第74話 邪神戦争の翌朝
邪神戦争が終わった翌朝。
白樹の森には、久しぶりに朝日が差していた。
豪雨は止んでいた。
黒雲は消えていた。
精霊灯は穏やかに揺れ、白樹の葉には雨粒が残っている。
その一粒一粒が、朝日に照らされて淡く光っていた。
世界は終わらなかった。
その事実を、白樹の森は静かに受け止めていた。
歓声は、まだ少ない。
誰もが疲れていた。
泣き疲れた者。
記録し続けた者。
避難路を守った者。
祈った者。
祈らず、ただ持ち場に立った者。
名を読み続けた者。
誰もが、急に訪れた静けさに戸惑っていた。
セレスティアは、自室で目を開けた。
眠る必要のない身体。
だが、昨夜は布団に入った。
眠ったのか。
眠る真似をしたのか。
自分でもよく分からなかった。
ただ、白樹の森の朝の匂いで目を開けた。
窓の外から、鳥の声がする。
邪神の座にはなかった音。
神域にもなかった音。
地上の音だった。
黒星が壁際で低く鳴った。
『主よ』
「はい」
『朝だ』
「はい」
閃白が澄んだ声で言う。
『雨は止んでいます』
「はい」
解白が淡く告げる。
『邪神反応、検出なし』
セレスティアは、しばらく天井を見ていた。
邪神反応、検出なし。
その言葉が、胸の奥へゆっくり沈む。
邪神はいない。
もう、邪神の座もない。
剣聖セレスティアは眠った。
三賢者も眠りへ移行した。
死者の鎖は解かれた。
それでも、セレスティアの胸は軽くなっていなかった。
重さは残っている。
ただ、その重さの質が変わっていた。
罪ではない。
呪いでもない。
責任でも、全部を背負う重さでもない。
終わったものを見送った後の重さだった。
セレスティアは身体を起こした。
「帰ってきましたのね」
黒星が言う。
『帰ってきた』
閃白が続ける。
『はい』
解白が淡く告げる。
『帰還状態、継続』
セレスティアは、少しだけ笑った。
「朝から確認ですのね」
『重要』
「そうですね」
支度を整え、部屋を出る。
廊下には、侍女たちがいた。
セレスティアを見ると、深く頭を下げる。
誰も跪かない。
誰も祈らない。
ただ、静かに礼をする。
セレスティアも、軽く頭を下げた。
「おはようございます」
侍女の一人が、涙をこらえるように答えた。
「おはようございます、セレスティア様」
その声に、セレスティアは少しだけ胸が痛んだ。
生きている声だった。
白樹の森の食堂には、すでに王、王妃、ルシェル、ミレーヌがいた。
ミレーヌは、セレスティアを見るなり立ち上がった。
「お姉様」
「おはようございます、ミレーヌ」
「おはようございます」
ミレーヌは、昨日の夜ほど泣いてはいなかった。
だが、目は赤い。
腕には布が巻かれている。
昨日、倒れた書架から逃れた時の擦り傷だった。
セレスティアは、その腕を見た。
「痛みますか」
「少しだけです」
「そうですか」
「お姉様の方が大変でした」
「それとこれとは別です」
ミレーヌは、少しだけ笑った。
「お母様と同じことを言います」
王妃が静かに言った。
「当然です」
食卓には、温かい粥、柔らかいパン、豆の煮込み、白樹の果実、薬湯が並んでいた。
そして当然のように、皿の端には干し肉があった。
セレスティアは、皿を見た。
「お母様」
「ゴルド殿から、三日間は必ず食べさせるようにと」
「邪神戦争後もですか」
「邪神戦争後だからこそ、だそうです」
黒星が低く鳴る。
『妥当』
閃白が続ける。
『帰還後安定確認です』
解白が淡く言う。
『現世神性維持食材、戦後継続運用』
「解白、それはもう正式な分類なのですね」
『はい』
ルシェルが記録板に手を伸ばしかけた。
王妃が見た。
ルシェルは手を止めた。
「食事中でした」
「そうです」
セレスティアは、干し肉を噛んだ。
硬い。
昨日と同じく硬い。
邪神戦争の翌朝でも硬い。
それが、妙におかしかった。
「硬いですわ」
ミレーヌが笑った。
王妃も微笑んだ。
王は、静かに粥を口へ運んでいる。
ルシェルは、記録板を見ないように努力している。
