第8話 酒三樽
黒星が完成した翌朝。
セレスティアは、いつもより少しだけ機嫌がよかった。
宿の鏡の前に立ち、背負い具の位置を確かめる。
黒星は背にある。
黒銀の大剣。
今生の自分のために、ゴルド・ガルガンドが五十一年ぶりに打った剣。
ただ背負っているだけで、身体の中心が定まる。
肩にかかる重み。
背に沿う圧。
柄の位置。
歩いたときの揺れ。
どれも前世の黒星とは違う。
けれど、間違いなく黒星だった。
「……落ち着きますわね」
セレスティアは、鏡に映る自分を見た。
銀糸の髪。
翠玉の瞳。
白樹の森の王女らしい整った顔立ち。
そして、背には巨大な黒銀の大剣。
王宮の礼法教師が見たら、たぶん気絶する。
侍女たちは泣くかもしれない。
王と王妃は頭を抱えるだろう。
だが、セレスティアは満足だった。
やはり、背に大剣がないと落ち着かない。
宿の女将が朝食を運んできた。
今日も多い。
肉。
卵。
豆。
魚。
黒パン。
山羊乳。
さらに、蜂蜜をかけた焼き芋まである。
セレスティアは皿を見て、少しだけ首を傾げた。
「女将さん」
「何だい、姫さん」
「今日は甘いものもありますのね」
「ゴルド親方からだよ。黒星が完成したから、少し甘いものも食わせろってさ」
セレスティアは瞬きした。
「ゴルド親方が?」
「ああ。あの親方が、わざわざね」
「……そうですか」
セレスティアは、少しだけ目を伏せた。
ゴルドは相変わらず口が悪い。
看板は増やす。
バカ姫と書く。
床を割ったことまで掲示する。
だが、こういうところがある。
前世でもそうだった。
大きな戦いの前には、何も言わずに剣を研いでくれた。
遠征から戻ると、怒鳴りながら黒星と閃白を点検してくれた。
言葉は乱暴なのに、手だけはいつも細かかった。
セレスティアは朝食を食べた。
今日もきちんと食べる。
ゴルドに言われたから、というだけではない。
黒星を背負う身体には、確かに食事が必要だった。
魔力だけでは足りない。
骨も、筋も、血も、剣士の一部である。
食事を終えると、セレスティアは宿を出た。
鍛冶町グランガルドの朝は、今日も騒がしい。
槌の音。
車輪の音。
職人たちの怒鳴り声。
炉の煙。
その中を、黒星を背負ったセレスティアが歩く。
昨日までより、明らかに視線が多かった。
当然である。
看板の効果もある。
黒星完成。
床破壊注意。
バカ姫、黒星試振りで床を割る。
あのようなものを入口に並べられれば、町中の噂になる。
さらに今朝、宿を出る前に女将から聞いた話では、すでに町の子どもたちの間で、
「バカ姫の大剣」
という呼び名が広まり始めているらしい。
セレスティアとしては、非常に不本意である。
だが、黒星を背負っていることの満足感が勝っていた。
不本意ではある。
だが、今日は少し寛大でいられる。
セレスティアは、ゴルドの鍛冶場へ向かう途中で、ふと足を止めた。
通りの角に、酒屋があった。
大きな木樽が並んでいる。
店先には、ドワーフの酒。
山葡萄酒。
麦酒。
火酒。
蜂蜜酒。
さまざまな札がかかっていた。
セレスティアは、その酒屋を見つめた。
前世の記憶が浮かぶ。
ゴルドは酒が好きだった。
特に、強い火酒と、よく寝かせた麦酒を好んだ。
仕事の後、炉の火を落とし、黒星と閃白の調整を終えると、よく酒を飲んでいた。
前世のセレスティアは、人間の公爵令嬢だった。
社交の場で葡萄酒を飲むことはあった。
だが、ドワーフの火酒は別物だった。
一度、ゴルドに勧められて飲んだことがある。
喉が燃えた。
