表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
神剣のセレスティア  作者: 玉響すばる


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

86/108

第79話 火酒の約束

 復興初日の確認を終えた翌日。


 白樹の森の中庭に、異様な光景があった。


 火酒の樽が、十個。


 それが、きれいに宙へ浮いていた。


 樽は一つ一つが大きい。


 普通なら、屈強なドワーフ数人で運ぶような代物である。


 それが、セレスティアの背後に十個並び、何事もないように浮いていた。


 中庭にいた侍女たちは、何度も見直した。


 王宮の警備兵も、目を瞬かせた。


 ミレーヌは、しばらく樽を見上げていた。


「お姉様」


「はい」


「本当に十樽です」


「はい」


「親方と飲むのですよね」


「はい」


「親方は大丈夫なのですか」


「ドワーフですので」


「ドワーフでも十樽は多いと思います」


 セレスティアは、少しだけ考えた。


「残った分は、工房の皆様と復興作業に関わった方々へ分けます」


「それなら安心です」


「親方の驚く顔も見られます」


「そこが本命ではありませんか」


「少しだけ」


 ミレーヌは笑った。


 昨日まで、死者の名を読み、封印地を見届け、剣聖セレスティアを葬送した。


 重い日々だった。


 だからこそ、火酒十樽を浮かせている姉の姿に、少しだけ救われる。


 剣神セレスティアは、邪神を斬った。


 だが、今は約束の酒を持って、鍛冶師の工房へ行こうとしている。


 それが、ミレーヌには嬉しかった。


 そこへ王妃が来た。


 樽を見た。


 セレスティアを見た。


 もう一度、樽を見た。


「セレスティア」


「はい、お母様」


「その樽は何ですか」


「火酒です」


「見れば分かります」


「親方と飲む約束をしておりましたので」


「何樽ですか」


「十樽です」


「……十樽」


「はい」


 王妃は、目を閉じた。


 怒ってはいない。


 だが、確認すべきことを確認する顔だった。


「あなたは真神格ですから、火酒では酔わないのでしょう」


「はい」


「判断力も鈍りませんね」


「はい」


「神格も乱れませんね」


「はい」


「剣筋も乱れませんね」


「はい」


「なら、酒量制限はしません」


 セレスティアは、少しだけ顔を明るくした。


「ありがとうございます」


「ただし」


「はい」


「食事を摂ること」


「はい」


「一人で飲まないこと」


「はい」


「飲んだ量を自慢しないこと」


「しません」


「明日の朝食には必ず戻ること」


「……はい」


「その間にゴルド殿を潰さないこと」


「お母様、親方はドワーフです」


「ドワーフでも十樽は別問題です」


「調整します」


 王妃は頷いた。


「よろしい」


 黒星が低く鳴る。


『妥当』


 閃白が澄んで言う。


『地上の宴として楽しむべきです』


 解白が淡く告げる。


『飲酒量制限不要。ただし朝食欠席不可』


「解白、その記録は不要です」


『重要』


 ルシェルが中庭へ来た。


 記録板を持っている。


 セレスティアは嫌な予感がした。


「ルシェル」


「火酒十樽持参の件、記録します」


「しなくてよいです」


「戦後生活維持記録として必要です」


「不要です」


 王妃が言った。


「簡潔に記録しなさい」


「はい」


「お母様」


「約束を果たすことも、地上生活維持の一部です」


 ルシェルは筆を走らせた。


 剣神セレスティア。


 ゴルド親方との戦前の約束を果たすため、火酒十樽を持参し、グランガルド工房へ向かう。


 王妃より、食事摂取、一人飲み禁止、飲酒量自慢禁止、翌朝食出席の条件あり。


 セレスティアは、少しだけ肩を落とした。


「記録されてしまいましたわ」


 ミレーヌが笑った。


「後世に残りますね」


「残さなくてよいこともあります」


「でも、お姉様らしいです」