セレスティアは、温かい粥を食べた。
柔らかい。
干し肉とは違う。
当たり前の食事。
当たり前の朝。
それが、とても遠いもののようにも、近いもののようにも感じられた。
食事の途中、王が言った。
「セレスティア」
「はい」
「今日は、正式な戦後確認を行う」
「はい」
「邪神討伐の確認」
「はい」
「三賢者柱の消失確認」
「はい」
「名もなき森の安置所確認」
「はい」
「各地の被害集計」
「はい」
「死者名簿の今後の扱い」
「はい」
「そして、お前の今後だ」
食卓が静かになった。
セレスティアは、箸を置いた。
「わたくしの今後」
「そうだ」
王は、父の顔ではなく、王の顔になっていた。
「邪神は終わった」
「はい」
「だが、剣神セレスティアは残る」
「はい」
「真神格の現世神として、世界に残る」
「はい」
「これをどう扱うかは、世界にとって重大な問題になる」
セレスティアは、静かに頷いた。
分かっていた。
邪神を斬れば終わりではない。
むしろ、邪神を斬った後の方が難しい。
自分は、真神格へ至った剣神。
不老不死に近い存在。
世界の理へ干渉できる現世神。
このまま何も定めなければ、崇拝、政治利用、軍事利用、信仰対立、あらゆる問題が起こる。
王は続けた。
「お前を神殿に置くつもりはない」
「はい」
「王権の象徴にするつもりもない」
「はい」
「白樹の森の武力として掲げるつもりもない」
「はい」
「だが、何も決めずに放置すれば、周囲が勝手に意味を作る」
「はい」
ルシェルが、今度は記録板を取った。
王妃は止めなかった。
これは食事中の雑談ではなく、戦後処理だった。
セレスティアは言った。
「わたくしは、崇められることを望みません」
「分かっている」
「祀られることも望みません」
「ああ」
「剣神として神格を得ましたが、世界へ頻繁に干渉するつもりはありません」
「ああ」
「邪神討伐は、世界の理を侵すものを終わらせるためでした」
「ああ」
「今後も、わたくしは世界の統治者にはなりません」
王は頷いた。
「その方針を、世界連合で明文化する」
ルシェルが筆を走らせる。
「剣神セレスティアの非統治宣言」
セレスティアは、少しだけ顔を上げた。
「非統治宣言」
「はい」
ルシェルは真面目に続けた。
「剣神セレスティアは、邪神討伐後においても、世界の統治者、王権の源泉、軍事的支配者、信仰上の強制対象とはならない」
「はい」
「現世神として世界に在るが、世界の日常的統治へ干渉しない」
「はい」
「ただし、世界の理を侵す外理的存在、死者の眠りを冒涜する存在、魂の座を侵す存在に限り、最後の刃として立つ」
セレスティアは頷いた。
「それでよいです」
王妃が言った。
「それに加えて、生活上の扱いも定めましょう」
「生活上?」
「あなたは帰ってきたのです」
「はい」
「なら、食事をします」
「はい」
「休みます」
「はい」
「家族と過ごします」
「はい」
「必要があれば鍛冶場にも行きます」
「はい」
「神だからといって、食卓から離してはなりません」
ルシェルが記録する。
「剣神セレスティアの地上生活維持条項」
セレスティアは目を瞬かせた。
「それも条項になるのですか」
「なります」
王妃は断言した。
「神格が耐えがたい時間である以上、地上生活を維持することは精神安定上重要です」
解白が淡く言った。
『同意』
黒星も鳴る。
『重要』
閃白も澄んで言った。
『極めて重要です』
セレスティアは、少しだけ肩を落とした。
「三振りまで」
ミレーヌが言った。
「私も賛成です」
「ミレーヌまで」
「お姉様には、食卓にいてほしいです」
その言葉に、セレスティアは反論できなかった。
「……はい」
王が言った。
「今日の世界連合会議で、その方針を出す」
「はい」
「その前に、名もなき森の確認を行う」
セレスティアは、表情を静かにした。
「前世セレスティアの身体ですね」
「ああ」
邪神は終わった。
魂の座の残渣も消えた。
前世セレスティアは完全な眠りへ移行した。
