第83話 死者名簿に加えられた名
数日後。
白樹の森の記録室には、各地から届いた死者名簿の追加申請が積み上げられていた。
邪神戦争は終わった。
祠は撤去された。
剣神非信仰令も布告された。
干し肉騒動も、どうにか保存食の話へ戻された。
だが、戦後処理は終わらない。
むしろ、世界が落ち着き始めたことで、新しい問題が見え始めていた。
死者名簿への追加申請である。
七十年前の邪神戦争で失われた記録は多い。
氏名未判明。
役目のみ判明。
場所のみ判明。
探索継続対象。
忘却せず。
それらの名を探すことは、世界連合が正式に定めた仕事だった。
だから、追加申請そのものは悪ではない。
むしろ、正しい。
問題は、その中に混じるものだった。
ルシェル・クラルテ・アルヴァレインは、机の上に置かれた一通の申請書を見ていた。
白樹紙に書かれた、整った文字。
封蝋には、人間王国西方の古い貴族家の紋章。
ヴァルグレイン侯爵家。
七十年前の邪神戦争において、同家の祖先が封印補助者として従軍し、南方砂漠補助陣地で戦死したという申請だった。
記載された名は、こうだった。
エルディオ・ヴァルグレイン。
南方砂漠補助陣地第三支援列所属。
封印補助者。
邪神戦争にて戦死。
ルシェルは、申請書を静かに置いた。
隣にいた記録官が問う。
「何か」
「違和感があります」
「文字ですか」
「文字もです」
ルシェルは、添付資料を一枚ずつ並べた。
古文書の写し。
家伝の抜粋。
古いとされる従軍記録。
そして、祖先の名を死者名簿へ加えるよう求める嘆願書。
嘆願書には、こう書かれていた。
七十年前、我が祖エルディオ・ヴァルグレインは、世界を救うために命を捧げた。
にもかかわらず、その名は長く死者名簿より失われていた。
剣神セレスティアが邪神を討伐された今、我が祖の名誉を回復し、邪神戦争記録碑へ刻まれたい。
ルシェルは、最後の一文をじっと見た。
記録碑へ刻まれたい。
それが、少し強すぎた。
死者の名を戻す申請ならば、まず「記録へ加えてほしい」と書く。
だが、この嘆願書は最初から記録碑を見ている。
記録ではなく、石に刻まれる名誉を見ている。
ルシェルは、記録官へ言った。
「南方砂漠補助陣地の既存記録を」
「はい」
棚から厚い写しが出される。
七十年前の補助陣地記録。
水害で傷み、火で焦げ、一部は復元不能。
だが、残っている箇所もある。
ルシェルは、第三支援列の記録を開いた。
そこには、役目別の一覧があった。
楔材運搬。
霊砂固定。
補給水袋管理。
封印杭予備補助。
負傷者搬送。
氏名の分かる者。
役目のみ分かる者。
人数のみ分かる者。
未判明者。
ルシェルは、指を止めた。
「第三支援列」
「はい」
「七十年前の記録では、この呼称はありません」
記録官が目を瞬かせる。
「ありませんか」
「この時期の南方砂漠補助陣地では、列ではなく班です」
ルシェルは別の資料を取る。
「第三支援班」
「はい」
「列という呼称は、四十年前の補給制度改革後に使われ始めたものです」
記録官の顔が変わった。
「では、この資料は」
「少なくとも、七十年前そのままの文書ではありません」
ルシェルは次の紙を見た。
地名。
南方砂漠、アルメリア街道南端。
ルシェルはさらに眉を寄せた。
「この地名も違います」
「地名ですか」
「アルメリア街道という名称は、邪神戦争後の復興期に整備された街道名です。七十年前は、南砂第二補給路と呼ばれていました」
記録官は黙り込んだ。
ルシェルは、墨の色を見る。
紙の縁を見る。
折り目を見る。
そして、静かに言った。
「王へ報告します」
その日の午後。
白樹の森の小会議室に、王、王妃、セレスティア、ミレーヌ、ルシェル、数名の記録官が集められた。
セレスティアは、窓際に立っていた。
背には黒星。