 そう言われると、セレスティアは何も言えなかった。


 転移陣が開かれる。


 火酒十樽が、ふわりと移動する。


 セレスティアは中庭の者たちへ軽く頭を下げた。


「行ってまいります」


 王妃が言う。


「明日の朝食には戻ること」


「はい」


 ミレーヌが手を振る。


「楽しんできてください」


「はい」


 ルシェルは記録板を抱えて言った。


「飲酒量の詳細報告は不要です」


「本当に不要にしてください」


「はい。ただし、看板に書かれた場合は写します」


「親方なら書きますわね」


 セレスティアは、少しだけ諦めた顔で転移陣へ入った。


 十樽の火酒が、その後ろを整然とついていく。


 白い光が消えた。


 次に見えたのは、グランガルドの工房前だった。


 炉の火は赤い。


 煙突の修理は途中まで進んでいる。


 倒れた看板は、新しい板に替えられ、入口脇に立てかけられていた。


 そこには、昨日の文言が書かれている。


 バカ姫、邪神を斬って帰還。


 剣聖セレスティア、眠る。


 三賢者も眠る。


 工房、復興中。


 干し肉は食え。


 セレスティアは、それを見て少しだけ目を細めた。


「最後の一行が、やはり強いですわ」


 黒星が低く鳴る。


『重要』


 閃白が言う。


『地上の錨です』


 解白が淡く告げる。


『現世神性維持食材』


「もうよいです」


 工房の弟子たちは、セレスティアに気づいて手を止めた。


 いや、正確には、セレスティアの背後に浮く火酒十樽に気づいた。


「剣神様が」


 別の弟子が小声で言う。


「バカ姫様が」


 さらに別の弟子が言う。


「火酒を」


「十樽」


「十樽?」


 工房の奥から、ゴルドの怒鳴り声が飛ぶ。


「様をつけるな!」


 弟子たちは一斉に背筋を伸ばした。


「はい!」


 ゴルドが槌を肩に担いで出てきた。


 その隣に、見慣れないドワーフがいた。


 ゴルドより若い。


 髭は整えられており、目つきは鋭いが、立ち居振る舞いはゴルドより礼儀正しい。


 鍛冶師の手をしている。


 だが、工房の空気にまだ完全には馴染んでいない。


 セレスティアは、そのドワーフを見た。


「親方、その方は?」


「息子だ」


「息子様」


「様はいらねぇ」


 若いドワーフが一歩前に出た。


 深く頭を下げる。


「バルドと申します。しばらく他工房で修行しておりました」


「セレスティアです」


「剣神様にお目にかかれるとは、光栄です」


「拝むな」


 ゴルドが即座に言った。


 バルドは少し困惑した。


「父上」


「拝むな。こいつはバカ姫だ」


「邪神を斬った剣神を、バカ姫呼ばわりはどうかと」


「事実だ。見ろ」


 ゴルドは、セレスティアの背後に浮く火酒十樽を指した。


「火酒十樽を浮かせて工房に来る奴が、バカじゃなくて何だ」


 バルドは、樽を見た。


 十樽。


 確かに十樽。


 しかも、セレスティアは何事もない顔で浮かせている。


 バルドは、しばらく沈黙した。


 そして、静かに言った。


「……確かに、普通ではありません」


「でしょう?」


 セレスティアは、なぜか少し誇らしげだった。


 ゴルドが顔をしかめる。


「褒めてねぇぞ」


「分かっています」


「分かってない顔だ」


 バルドは、もう一度セレスティアへ礼をした。


 今度は、祈るような礼ではない。


 職人としての礼だった。


「父から、黒星と閃白の話は聞いております」


「はい」


「解白のことも、少し」


 解白が淡く光る。


『確認済み。バルド。ドワーフ鍛冶師。ゴルド親方の息子。他工房修行帰還者』


 バルドは目を瞬かせた。


「剣が話すのですか」


「神剣ですので」


 黒星が低く鳴る。


『黒星だ』


 閃白が澄んで言う。


『閃白です』


 解白が淡く告げる。


『解白』


 バルドの目が、鍛冶師の目に変わった。


 畏敬ではない。


 職人としての震え。


「父上」


「何だ」


「本当に、神剣なのですね」


「だから言っただろ」


「話す神剣など、聞いてはいましたが、実際に見ると」


