第75話 死者の名を刻む
邪神戦争が終わって、二日目。
白樹の森の大広間には、世界連合の代表たちが集まっていた。
昨日までそこは、戦況報告と封印維持の指示が飛び交う場所だった。
今日は違う。
机の上に広げられているのは、地図でも封印図でもない。
名簿だった。
七十年前の邪神戦争で死んだ者。
封印補助に関わった者。
不死の軍勢にされた者。
名を取り戻された者。
役目だけが分かった者。
場所だけが分かった者。
そして、最後まで名が分からなかった者。
その全てを、正式記録に刻むための会議だった。
王が議長席に立っていた。
その隣には、セレスティアがいる。
背には黒星。
左腰には閃白。
背には解白。
真神格の剣神。
邪神を斬った現世神。
だが、今日は剣を抜くために立っているのではない。
死者の名を刻むために立っていた。
王が言った。
「本日の議題は、邪神戦争死者名簿の正式確定である」
大広間は静かだった。
「完全な名が判明した者」
「はい」
「役目のみ判明した者」
「はい」
「場所のみ判明した者」
「はい」
「氏名、役目、場所のいずれも確定しないが、封印補助または戦争被害に関与したと認められる者」
「はい」
「その全てを記録する」
ルシェルが記録板へ筆を走らせていた。
ミレーヌは、厚い名簿を胸に抱えている。
目元には疲れが残っていた。
だが、姿勢は崩れていない。
古記録庫で名を読み続けた者の顔だった。
人間王国の記録官が立ち上がる。
「完全な氏名が確認された者は、現時点で全体の六割九分です」
ルシェルが確認する。
「昨日の確定値と同じですね」
「はい」
「追加照合はありましたか」
「三名について異説が出ましたが、同一人物と断定できないため、別記扱いとしました」
「妥当です」
ミレーヌが小さく頷いた。
「誤って一人にまとめるより、別記の方がよいです」
「はい」
海の民の巫女が言った。
「海底楔補助者の一部は、名ではなく役目だけが残っています」
王が問う。
「役目とは」
「楔縄を結んだ者、第三霊流班の補助、海底灯の運搬者などです」
「氏名は」
「不明です」
大広間が静まる。
だが、誰もそれを軽んじなかった。
ルシェルが言った。
「役目のみ判明として記録します」
ミレーヌが続けた。
「ただし、その役目を英雄化しすぎないこと」
海の巫女は頷いた。
「承知しています」
ミレーヌは名簿を開いた。
「楔縄を結んだ者」
「第三霊流班を補助した者」
「海底灯を運んだ者」
「氏名未判明」
「探索継続対象」
「忘却せず」
その言葉が、大広間に静かに落ちた。
セレスティアは、目を伏せた。
邪神の座で聞いた声を思い出す。
名を呼ぶ声。
役目を呼ぶ声。
未判明を未判明として残す声。
それが、死者を邪神から遠ざけていた。
竜の谷の使いが言った。
「竜脈支援に関わった古竜の名は残っている。しかし、その背に乗って封印杭を運んだ小竜の名が一部失われている」
ルシェルが確認する。
「個体識別は可能ですか」
「鱗紋の記録が一部残っている」
「では、鱗紋記録を添付してください。名が判明しない限り、鱗紋識別個体として記録します」
竜の使いは、深く頷いた。
「ありがたい」
ドワーフ代表が腕を組んで言った。
「グランガルド側は、封印杭を打った職人の名は大体残ってる」
「はい」
「だが、鉄を運んだ者、炭を焼いた者、炉を守った者は抜けが多い」
ゴルドの通信が繋がっていた。
声だけが大広間に響く。
「そいつらを抜かすな」
王が頷く。
「抜かさぬ」
ゴルドが続けた。
「邪神を斬った刃だけが戦いじゃねぇ」
大広間の全員が聞いていた。
「鉄を運んだ手も、炭を焼いた背中も、飯を作った奴も、全部戦いだ」
セレスティアは、静かに頷いた。
「その通りです」