左腰には閃白。
背には解白。
しかし今日は、剣を抜く気配はない。
机の上に置かれたのは、一通の申請書だった。
王が問う。
「ルシェル」
「はい」
「説明を」
ルシェルは、申請書を手に取った。
「人間王国西方、ヴァルグレイン侯爵家より、死者名簿への追加申請がありました」
「内容は」
「同家の祖、エルディオ・ヴァルグレインを、七十年前の邪神戦争における封印補助者として記録し、記録碑へ刻むよう求めるものです」
ミレーヌが名簿を開いた。
「南方砂漠の未判明者に関する申請ですね」
「はい」
セレスティアは静かに聞いている。
ルシェルは続けた。
「ただし、添付資料に複数の矛盾があります」
王が目を細めた。
「矛盾」
「第一に、所属名です」
ルシェルは紙を示す。
「申請書では、南方砂漠補助陣地第三支援列所属とされています」
「はい」
「しかし、七十年前の南方砂漠補助陣地では、支援列という呼称は使われていません」
「当時は」
「支援班です」
ルシェルは別記録を示した。
「支援列という呼称は、戦後四十年後の補給制度改革以降のものです」
王は黙って頷いた。
「第二に、地名です」
「はい」
「申請書では、アルメリア街道南端と記されています」
「それは」
「邪神戦争後に整備された街道名です。七十年前は南砂第二補給路です」
ミレーヌの表情が硬くなる。
ルシェルは三枚目を取った。
「第三に、役職名です」
「はい」
「封印補助副監という役職が出てきますが、これは当時存在しません」
「いつの役職だ」
「戦後復興管理期にできた役職です」
王妃が静かに言った。
「つまり」
ルシェルは、ためらわず答えた。
「少なくとも、この資料は七十年前の原資料ではありません」
部屋が静まった。
セレスティアは申請書を見た。
そこに書かれた名。
エルディオ・ヴァルグレイン。
それが本当に存在しなかったとは、まだ断定できない。
だが、提出された資料は怪しい。
セレスティアは言った。
「偽造ですか」
「現時点では、偽造疑いです」
ルシェルは正確に答えた。
「ただし、記録官としての所見では、極めて疑わしい」
ミレーヌが名簿を握った。
「未判明者の欄に、自分の家の名を入れようとしているのですか」
「可能性があります」
「なぜ」
ルシェルは静かに言った。
「名誉です」
その一言が、重く落ちた。
名誉。
邪神戦争の功労家系。
記録碑に刻まれる名。
世界連合での発言力。
復興利権。
王侯貴族の席で語れる祖先。
剣神セレスティアが救った世界の中で、自家もまた世界を救った側であったと主張できる証。
それらが、死者名簿には含まれる。
だからこそ、危険だった。
死者の名は、力になる。
力になるから、利用しようとする者が出る。
セレスティアは、ゆっくり口を開いた。
「死者の名は、家名の飾りではありません」
静かな声だった。
誰も口を挟まない。
「未判明とは、空欄ではありません」
「はい」
「誰かが好きな名を入れてよい場所ではありません」
「はい」
「分からないものは、分からないまま守る」
「はい」
「それが、忘却せず、ということです」
ミレーヌは、深く頷いた。
王がルシェルへ言った。
「調査を進めよ」
「はい」
「人間王国へ正式照会を出す」
「はい」
「ヴァルグレイン侯爵家には、原資料の提出を求める」
「はい」
「写しではなく、原本だ」
「はい」
「同時に、南方砂漠補助陣地の未判明者記録を再照合する」
「はい」
王妃が言った。
「調査班の食事も手配します」
ルシェルが頷く。
「ありがとうございます」
セレスティアは、少しだけ母を見た。
王妃は当然の顔をしていた。
記録も調査も、空腹ではできない。
それはもう、白樹の森の常識になりつつあった。
翌日。
ヴァルグレイン侯爵家の使者が白樹の森へ招かれた。
使者は、中年の男だった。