「腰を抜かすなよ」


「抜かしません」


「なら、よく見ろ」


 ゴルドは、三振りを見るように言った。


 バルドは、慎重に近づいた。


 触れはしない。


 まず、見る。


 黒星。


 重い黒。


 星を抱く大剣。


 閃白。


 澄んだ白。


 濁りを祓う刃。


 解白。


 小さく淡い神剣。


 結び目を見極める刃。


 バルドは、長く息を吐いた。


「父上は、とんでもないものを打ったのですね」


「俺だけじゃねぇ」


 ゴルドが言う。


「黒星と閃白は、こいつが育てた」


「剣神様が」


「バカ姫だ」


「……バカ姫が」


「よし」


 セレスティアは、少しだけ笑った。


「バルド様も、親方に似てきましたわね」


「様はいりません。バルドで構いません」


「では、バルド」


「はい」


「ドワーフの方としては、お若いのですか」


 バルドが少し複雑な顔をした。


 ゴルドが即答する。


「若い」


「父上」


「ドワーフは三百年ほど生きる。お前はまだ若い」


「もう一人で炉を任される年です」


「三百年生きる種族で、その程度で威張るな」


「父上が厳しすぎるのです」


「甘やかした覚えはねぇ」


「甘やかされた記憶もありません」


 弟子たちが笑いをこらえている。


 ゴルドが睨むと、全員が作業へ戻るふりをした。


 セレスティアは微笑んだ。


「親方にも父の顔があるのですね」


「余計なことを言うな」


「はい」


 バルドは、改めて火酒の樽を見る。


「それで、この十樽は」


「親方と飲むためです」


「十樽を」


「はい」


「父上を潰すおつもりで?」


「潰れるのですか」


 ゴルドが即答する。


「潰れねぇ」


 バルドが言う。


「父上、十樽は別問題です」


「お前まで王妃様みてぇなことを言うな」


「常識です」


「ドワーフに常識を持ち込むな」


「ドワーフだからこそ、酒の常識は必要です」


 セレスティアは、その親子のやり取りを見て、少し楽しくなった。


 ゴルドが弟子たちへ怒鳴る。


「おい!」


「はい!」


「炉を片づけろ!」


「はい!」


「作業台を空けろ!」


「はい!」


「火酒の卓を出せ!」


「はい!」


「つまみを持ってこい!」


「はい!」


「干し肉もだ!」


「はい!」


「あと看板を書け!」


 弟子の一人が板を持ってくる。


「何と書きますか!」


 ゴルドは、少しも迷わず言った。


「バカ姫、邪神を斬って火酒十樽持参」


「はい!」


「剣聖セレスティア、眠る」


「はい!」


「工房、今夜だけ少し飲む」


「はい!」


「ただし朝食欠席不可」


「それもですか!」


「王妃様の条件だ。書け!」


「はい!」


 セレスティアは頭を抱えそうになった。


「親方、最後の一行は」


「大事だ」


 解白が淡く言う。


『重要』


「解白まで」


 バルドは、看板の文言を見て、少しだけ笑った。


「父上」


「何だ」


「この工房の看板は、いつもこうなのですか」


「最近は大体こうだ」


「そうですか」


「慣れろ」


「分かりました」


 工房の一角に、大きな卓が作られた。


 復興作業の途中であるため、派手な宴ではない。


 飲む者も、飲みすぎない。


 炉は見張りを残し、危険な作業は全て止める。


 それでも、工房には久しぶりに明るい空気が流れていた。


 火酒の樽が一つ開けられる。


 香りが広がる。


 強く、深く、炉の火のような香り。


 セレスティアは、杯を受け取った。


 ゴルドも杯を持つ。


 バルドは少し離れて立っていたが、ゴルドが言った。


「お前も座れ」


「よいのですか」


「お前も鍛冶師だ」


「はい」


 バルドも杯を受け取る。


 弟子たちにも火酒が配られる。


 ただし、少量ずつ。


 ゴルドが全員を見る。


「今日は潰れるまで飲む日じゃねぇ」


 弟子たちが頷く。


「はい!」


「邪神が終わった日でもねぇ」


 セレスティアは、少しだけ顔を上げた。


 ゴルドは続ける。


「剣聖の嬢ちゃんが寝た」


