録碑へ追加することは不可と判断します」


 ドワーフ代表が低く言った。


「偽造か」


 ルシェルは答えた。


「偽造疑いは極めて強いです」


「断言しねぇのか」


「関与者の尋問と追加調査が必要です」


 ドワーフ代表は、少し笑った。


「記録官らしい」


「はい」


 海の巫女が言った。


「削られた元の記録は」


「不明です」


「復元は」


「現時点では不可能です」


「では、どう記録するのですか」


 ルシェルは、用意していた紙を読み上げた。


「ヴァルグレイン侯爵家戦争記録帳、該当箇所」


「元記載不明」


「後年削除痕あり」


「エルディオ・ヴァルグレインの名は後年追記疑い」


「削除された可能性のある元記載については探索継続対象」


「忘却せず」


 その最後の一文で、ミレーヌが小さく頷いた。


 忘却せず。


 削られても。


 消されても。


 何があったか分からなくても。


 分からないという形で守る。


 竜の使いが低く言った。


「これが必要だ」


 草原の族長も頷いた。


「死者の場所を空き地にしないためだな」


「はい」


 ルシェルは答えた。


「未判明とは、空欄ではありません」


 その言葉は、セレスティアが言ったものでもあった。


 だが、今はルシェルが言った。


 記録官として。


「未判明は、まだ名を取り戻せていない者の場所です」


「はい」


「そこへ証拠なく名を入れることは、死者の場所を奪う行為です」


 大広間は静かだった。


 人間王国の代表が立ち上がった。


「王国として、ヴァルグレイン侯爵家への調査を開始します」


 王が頷く。


「世界連合も協力する」


「はい」


「復興支援事業への参加は」


「一時停止します」


「妥当だ」


 海の巫女が言う。


「死者名簿追加申請手続も見直すべきです」


 ルシェルは頷いた。


「提案があります」


 王が促す。


「述べよ」


 ルシェルは、別紙を広げた。


「死者名簿追加申請に関する改定案です」


 大広間の視線が集まる。


「第一に、家伝のみを根拠とする追加は不可」


「第二に、原資料の提出または現地確認を必須とする」


「第三に、後代写しの場合は、用語、地名、役職名の時代照合を行う」


「第四に、未判明者欄への追加は、既存未判明記録との整合性を確認する」


「第五に、削除痕、改竄痕がある場合、その箇所は不明記録として保全する」


「第六に、政治的利益、復興事業参加、爵位昇格、記録碑掲載を目的とする申請については、審査を厳格化する」


「第七に、偽造または改竄が確認された資料は破棄せず、偽造事例として保存する」


 ドワーフ代表が腕を組む。


「破棄しないのか」


「はい」


「なぜ」


「同じ手口を防ぐためです」


 ルシェルは即答した。


「偽造資料も、偽造事例として記録する価値があります」


 セレスティアは、それを聞いて深く頷いた。


 悪をなかったことにしない。


 それも記録だ。


 王が問う。


「異議は」


 人間王国の代表が言う。


「王国としては、貴族家の私的記録に踏み込むことになるため、調整が必要です」


 ルシェルは頷いた。


「承知しています」


「しかし、死者名簿への追加申請を行う以上、審査対象となるのは当然です」


「その通りです」


「王国は基本方針に同意します」


 海の巫女も言う。


「海の民も同意します」


 竜の使いが頷く。


「竜の谷も」


 草原の族長が言う。


「草原もだ」


 ドワーフ代表が鼻を鳴らした。


「グランガルドも同意だ。死者の名を盛る奴は信用ならん」


 山の隠れ里の長も頷いた。


「同意」


 王が言った。


「改定案を承認する」


 ルシェルは、深く頭を下げた。


「ありがとうございます」


 その時、人間王国の代表がセレスティアへ向き直った。


「剣神セレスティア」


 セレスティアは静かに見た。


「はい」


「この件について、王国内の一部では、神罰を望む声が出るかもしれません」


 大広間が静まる。


「死者の名を偽った者へ、剣神の罰を、と」


 セレスティアは、しばらく黙った。


 黒星も、閃白も、解白も静かだった。


 やがて、セレスティアは口を開いた。


「わたくしは怒っています」


 その声は静かだった。


「ですが、神罰は下しません」


 人間王国の代表が目を伏せる。


「これは、世界の記録制度を汚した罪です」


「はい」


「死者の名簿を利用しようとした罪です」


「はい」


「ならば、世界の法と記録で裁くべきです」


 大広間の者たちは、静かに聞いていた。


「わたくしが斬るべきものは、死者の眠りを汚す外理や、魂の座を侵す力です」


「はい」


「生者の欲を、怒りに任せて斬ることではありません」


「はい」


「記録で明らかにし、法で裁いてください」


 ルシェルが、少しだけセレスティアを見る。


 セレスティアもルシェルを見た。


「今回、刃を持つのはルシェルです」


 ルシェルは、静かに頭を下げた。


「記録で斬ります」


 セレスティアは頷いた。


「お願いします」


 その言葉は、大広間に深く残った。


 剣神は、神罰を下さない。


 記録官が、記録で斬る。


 それが、戦後の世界の在り方だった。


 会議が終わった後、白樹の森から正式通達が出された。


 ヴァルグレイン侯爵家提出資料は、死者名簿追加根拠として不適格。