だが、その肉体はまだ名もなき森にある。
邪神格に使われたため、朽ちずに不腐敗となっていた身体。
今は清められた、神聖なる肉体。
魂の座の残渣が消えた今、その身体がどうなっているか確認する必要がある。
セレスティアは頷いた。
「行きます」
ミレーヌが言った。
「私も行きたいです」
王妃がミレーヌを見た。
「傷があります」
「歩けます」
「無理は」
「しません」
ミレーヌは、まっすぐ言った。
「剣聖セレスティア様の名を読みました」
「はい」
「眠るべき者と読みました」
「はい」
「なら、最後に確認したいのです」
王妃は少しだけ沈黙した。
そして、セレスティアを見た。
セレスティアは頷いた。
「一緒に行きましょう」
ミレーヌの顔が少し明るくなった。
「はい」
午前。
名もなき森への転移陣が開かれた。
同行するのは、セレスティア、ミレーヌ、ルシェル、王妃、そして数名の精霊術師。
王は白樹の森に残り、各地の戦後処理を指揮する。
ゴルドも後で来ると言っていたが、今はグランガルドの被害確認が先だった。
転移の光が消えると、名もなき森の石畳に立っていた。
森は静かだった。
以前よりも、さらに静かだった。
邪の気配はない。
清浄の気配も、過剰ではない。
ただ、森としてそこにある。
鳥が鳴いていた。
小さな風が木々を揺らしている。
ミレーヌが小さく言った。
「ここが」
「はい」
「前世のお姉様が眠る場所」
「はい」
石室への道を進む。
入口にいた精霊たちが、淡く揺れた。
以前よりも穏やかだった。
扉が開く。
中には、石棺がある。
刻まれた一文。
セレスティア、ここに眠る。
セレスティアは、その前に立った。
ミレーヌは、胸の前で手を握った。
祈りではない。
ただ、緊張を抑えるためだった。
王妃が、静かに言った。
「開けます」
精霊術師たちが慎重に石棺の蓋を動かす。
聖布が見えた。
その下に、前世セレスティアの肉体が眠っている。
セレスティアは、神眼を必要な深さだけ開いた。
魂の座を見る。
そこには、もう光はなかった。
邪神の残滓もない。
魂の残渣もない。
空虚ではない。
静かな終わりだった。
剣聖セレスティアは、もう眠った。
セレスティアは、静かに息を吐いた。
「完全に眠っています」
ミレーヌの目に涙が浮かぶ。
「本当に」
「はい」
「もう、邪神に使われませんか」
「使われません」
「もう、戦わなくていいのですね」
「はい」
「よかった」
ミレーヌは、静かに泣いた。
王妃がその肩を抱く。
ルシェルは、記録板に書いた。
名もなき森安置所確認。
前世セレスティア肉体、邪神反応なし。
魂の座残渣なし。
清浄安定。
完全な眠りへ移行したものと確認。
セレスティアは、石棺の前に膝をついた。
神は跪かない。
だが、これは神としての行為ではない。
自分と同じ名を持つ死者への礼だった。
「終わりました」
静かに言う。
「邪神戦争は、終わりました」
聖布は動かない。
光もない。
返事もない。
それでよかった。
眠っているのだから。
「あなたは、眠っていてください」
セレスティアは頭を下げた。
「ありがとうございました」
ミレーヌも隣に膝をついた。
「ありがとうございました」
王妃も頭を下げる。
ルシェルも記録板を置き、深く頭を下げた。
石室に、静かな時間が流れた。
その時、セレスティアは一つ気づいた。
前世セレスティアの肉体。
これまでは、邪神格に使われた影響で不腐敗となっていた。
だが、魂の座の残渣が消え、邪神反応も消えた今、その身体はわずかに変化している。
腐敗ではない。
崩壊でもない。
硬直した不自然さが消え、ただ眠る死者の身体へ戻ろうとしている。
セレスティアは、王妃を見た。
「お母様」
「はい」
「この身体は、いずれ自然へ還るかもしれません」
王妃は頷いた。
「それがよいのでしょうね」
「はい」
「不腐敗で存在し続けることは、眠りではありませんから」
「はい」
ルシェルが記録する。