「はい」


「三賢者も寝た」


「はい」


「死者は寝た」


「はい」


「生者は復興する」


「はい」


「で、こいつが帰ってきた」


 ゴルドは、セレスティアを顎で示した。


「だから飲む」


 それだけだった。


 長い演説はない。


 美しい言葉もない。


 だが、十分だった。


 ゴルドは、セレスティアへ杯を向ける。


「バカ姫」


「はい」


「邪神は斬ったな」


「はい」


「帰ってきたな」


「はい」


「剣聖の嬢ちゃんは寝たな」


「はい」


「三賢者も寝たな」


「はい」


「なら、飲め」


「はい」


 二人は杯を合わせなかった。


 ドワーフ式なのか、ゴルド式なのかは分からない。


 ただ、同じ時に火酒を口にした。


 火酒は、喉を焼かなかった。


 真神格の身体に、酒精の熱は障りにならない。


 酔いも来ない。


 判断も鈍らない。


 神格も乱れない。


 だが、味はあった。


 強く、深く、香ばしく、炉の火のような味。


 焼けた鉱石のような重さ。


 冬の夜に飲めば、身体の内側から熱くなるだろう味。


 神域にはなかった味。


 邪神の座にはなかった味。


 地上で、誰かと約束を果たした者だけが知る味だった。


 セレスティアは、素直に言った。


「美味しいですわ」


 ゴルドは鼻を鳴らした。


「当たり前だ」


 バルドも一口飲み、静かに頷く。


「良い火酒ですね」


「当然だ」


 ゴルドは、当然を二度言った。


 弟子たちも少しずつ飲む。


 顔を赤くする者。


 咳き込む者。


 嬉しそうに笑う者。


 工房の空気が、少しずつ緩んでいく。


 セレスティアは、火酒をもう一杯注がれた。


 酔わない。


 だが、美味しい。


 それが、少し不思議だった。


「親方」


「何だ」


「酔わないのに、美味しいです」


「酒は酔うためだけに飲むもんじゃねぇ」


「はい」


「帰ってきた奴と飲むから美味ぇんだ」


 セレスティアは、杯を見た。


 火酒が赤く揺れている。


 炉の火を映しているようだった。


「そうですか」


「ああ」


「親方」


「何だ」


「帰ってきて、よかったです」


 ゴルドは、しばらく黙った。


 火酒の杯を見ていた。


 それから、短く言った。


「よく帰った」


 それだけだった。


 セレスティアは、少しだけ笑った。


「はい」


 バルドは、そのやり取りを黙って見ていた。


 邪神を斬った剣神。


 三振りの神剣を背負う現世神。


 その剣神が、父にバカ姫と呼ばれ、干し肉を食えと怒鳴られ、火酒を美味しそうに飲んでいる。


 バルドは、ようやく理解し始めた。


 父は、剣神を軽んじているのではない。


 祠に閉じ込めないために、地上へ引き戻しているのだ。


 バルドは、火酒の杯を置いた。


「父上」


「何だ」


「剣神様をバカ姫と呼べる者は、そう多くありませんね」


「当たり前だ」


 ゴルドは火酒を飲み、鼻を鳴らした。


「こいつを祀る奴は山ほど出る」


「はい」


「だから、俺は呼ぶんだ」


「バカ姫と」


「そうだ」


 バルドは、少しだけ笑った。


「覚えておきます」


 ゴルドは目を細めた。


「お前まで呼ぶなよ」


「呼びません」


 セレスティアが少し残念そうにする。


「呼んでも構いませんのに」


 ゴルドが即座に言う。


「調子に乗るな」


「はい」


 工房の弟子たちが笑った。


 火酒は、一樽目がゆっくり空いていく。


 十樽のうち一樽。


 残りは、復興に関わった者たちへ分けることになった。


 ゴルドは飲みながらも、きちんと指示を出す。


「二樽は工房用」


「はい」


「一樽は石工組へ」


「はい」


「一樽は封印杭交換班へ」


「はい」


「一樽は煙突補修班へ」


「はい」


「一樽は白樹の森へ返せ」


「返すのですか」


「王妃様に礼だ」


「はい」


「残りは復興支援倉庫に回せ」


「はい」


 セレスティアは、感心した。


「親方、ちゃんと分けるのですね」


「当たり前だ」