ゴルドは鼻を鳴らした。
「バカ姫が分かってんならいい」
「親方」
「で、干し肉は食ったか」
大広間が一瞬だけ静まった。
王妃が静かに答えた。
「朝食で食べさせました」
「よし」
セレスティアは、少しだけ肩を落とした。
「この会議で確認することですの?」
解白が淡く言った。
『地上生活維持記録として有効』
「解白まで」
ルシェルが記録しようとした。
王妃が視線を向けた。
ルシェルは筆を止めた。
「後で別紙にします」
「別紙にも不要です」
大広間に、小さな笑いが起きた。
その笑いはすぐに静まった。
だが、よかった。
死者の名を刻む会議であっても、生者は笑ってよい。
それもまた、邪神と違うことだった。
人間王国の老記録官が、次の束を出した。
「問題は、名の分からない者たちです」
大広間が、再び重くなる。
「七十年前の資料には、戦闘後にまとめられた『数』しか残っていない箇所があります」
ルシェルが問う。
「人数のみということですね」
「はい」
「場所は」
「おおよそは」
「役目は」
「不明です」
老記録官は、悔しそうに紙を握った。
「三十七名」
「南方砂漠の補助陣地周辺」
「氏名不明」
「役目不明」
「詳細不明」
その言葉は重かった。
ミレーヌが、静かに名簿を開いた。
「では、そのまま記録します」
老記録官は目を伏せた。
「それでは、あまりに」
「飾ってはいけません」
ミレーヌの声は、優しかった。
だが、強かった。
「分からないものを、分かったことにしてはいけません」
「はい」
「その人たちは、確かにいました」
「はい」
「でも、私たちはまだ名前を知らない」
「はい」
「なら、知らないと記録します」
セレスティアが続けた。
「未判明は、忘却ではありません」
大広間の視線が、セレスティアへ向く。
「分からないものを分からないまま残すことは、怠慢ではありません」
黒星が低く鳴る。
「むしろ、都合のよい物語で死者を塗り替えないための誠実さです」
閃白が澄む。
「その者たちを英雄に仕立て上げる必要はありません」
解白が淡く光る。
「その者たちを、数として片づけてもなりません」
セレスティアは、静かに言った。
「氏名未判明」
「南方砂漠補助陣地周辺にて確認された三十七名」
「役目不明」
「探索継続対象」
「忘却せず」
老記録官は、深く頭を下げた。
「そのように、記録します」
会議は続いた。
名がある者。
名がない者。
役目がある者。
役目すら分からない者。
死体が見つかった者。
痕跡だけが残った者。
伝承にのみ現れる者。
伝承すら失われ、数字だけになった者。
それらを、一つずつ確認した。
途中、ある貴族家の使者が口を開いた。
「我が家の先祖についてですが」
ルシェルが視線を向ける。
「はい」
「七十年前の封印補助者名簿に、当家の名を加えていただきたい」
大広間が静まった。
王が問う。
「根拠は」
「家伝にございます」
「資料は」
「現在、整理中でして」
ルシェルの目が鋭くなった。
「整理中の資料では、正式名簿には加えられません」
「しかし、当家は古くから」
「証拠が必要です」
「伝承では」
「伝承は参考記録です。確定記録ではありません」
使者の顔がこわばる。
「剣神様の御前で、当家の忠義を疑うのですか」
大広間の空気が冷えた。
セレスティアは、ゆっくりとその使者を見た。
「わたくしの御前だからこそ、証拠が必要です」
使者は息を呑んだ。
「死者の名誉回復は、家の名誉を飾るためのものではありません」
「いえ、そのようなつもりでは」
「ならば、資料を出してください」
セレスティアの声は静かだった。
「資料があれば確認します」
「証拠があれば記録します」
「分からなければ、分からないと残します」