 エルディオ・ヴァルグレインの死者名簿追加は不可。


 該当資料は、改竄疑い資料として保全。


 削除痕のある元記載は不明記録として扱い、探索継続対象とする。


 死者名簿追加申請手続を改定。


 偽造、改竄疑い資料は破棄せず、再発防止資料として保存。


 生者の罪は、法と記録で裁く。


 剣神セレスティアは、神罰を下さない。


 その通達は、各地の記録所へ送られた。


 そして、グランガルドにも届いた。


 ゴルド・ガルガンドは、通達を読み、鼻を鳴らした。


「ルシェルの坊主、やるじゃねぇか」


 バルドが隣で読んでいる。


「記録で斬る、ですか」


「ああ」


「父上、看板を更新しますか」


「当然だ」


 バルドは筆を取った。


「文言は」


 ゴルドは少しも迷わず言った。


「死者の名を盛るな」


「はい」


「家名の飾りにするな」


「はい」


「分からん名は分からんまま探せ」


「はい」


「バカ姫は神罰を下さない」


「はい」


「記録官が斬る」


 バルドは、少しだけ笑った。


「今回はルシェル殿下の看板ですね」


「たまにはいい」


 看板が更新された。


 グランガルド工房前。


 新しい文字が、炉の煤に少し汚れながら掲げられる。


 死者の名を盛るな。


 家名の飾りにするな。


 分からん名は分からんまま探せ。


 バカ姫は神罰を下さない。


 記録官が斬る。


 弟子の一人が、それを読んで言った。


「親方、これはかなり真面目です」


 ゴルドは鼻を鳴らした。


「真面目な時もある」


 バルドが静かに言う。


「父上にしては、ですが」


「聞こえてるぞ」


「聞こえるように言いました」


 その頃、白樹の森の食堂。


 セレスティアは夕食の席にいた。


 大広間での会議を終え、通達も出し、ルシェルはようやく記録板を置いて食事をしていた。


 ミレーヌは、少し安心した顔をしている。


 王は静かに茶を飲み、王妃エルフィリアは全員の皿を確認していた。


 セレスティアの皿には、いつも通り干し肉があった。


 セレスティアは、それを見てからルシェルを見た。


「ルシェル」


「はい、姉上」


「今日は、あなたが斬りましたね」


 ルシェルは少し驚いた顔をした。


 そして、静かに言った。


「まだです」


「まだ」


「鑑定では斬りました」


「はい」


「ですが、罪を確定し、死者の場所を守り、制度を直して初めて終わります」


 セレスティアは、微笑んだ。


「頼もしいです」


 ルシェルは少し照れたように目を伏せた。


 ミレーヌが言った。


「記録官が斬る、ですね」


 セレスティアは首を傾げる。


「その言い方は」


 その時、グランガルドから通信が入った。


 バルドの声だった。


「セレスティア様」


「はい」


「父上が看板を更新しました」


 セレスティアは、嫌な予感がした。


「読み上げなくても」


 ゴルドの声が割り込む。


「読むぞ」


「親方」


 ゴルドは読み上げた。


「死者の名を盛るな」


「家名の飾りにするな」


「分からん名は分からんまま探せ」


「バカ姫は神罰を下さない」


「記録官が斬る」


 食堂が静まった。


 ルシェルが、少しだけ目を見開いた。


 ミレーヌは嬉しそうに笑った。


 王妃は微笑んだ。


 王は、珍しく声を出さずに笑った。


 セレスティアは、額に手を当てた。


「親方」


「何だ」


「わたくしの名前を入れなくても」


「バカ姫は必要だ」


「なぜ」


「看板だからだ」


 セレスティアは、返す言葉を失った。


 ルシェルは、静かに言った。


「記録官が斬る、ですか」


 ゴルドが答える。


「ああ」


「ありがとうございます」


「礼はいい。斬れ」


「はい」


 ルシェルは、深く頷いた。


 通信が切れる。


 セレスティアは、干し肉を手に取った。


 噛む。


 硬い。


 今日も硬い。


「硬いですわ」


 ルシェルが、記録板に手を伸ばしかけた。


 王妃が見た。


 ルシェルは、手を止めた。


 ミレーヌが笑った。


 食堂に、柔らかな空気が流れた。


 だが、セレスティアは分かっていた。


 これは、まだ始まりに過ぎない。


 ヴァルグレイン侯爵家は、追い詰められた。


 名誉を買おうとした者は、まだ諦めていないかもしれない。


 人の欲は、記録で斬られた後に、さらに暗い場所へ逃げることがある。


 黒星が低く鳴った。


『油断するな』


「はい」


 閃白が澄んで言う。


『濁りは残っています』


「はい」


 解白が淡く告げる。


『未解決の結び目あり』


「分かっています」


 セレスティアは、窓の外を見た。


 夜の白樹の森は静かだった。


 死者名簿に加えられた名は、記録で斬られた。


 だが、死者の眠りを守る戦いは、まだ終わっていない。


 次に欲が手を伸ばすのは、記録ではないかもしれない。


 もっと深い場所。


 魂の座。


 眠った者の残響。


 セレスティアは、静かに干し肉を置いた。


 今はまだ、剣を抜かない。


 だが、もし死者の眠りそのものへ手を伸ばす者がいるなら。


 その時は、剣神の案件になる。


 夜は、静かに更けていった。

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