ゴルドは笑った。
前世の自分は怒った。
たぶん、そんな記憶だった。
セレスティアは少し考えた。
黒星が完成した。
五十一年ぶりに、ゴルドが剣を打った。
これは祝うべきことだ。
そして、ゴルドは酒が好きだ。
ならば、礼として酒を持っていくのは自然である。
セレスティアは酒屋へ入った。
店主のドワーフが顔を上げる。
「いらっしゃい……おお」
店主はセレスティアの背中を見た。
黒星。
そして顔を見る。
銀髪のハイエルフ。
さらに、何かに気づいたように手を打った。
「あんたが噂のバカ姫か」
セレスティアは静かに微笑んだ。
店内の空気が少し冷えた。
「白樹の森、ハイエルフ王家第1王女セレスティア・リュミエール・アルヴァレインですわ」
店主は一瞬固まった。
そして、豪快に笑った。
「悪い悪い。町中でそう呼ばれてるもんでな」
「原因はゴルド親方の看板ですわ」
「あれは傑作だ」
「わたくしとしては複雑です」
「まあ、ゴルド親方がああいう看板を出す相手ってことは、気に入られてる証拠だ」
「悪口ではなく?」
「悪口も混ざってるな」
「混ざっているのですね」
「ドワーフ流だ」
「便利な言葉ですわね」
店主はまた笑った。
セレスティアは店内を見回す。
樽が並んでいる。
木の香り。
酒の匂い。
ほんのり甘い香り。
喉の奥が熱くなりそうな強い香り。
どれも白樹の森には少ないものだった。
「ゴルド親方へ持っていく酒を選びたいのです」
店主の顔つきが変わった。
「ゴルド親方へ?」
「はい。黒星を造っていただいた礼ですわ」
「なら、半端な酒は出せねぇな」
店主は腕を組み、奥の棚を見た。
「親方なら、まず火酒だ。強いやつ。喉を焼くくらいでちょうどいい」
「それは前世でも覚えがありますわ」
「あんた、本当に剣聖セレスティアの生まれ変わりなのか?」
「そうですわ」
「普通に言うんだな」
「事実ですので」
「なるほど。ゴルド親方が剣を打つわけだ」
店主は奥から小樽を転がしてきた。
「これは山底火酒。ドワーフでも酔う」
「危険な響きですわね」
「祝いにはいい」
「では、それを一樽」
「一樽?」
「はい」
店主は目を丸くした。
「姫さん、本気か?」
「ええ」
「火酒だぞ。杯で飲むものだ。樽で贈るやつはそういない」
「ゴルド親方ですもの」
「それはそうだが」
セレスティアは次の樽を見た。
「こちらは?」
「黒麦の熟成酒だ。十年寝かせてある。火酒ほど強くはねぇが、味が深い。鍛冶師連中はこっちも好む」
「それも一樽」
店主は固まった。
「二樽目だぞ」
「はい」
「運べるのか?」
「魔法がありますわ」
「そういう問題か?」
「問題ありませんわ」
セレスティアは、さらに別の樽を見た。
「こちらは甘い香りがしますわね」
「蜂蜜酒だ。北の森の蜂蜜を使っている。飲みやすい。女連れや祝いの席で人気だ」
「では、それも一樽」
店主は、今度こそ完全に黙った。
しばらくして、ゆっくりと言う。
「三樽?」
「はい」
「ゴルド親方に?」
「はい」
「酒を三樽買っていくのか?」
「はい」
店主は、セレスティアを見た。
背の黒星を見た。
再びセレスティアを見た。
それから、腹を抱えて笑い出した。
「がははははは!」
店の奥から別の店員が顔を出す。
「何だ?」
「バカ姫が酒を三樽買っていく!」
「三樽!?」
「ゴルド親方にだ!」
店内が一気に騒がしくなった。
セレスティアは、少し不満げに眉を寄せる。
「その呼び名は、そろそろ訂正したいところですわ」
店主は涙を拭いながら言った。