「ですが、剣神の前だからという理由で名を加えることはありません」
ルシェルが記録板へ書く。
「証拠なき名簿追加は不可」
ミレーヌが続けた。
「死者の名を、家の飾りにしてはいけません」
使者は、何も言えなくなった。
王が静かに言った。
「資料が整い次第、再提出せよ」
「……はい」
そのやり取りを、大広間の代表たちは黙って見ていた。
邪神は死者を利用した。
だからこそ、戦後の世界は、死者の名を利用してはならない。
その線が、ここで引かれた。
昼を過ぎても、会議は続いた。
王妃が食事を運ばせた。
名簿の上にこぼさないよう、別卓が用意される。
誰も食事を抜くことは許されなかった。
王妃が言った。
「死者の名を記録する者が倒れてはなりません」
全員が従った。
セレスティアも食べた。
当然のように、干し肉もあった。
ゴルドから届いたものだった。
セレスティアはそれを噛んだ。
硬い。
やはり硬い。
死者名簿の正式会議中でも硬い。
「硬いですわ」
ミレーヌが少し笑った。
「お姉様、それは記録しますか」
「しなくてよろしいです」
ルシェルは記録板を見た。
王妃が見た。
ルシェルは筆を置いた。
午後。
三賢者の記録に入った。
アルディス。
メルゼア。
ロウガン・エルド。
七十年前、邪神本体を封印した三賢者。
世界を守った者たち。
だが、セレスティアは、最初に言った。
「三賢者を、柱としてだけ記録しないでください」
ルシェルが頷く。
「はい」
「アルディスは、境界を閉じた賢者です」
「はい」
「メルゼアは、魂の逆流を止めた賢者です」
「はい」
「ロウガン・エルドは、圧力結界の賢者です」
「はい」
「ですが、それだけではありません」
セレスティアは、ロウガンの記録を手に取った。
「ロウガン・エルド」
「辺境村出身」
「石工の子」
「豆の塩煮を好む」
「字が汚い」
「弟子の額を小突く癖があった」
「橋の設計に失敗して川へ落ちたことがある」
ドワーフ代表が笑いをこらえた。
ゴルドの通信が低く鳴る。
「あいつらしい」
セレスティアは続けた。
「これらも記録してください」
人間王国の記録官が少し戸惑う。
「しかし、正式記録に好物や失敗談まで」
「必要です」
セレスティアは即答した。
「邪神は、彼らを柱として扱いました」
「はい」
「ならば、わたくしたちは彼らを人として記録します」
大広間に静かな納得が広がった。
ルシェルが記録する。
「三賢者については、封印上の功績に加え、可能な限り人物像、出身、嗜好、癖、生活上の記録も併記する」
ミレーヌが言った。
「役目だけではなく、人として」
「はい」
次に、剣聖セレスティアの記録へ移った。
大広間が、少しだけ緊張した。
前世セレスティア。
七十年前、退路を守って死んだ剣聖。
死後、邪神格に肉体を利用された者。
剣神セレスティアによって解放された者。
名もなき森に安置され、最終決戦で剣神の眷属として一時顕現し、死者の側から邪神を拒んだ者。
そして、完全な眠りへ移行した者。
この記録をどう扱うかは、重要だった。
神聖化しすぎれば、また利用される。
軽く扱えば、冒涜になる。
セレスティアは、静かに言った。
「剣聖セレスティアは、祀らないでください」
ルシェルが筆を構える。
「はい」
「聖遺物化しないでください」
「はい」
「神剣の由来として飾りすぎないでください」
「はい」
「邪神に使われた被害者としてだけ記録するのも違います」
「はい」
「彼女は、七十年前に戦い、死にました」
「はい」
「死後、邪神に肉体を利用されました」
「はい」
「そして最後に、眠るために、自ら残った想いで立ちました」
大広間は静かだった。
セレスティアは、少しだけ目を伏せた。
「記録してください」
ルシェルが頷く。
「剣聖セレスティア」