「全部飲むかと」


「俺を何だと思ってる」


「ドワーフです」


「間違ってねぇが違う」


 バルドが静かに言う。


「父上は昔、三樽までは一晩で空けたと聞きました」


「余計なことを言うな」


「事実でしょう」


「若い頃の話だ」


「ドワーフ基準では、まだ若いのでは」


「お前、他工房で口が回るようになったな」


「父上の息子ですので」


 セレスティアは笑った。


 ゴルドは不機嫌そうな顔をしたが、本気で怒ってはいなかった。


 夜が深まる。


 工房の炉は静かに燃えている。


 復興作業の音は止んでいる。


 代わりに、火酒を飲む小さな声、笑い声、鍛冶師たちの低い会話が響いていた。


 誰も勝利を叫ばない。


 誰も剣神を拝まない。


 誰も邪神を過度に語らない。


 ただ、帰ってきた者と、復興する者たちが、同じ卓についている。


 それが、セレスティアには心地よかった。


 バルドが、黒星と閃白、解白をもう一度見た。


「剣神様」


「セレスティアで構いません」


「では、セレスティア様」


「様もなくてよいです」


「それは、少し時間をください」


「はい」


 バルドは苦笑した。


「私は、他工房で神剣の伝承を学びました」


「はい」


「神の持つべき剣」


「はい」


「不壊、鋭刃、破邪、聖剣、永続斬撃」


「はい」


「しかし、実際に見ると、伝承の文字だけでは足りません」


 黒星が低く鳴る。


『そうか』


 閃白が澄む。


『見る目がありますね』


 解白が淡く言う。


『鍛冶師評価、良好』


 バルドは、少しだけ嬉しそうにした。


「ありがとうございます」


 ゴルドが鼻を鳴らす。


「褒められて浮かれるな」


「はい」


「神剣を見て分かった気になるな」


「はい」


「手で鉄を打て」


「はい」


 セレスティアは、ゴルドを見た。


「親方は、本当に親方ですわね」


「何だそれは」


「そのままです」


「意味が分からん」


 バルドが少し笑った。


 セレスティアは、火酒をまた飲んだ。


 美味しい。


 酔わない。


 だが、心が温まる。


 酒精ではない。


 約束が果たされたからだ。


 帰ってきたことを、ゴルドが認めてくれたからだ。


 剣聖セレスティアが眠ったことを、誰かと静かに受け止められたからだ。


 ふと、セレスティアは工房の外を見た。


 夜空には星が出ていた。


 邪神戦争中の黒雲はない。


 星が見える。


 セレスティアは、黒星を思った。


 星を抱く黒。


 守るために落ちる重さ。


 黒星が低く鳴る。


『主よ』


「はい」


『戻ったな』


「はい」


 閃白が澄んで言う。


『ここも、地上です』


「はい」


 解白が淡く告げる。


『火酒摂取、問題なし。帰還意思、安定』


「それは何よりです」


 ゴルドが火酒を注ぎながら言った。


「バカ姫」


「はい」


「祠ができたら壊すぞ」


 唐突だった。


 だが、セレスティアは驚かなかった。


「はい」


「お前の祠だ」


「壊します」


「俺も壊す」


「はい」


「バルド」


「はい、父上」


「お前も覚えとけ」


「はい」


「剣神の祠はいらねぇ」


「はい」


「本人が現世にいて飯食って酒飲んでんだ」


「はい」


「拝む場所を作るな」


「はい」


「作るなら記録碑だ」


「はい」


「死者と、支えた奴と、失敗した奴を刻め」


「はい」


 バルドは、真面目に頷いた。


「承知しました」


 セレスティアは、杯を置いた。


「わたくしも、同じ考えです」


 ゴルドが頷く。


「だろうな」


「わたくしの祠はいりません」


「だろうな」


「わたくしの像もいりません」


「だろうな」


「供物もいりません」


「だろうな」


「火酒は」


「それは約束だ」


「はい」


 ゴルドは、少しだけ笑った。


「祀られる酒じゃねぇ」


「はい」


「飲む酒だ」


「はい」


 バルドは、その言葉を胸に留めた。


 剣神は祀られない。


 剣神は飲む。


 剣神は食べる。