整った礼服。
磨かれた靴。
柔らかな物腰。
だが、目は落ち着かない。
小会議室には、王、ルシェル、記録官、そしてセレスティアがいた。
ミレーヌも同席している。
セレスティアは、あえて剣神としての威圧を出さなかった。
ただ座っている。
だが、それだけで使者は緊張していた。
真神格の現世神。
剣神セレスティア。
邪神を斬った存在。
しかし、今日のセレスティアは斬るためにいるのではない。
死者の名を見るためにいる。
王が言った。
「ヴァルグレイン侯爵家の申請について確認する」
「はい」
使者は深く頭を下げた。
「我が家の祖、エルディオ・ヴァルグレインの名誉回復のため、何卒」
ルシェルが静かに遮った。
「まず、資料の原本を提出してください」
「原本でございますか」
「はい」
「現在、当家の記録庫にて保管されておりまして」
「持参していないのですか」
「重要な家伝でございますので、移動には慎重を要し」
「では、白樹の森と人間王国の記録官を派遣します」
使者の顔がわずかにこわばった。
「派遣、ですか」
「はい。現地で確認します」
「それは、少々」
「何か問題が」
「いえ。ただ、当家の私的記録も多く」
ルシェルは表情を変えない。
「必要なのは申請資料の原本だけです」
「はい」
「提出できない理由はありますか」
「いえ」
「では、調査日を決めましょう」
使者は返答に詰まった。
セレスティアは、その様子を見ていた。
黒星が低く鳴る。
『濁るな』
閃白が澄んで言う。
『恐れではなく、隠し事です』
解白が淡く告げる。
『申請名と未判明死者記録の結び目、不自然』
セレスティアは、まだ黙っていた。
ここはルシェルの場だ。
剣を抜く場ではない。
ルシェルが続ける。
「いくつか確認します」
「はい」
「提出資料では、エルディオ・ヴァルグレインは第三支援列所属とされています」
「はい」
「七十年前、その呼称は存在しません」
「……」
「説明を」
使者は、わずかに汗をかいた。
「写本時に、後代の呼称へ改められた可能性があります」
「では、原本には別の呼称があるのですね」
「おそらくは」
「確認します」
「はい」
「次に、アルメリア街道南端という地名」
「はい」
「七十年前にはありません」
「それも、写本時に」
「では、原本には南砂第二補給路とある可能性が高いですね」
「おそらく」
「確認します」
「はい」
ルシェルは、静かに次の紙を出した。
「第三に、封印補助副監という役職」
使者の顔がさらに固まる。
「はい」
「この役職は、戦後復興管理期に設けられたものです」
「それも、後代の整理で」
「後代の整理で、役職、地名、所属名の全てが後代の名称へ置き換えられたということですか」
「可能性としては」
「では、原本を見れば分かりますね」
「……はい」
ルシェルは、それ以上追い詰めなかった。
ただ、記録した。
使者の説明。
原本確認の必要。
調査日程。
提出責任者。
全て淡々と。
最後に、セレスティアが口を開いた。
「一つ、確認します」
使者は、背筋を伸ばした。
「はい、剣神様」
「剣神様ではなく、セレスティアで構いません」
「は、はい」
「あなた方は、死者の名を戻したいのですか」
「もちろんでございます」
「それとも、家名を記録碑へ刻みたいのですか」
使者は、目を見開いた。
「それは」
「同じではありません」
セレスティアの声は静かだった。
「死者の名を戻すことと」
「はい」
「家名を石へ刻むことは」
「はい」
「同じではありません」
使者は、何も言えなかった。
セレスティアは続けた。
「もし、エルディオ・ヴァルグレインという方が本当に南方砂漠補助陣地で亡くなったなら、記録します」
「はい」
「役目が分かれば役目も」
「はい」
「場所が分かれば場所も」
「はい」