「前世セレスティア肉体、不自然な不腐敗状態から自然遷移の兆候あり」
ミレーヌが言った。
「では、ここで眠り続けるのですか」
セレスティアは、しばらく石棺を見た。
崇めず。
祀らず。
ただ眠る。
その方針は変わらない。
だが、魂の座の残渣が消えた今、前世セレスティアは本当の死者になった。
なら、いつまでも特殊な石室に隔離する必要はあるのか。
それもまた、考えなければならない。
「すぐには決めません」
セレスティアは言った。
「はい」
「ですが、いずれは、名もなき森の土へ還すのがよいかもしれません」
王妃が頷く。
「その時は、葬送を行いましょう」
「はい」
「崇拝ではなく」
「はい」
「一人の死者として」
「はい」
ミレーヌは涙を拭いた。
「私も、その時は来ます」
「はい」
石棺は、再び閉じられた。
聖布は静かに覆われる。
セレスティア、ここに眠る。
その文字は、以前と同じだった。
だが、意味は変わっていた。
邪神に使われた肉体を封じる場所ではない。
眠る死者を守る場所。
それだけになった。
名もなき森から戻ると、白樹の森では世界連合会議の準備が整っていた。
各地の代表は疲れ切っていた。
だが、顔つきは昨日までと違う。
邪神の圧に耐える顔ではない。
戦後を処理する者の顔だった。
大広間の中央に、王が立つ。
その隣に、セレスティアが立った。
誰も跪かない。
誰も祈らない。
ただ、全員が深く頭を下げた。
王が言った。
「邪神は討たれた」
静かな声だった。
「剣神セレスティアは帰還した」
全員が沈黙して聞く。
「三賢者の封印は役目を終えた」
「アルディス、メルゼア、ロウガン・エルドは眠りへ移行したものと確認された」
「剣聖セレスティアもまた、完全な眠りへ入った」
大広間に、深い沈黙が落ちる。
王は続けた。
「だが、世界はこれで完全になったわけではない」
「邪神戦争は終わった」
「しかし、死者の記録、被害の確認、復旧、そして今後の在り方を決める仕事が残っている」
王は、セレスティアへ視線を向けた。
「まず、剣神セレスティアの扱いについて確認する」
大広間の空気が張る。
セレスティアは、一歩前へ出た。
「剣神セレスティアとして、申し上げます」
声は静かだった。
「わたくしは、世界の統治者にはなりません」
全員が聞いている。
「白樹の森の王権の源泉にもなりません」
「軍事力として諸国を従わせることもしません」
「信仰を強制することも望みません」
「わたくしは現世神として、この世界に在ります」
「ですが、世界の日常へ干渉しません」
「各地の統治、争い、法、暮らしは、この世界に生きる者たちが担うべきものです」
セレスティアは、少し間を置いた。
「ただし」
黒星が低く鳴る。
「世界の理を侵す外理的存在」
閃白が澄む。
「死者の眠りを冒涜する存在」
解白が淡く光る。
「魂の座を侵す存在」
セレスティアは、静かに続けた。
「そのような、世界が届かぬ最後の一点においてのみ、わたくしは刃となります」
大広間に、緊張と安堵が同時に満ちた。
ドワーフ代表が頷いた。
「それでいい」
海の巫女も言った。
「剣神様を政治に置いてはなりません」
竜の使いが低く言う。
「神を王にすれば、世界は竜脈より先に歪む」
人間王国の使節が深く頭を下げた。
「王国も、その宣言を承認します」
草原の族長が言った。
「剣神を旗に戦争を起こす者が出たら、そいつは邪神戦争から何も学んでいない」
山の隠れ里の長が頷く。
「記録に残すべきです」
ルシェルが言った。
「剣神セレスティア非統治宣言として、世界連合正式記録に残します」
王が頷いた。
「承認を問う」
各代表が、一人ずつ答えた。
「承認」
「承認」
「承認」
「承認」
「承認」
「承認」
「承認」
ルシェルが記録する。
剣神セレスティア非統治宣言。
世界連合により承認。
続いて、王妃が静かに言った。
「もう一つ」
全員が王妃を見る。
「剣神セレスティアの地上生活維持についても、白樹の森王家として宣言します」
セレスティアは、少しだけ目を伏せた。