 剣神は帰ってくる。


 そのことを、父は工房の卓で教えている。


 夜がさらに深まった頃、セレスティアは立ち上がった。


 十樽のうち、今夜開けたのは一樽だけ。


 それも、皆で少しずつ飲んだため、無茶な飲み方ではなかった。


 残りは、ゴルドの指示どおり分配される。


 セレスティアは、ゴルドへ頭を下げた。


「親方」


「何だ」


「約束を果たせて、よかったです」


「そうか」


「はい」


「まだ終わりじゃねぇぞ」


「はい?」


「復興が終わったら、また飲む」


 セレスティアは、少し驚いてから笑った。


「次の約束ですか」


「ああ」


「火酒は何樽ですか」


「お前が決めるな。俺が決める」


「分かりました」


 ゴルドは短く言った。


「次も帰ってこい」


 セレスティアの胸が、静かに震えた。


「はい」


「神域に行こうが、どこに行こうが」


「はい」


「最後は帰ってこい」


「はい」


「火酒が残る」


「はい」


 セレスティアは、深く頷いた。


「帰ります」


 ゴルドは満足したように鼻を鳴らした。


「ならいい」


 バルドが見送るために外へ出る。


 工房の前には、新しい看板が立っていた。


 バカ姫、邪神を斬って火酒十樽持参。


 剣聖セレスティア、眠る。


 工房、今夜だけ少し飲む。


 ただし朝食欠席不可。


 そして、下に小さく一文が足されていた。


 剣神の祠はいらない。


 本人が飲みに来る。


 セレスティアは、それを見て固まった。


「親方」


「何だ」


「最後の一文は」


「弟子が書いた」


 弟子が手を上げた。


「すみません」


 ゴルドが言う。


「消すな」


「はい!」


 セレスティアは、しばらく看板を見た。


 そして、少しだけ笑った。


「……まあ、よいです」


 バルドも看板を見て、納得したように頷いた。


「分かりやすいです」


「バルドまで」


「父上の工房らしいかと」


「それは否定できませんわ」


 転移陣が開かれる。


 セレスティアは、黒星、閃白、解白と共に白い光へ入った。


 帰り際、ゴルドが言った。


「朝食に遅れるなよ」


「親方まで」


「王妃様の条件だ」


「はい」


「あと、干し肉も食え」


「はい」


 光が包む。


 グランガルドの炉の赤。


 工房の笑い声。


 火酒の香り。


 看板の文字。


 ゴルドの声。


 バルドの礼儀正しい困惑。


 その全てを胸に、セレスティアは白樹の森へ戻った。


 翌朝。


 セレスティアは、ちゃんと朝食に出席した。


 王妃は何も言わなかった。


 ただ、皿の端に干し肉を置いた。


 セレスティアは、それを見て笑った。


「ただいま戻りました」


 王妃が頷く。


「お帰りなさい」


 ミレーヌが嬉しそうに言う。


「火酒は美味しかったですか」


「はい」


「酔いましたか」


「酔いません」


「楽しかったですか」


 セレスティアは、少しだけ考えた。


 ゴルドの工房。


 火酒。


 看板。


 バルド。


 弟子たち。


 祠はいらないという言葉。


 本人が飲みに来るという一文。


 それらを思い出して、微笑んだ。


「楽しかったです」


 ルシェルが記録板を取ろうとする。


 王妃が見た。


 ルシェルは一度止まった。


 だが、王妃は少し考えて言った。


「今回は、記録してよいでしょう」


 ルシェルは頷いた。


 剣神セレスティア。


 火酒の約束を果たす。


 ゴルド親方の工房にて、地上の宴に参加。


 飲酒による神格異常なし。


 帰還意思、安定。


 翌朝食、出席。


 セレスティアは、干し肉を噛んだ。


 硬い。


 相変わらず硬い。


 だが、今日は少しだけ、その硬さが嬉しかった。


 邪神戦争は終わった。


 復興は続く。


 剣神は祀られない。


 本人は、火酒を飲みに来る。


 その事実が、セレスティアを地上に繋いでいた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