「七十年前、邪神戦争にて退路を守り死去」
「死後、邪神格により肉体を利用される」
「剣神セレスティアにより邪神格から解放」
「名もなき森に安置」
「魂の座に残った想いが、最終決戦にて剣神セレスティアの真神格に呼応」
「一時的な剣神眷属として顕現」
「死者の側から邪神を拒絶」
「最終決戦後、完全な眠りへ移行」
ミレーヌが、静かに付け加えた。
「役目を終えた者」
「眠るべき者」
「忘却せず」
ルシェルは、それも記録した。
セレスティアは、深く息を吐いた。
少しだけ胸が痛い。
だが、よかった。
前世セレスティアは、伝説の素材にされるのではない。
一人の死者として、記録される。
最後に、王が言った。
「では、総括文を決める」
全員が姿勢を正した。
ルシェルが読み上げる。
「邪神戦争死者名簿、正式記録総括」
「本記録は、邪神戦争における死者、封印補助者、被害者、支援者、役目のみ判明した者、場所のみ判明した者、氏名未判明の者を含む」
「氏名未判明者は、忘却された者ではなく、探索継続対象として扱う」
「本記録は、死者を英雄化しすぎず、犠牲としてまとめすぎず、一人の存在として記録することを目的とする」
「死者の名を、政治的名誉、信仰、商業、権威づけに利用してはならない」
「三賢者、剣聖セレスティアを含む全ての死者は、役目を終えた者、眠るべき者として扱う」
「死者は、邪神に従わなかった」
その最後の一文で、大広間の空気が変わった。
死者は、邪神に従わなかった。
邪神は死者を使った。
死者を盾にした。
役目を押しつけた。
魂の座を器にした。
だが、最後に死者は邪神を拒んだ。
その記録が、ここに残る。
王が問う。
「異議は」
誰も答えなかった。
「承認する者は」
各代表が、一人ずつ答えた。
「承認」
「承認」
「承認」
「承認」
「承認」
「承認」
「承認」
ルシェルが記録した。
邪神戦争死者名簿、世界連合により正式承認。
ミレーヌは、名簿を抱きしめた。
セレスティアは、静かに頭を下げた。
「ありがとうございます」
大広間の者たちも、頭を下げた。
祈りではない。
死者への礼だった。
夕刻。
白樹の森の外れに、仮の記録碑が立てられた。
本式の石碑は、これから各地の石工、彫師、記録官が協力して作る。
今日は、仮の木碑だった。
そこに、最初の文が刻まれた。
邪神戦争で亡くなった者たちへ。
完全な名が分かる者。
役目のみ分かる者。
場所のみ分かる者。
名も役目も場所も分からぬ者。
全てを、忘却せず。
死者は、邪神に従わなかった。
セレスティアは、その木碑の前に立った。
黒星も、閃白も、解白も静かだった。
ミレーヌが隣に立つ。
ルシェルは少し後ろで記録している。
王妃は花を置いた。
王は、ただ頭を下げた。
ゴルドから通信が入った。
「文字は曲げるなよ」
ルシェルが答えた。
「本式の石碑では確認します」
「ロウガンの字は汚かったが、碑の字まで汚くするな」
ミレーヌが少し笑った。
セレスティアも笑った。
「親方らしいですわ」
夕日が、木碑を照らしていた。
邪神戦争は終わった。
だが、死者の名を刻む仕事は始まったばかりだった。
名が分からない者は、まだ分からない。
失われた記録は、すぐには戻らない。
それでも、世界は決めた。
分からないものを、分からないまま残す。
探し続ける。
忘れない。
死者を、勝利の飾りにしない。
死者を、権威の道具にしない。
死者を、祈りの材料にしない。
死者は、眠る。
生者は、記録する。
セレスティアは、木碑へ向かって静かに頭を下げた。
「安らかに」
風が、白樹の森を抜けた。
木碑の文字が、夕日に照らされていた。
氏名未判明。
探索継続対象。
忘却せず。
それは、邪神が最も嫌う記録だった。