本当に会議で言うらしい。
王妃は真剣だった。
「剣神セレスティアは、真神格の現世神であると同時に、地上に帰還した者です」
「よって、食事、休息、家族との時間、友人との交流、鍛冶場への訪問、日常的生活を維持することは、神格安定上重要であると確認します」
大広間は静かだった。
だが、誰も笑わない。
それがどれほど大切か、誰もが分かっていた。
邪神は、神格の孤独を突いてきた。
耐えがたい時間を突いてきた。
だから、地上生活を維持することは、単なる私事ではない。
剣神が神だけにならないための、世界的な安全策だった。
ゴルドの通信が入った。
「干し肉も入れろ」
大広間が一瞬だけ静まった。
セレスティアは、頭を抱えそうになった。
「親方」
通信の向こうでゴルドが言う。
「現世神性維持食材だろうが」
解白が淡く言った。
『正式分類済み』
ルシェルが記録しようとする。
「ルシェル、待ちなさい」
「しかし」
「そこは記録しなくてよろしいです」
王妃が言った。
「いえ、記録しましょう」
「お母様」
王妃は真面目に続ける。
「ただし、文言を整えます」
ルシェルが頷く。
「剣神セレスティアの地上生活維持に関し、食事内容には白樹の森の通常食、保存食、各地由来の地上食を含む」
ゴルドが言う。
「干し肉と書け」
王が、珍しく少し笑った。
「補足資料に記載せよ」
「お父様まで」
大広間に、小さな笑いが広がった。
それは戦後初めての、軽い笑いだった。
セレスティアは、肩を落としながらも笑った。
この笑いがあるなら、大丈夫だと思った。
神だけにはならない。
させてもらえない。
世界連合会議の最後に、死者名簿の扱いが確認された。
完全な名が判明した者。
役目のみ判明した者。
場所のみ判明した者。
未判明のまま残る者。
すべてを記録する。
未判明は、未判明として固定する。
忘却ではない。
探索継続対象である。
死者を美しい物語で上書きしない。
英雄として飾りすぎない。
犠牲としてまとめすぎない。
一人の死者として扱う。
アルディス。
メルゼア。
ロウガン・エルド。
剣聖セレスティア。
彼らもまた、崇めすぎず、役目を押しつけず、眠るべき者として記録する。
会議は、長く続いた。
だが、邪神の圧はもうない。
議論は疲れていたが、前を向いていた。
夕刻。
セレスティアは、白樹の森の外れに立っていた。
空は薄い金色に染まっている。
雨上がりの森は、濡れた匂いがした。
黒星が背で静かに鳴る。
『終わったな』
「はい」
閃白が言う。
『本当に、終わりました』
「はい」
解白が淡く告げる。
『邪神反応なし。戦後処理、多数』
「それは分かっています」
セレスティアは、遠くを見る。
これから、やるべきことは多い。
死者名簿。
被害復旧。
封印地外縁の処理。
名もなき森の今後。
剣神としての在り方。
そして、耐えがたい時間との付き合い方。
邪神は終わった。
だが、世界は続く。
不完全なまま。
だからこそ、続く。
背後からミレーヌが来た。
「お姉様」
「ミレーヌ」
「夕食です」
「もうですか」
「はい。お母様が呼んでいます」
「行きます」
「今日は干し肉もあります」
セレスティアは、少しだけ空を見上げた。
「やはり」
ミレーヌが笑った。
「でも、豆の煮込みもあります」
「それは嬉しいです」
「ロウガン様の豆の塩煮も、再現したそうです」
セレスティアは、目を細めた。
「そうですか」
「はい」
二人は並んで歩き出した。
白樹の森の道を。
神と人ではなく。
姉と妹として。
世界は不完全だ。
死者は戻らない。
忘れられるものもある。
争いも、迷いも、悲しみも消えない。
それでも、今、夕食がある。
帰る場所がある。
呼んでくれる声がある。
それで十分だった。
剣神セレスティアは、白樹の森の食卓へ戻っていった。
邪神戦争の翌朝から始まった一日は、静かに暮れていく。
世界は、終わらなかった。
そして、終わらなかった世界の仕事が、ここから始まる。