「分からなければ、分からないと記録します」
「はい」
「ですが、証拠なく未判明者の欄へ名を入れることはありません」
「はい」
「その欄は、空いているのではありません」
「はい」
「まだ名を取り戻せていない死者の場所です」
使者は、深く頭を下げた。
「承知いたしました」
だが、その声には震えがあった。
会議が終わり、使者が退出した後、ミレーヌが静かに言った。
「怪しいですね」
ルシェルが頷く。
「はい」
「ほぼ偽造ですか」
「まだ断定しません」
「ルシェルらしいです」
「断定には証拠が必要です」
セレスティアは、窓の外を見た。
「証拠が出た場合」
「はい」
「どうしますか」
ルシェルは、迷わず答えた。
「記録で斬ります」
セレスティアは、少しだけルシェルを見た。
その目は静かだった。
だが、強かった。
「姉上の剣は、死者の眠りを汚すものを斬る剣です」
「はい」
「この件は、まず記録の問題です」
「はい」
「ならば、私が斬ります」
セレスティアは頷いた。
「任せます」
その日の夜。
白樹の森の食堂。
セレスティアは、夕食の席で静かに考えていた。
死者名簿。
未判明者。
探索継続対象。
忘却せず。
そこに、生者の欲が入り込む。
名誉。
家名。
石碑。
復興利権。
邪神は死者を利用した。
では、人は死者を利用しないでいられるのか。
その問いが、目の前に現れた。
王妃が皿を置いた。
「セレスティア」
「はい」
「考えるのは食べてからにしなさい」
「はい」
皿には、温かいスープ。
パン。
豆の煮込み。
果実。
そして、干し肉。
セレスティアは干し肉を見た。
この干し肉は、神具ではない。
加護もない。
ただ硬い保存食である。
だが、地上へ戻ってきた自分を繋ぐものでもある。
セレスティアは噛んだ。
硬い。
「硬いですわ」
ミレーヌが少し笑った。
「お姉様」
「はい」
「今日は記録しません」
ルシェルが食卓の端で筆を止めた。
「……しません」
王妃が見ていた。
ルシェルは筆を置いた。
食堂に小さな笑いが起きた。
その笑いが、セレスティアを少しだけ現世へ戻す。
死者の名を守るには、生者が倒れてはならない。
生者は食べる。
記録する。
調べる。
そして、必要ならば、証拠で斬る。
翌朝。
ルシェル率いる記録調査班は、人間王国西方へ向かう準備を整えた。
目的地は、ヴァルグレイン侯爵家の記録庫。
同行するのは、白樹の森の記録官二名、人間王国の老記録官一名、ミレーヌ、そしてセレスティア。
セレスティアは、本来同行しないつもりだった。
だが、王が言った。
「剣は抜くな」
「はい」
「だが、見届けよ」
「はい」
「これは、邪神戦争後の世界が、死者をどう扱うかの最初の試金石になる」
「承知しました」
ルシェルは調査用の記録板を持っていた。
いつものものより厚い。
ミレーヌは死者名簿の写しを抱えている。
セレスティアは、黒星、閃白、解白を携えたまま、静かに立っていた。
ゴルドから通信が入る。
「バカ姫」
「はい」
「死者の名を盛る奴が出たか」
「まだ疑いです」
「出たな」
「親方」
「分かってる。証拠を見ろ」
「はい」
「人を斬るな」
「はい」
「記録で斬れ」
「ルシェルが言っていました」
「なら任せろ」
「はい」
少し間が空いた。
ゴルドは、低く言った。
「死んだ奴の場所を、勝手に奪わせるな」
セレスティアは、静かに頷いた。
「はい」
通信が切れる。
転移陣が開かれる。
白い光の向こうに、人間王国西方の空が見えた。
セレスティアは、一歩踏み出した。
死者名簿に加えられた名。
それが、本当に戻るべき名なのか。
それとも、生者が欲で差し込んだ名なのか。
これから確かめる。
剣神セレスティアは、剣を抜かない。
今はまだ。
今回、刃を持つのはルシェルの記録だった。