「いや、無理だな。酒を三樽買う王女なんて、バカ姫で十分だ」
「感謝の品ですわ」
「普通は瓶だ」
「ゴルド親方ですもの」
「その理屈が通るのが怖いな」
セレスティアは金貨を出した。
店主は値段を告げる。
高い。
だが、セレスティアは迷わず支払った。
白樹の森の王女である。
金はある。
もっとも、王宮の会計係がこの使途を見たら頭を抱えるかもしれない。
用途。
ドワーフ鍛冶師への礼品。
酒三樽。
理由。
黒星完成祝い。
説明が必要になりそうだった。
だが、今は考えないことにした。
店主が樽を三つ並べる。
山底火酒。
黒麦熟成酒。
北森蜂蜜酒。
どれも良い酒らしい。
セレスティアは、魔法で三つの樽をふわりと浮かせた。
店主が口笛を吹く。
「器用だな」
「ハイエルフですので」
「酒樽を浮かせる王女は初めて見た」
「わたくしも、酒樽を三つ買うのは初めてですわ」
「だろうな」
セレスティアは三樽を従え、酒屋を出た。
その瞬間、通りの視線が集まった。
黒星を背負ったハイエルフ王女。
その後ろに、ふわふわと浮かぶ酒樽三つ。
非常に目立つ。
目立たない方がおかしい。
通りすがりの子どもが叫んだ。
「バカ姫が酒を運んでる!」
別の子どもが言う。
「三つも!」
セレスティアは足を止めた。
子どもたちを見る。
にこりと微笑む。
「皆様」
子どもたちは固まった。
「わたくしは、バカ姫ではなく、セレスティアですわ」
子どもたちは顔を見合わせた。
そして一人が元気よく言った。
「黒星の姫!」
セレスティアは少し考えた。
「それなら、まだ許容できますわ」
別の子どもが叫ぶ。
「酒樽姫!」
「それは許容しかねますわ」
子どもたちは笑いながら走っていった。
セレスティアは、ため息をついた。
この町にいる間に、呼び名が増え続ける気がする。
鍛冶場の看板のせいである。
主にゴルドのせいである。
だが、酒樽を三つ浮かせて歩いている今、自分にも少し原因があることは認めざるを得なかった。
やがて、ゴルドの鍛冶場が見えてきた。
看板は、昨日のまま十枚。
いや。
十一枚目が増えていた。
セレスティアは嫌な予感とともに近づいた。
十一枚目には、こう書かれていた。
黒星完成済。バカ姫、浮かれ注意。
セレスティアは、静かに目を閉じた。
今朝、酒屋へ寄ったので少し遅れた。
その間に増えたらしい。
仕事が早すぎる。
入口の弟子が、セレスティアを見る。
そして、後ろの酒樽三つを見る。
口を開けた。
「姫様……それは」
「ゴルド親方へのお礼ですわ」
「三樽ですか?」
「はい」
「三樽」
「はい」
弟子は、何かを悟ったように看板置き場を見た。
セレスティアは即座に言った。
「増やしてはいけません」
「まだ何も言っていません」
「顔に出ておりますわ」
「姫様も剣のことになると顔に出ます」
「それとこれは別ですわ」
弟子は慌てて扉を開けた。
セレスティアは酒樽三つを浮かせたまま鍛冶場へ入った。
鍛冶場の中では、ゴルドが作業台に向かっていた。
今日から閃白の素材を見るはずだった。
作業台には、白い布に包まれた何かが置かれている。
おそらく、オリハルコンだ。
セレスティアの胸が跳ねた。
だが、その前にやるべきことがある。
「ゴルド親方」
「あん?」
ゴルドが顔を上げた。
そして、セレスティアの後ろに浮かぶ三樽を見た。
しばらく無言。
鍛冶場の弟子たちも無言。
古参の職人も無言。
やがて、ゴルドが低く言った。
「何だ、それは」
「お酒ですわ」
「見れば分かる」
「黒星を造っていただいたお礼です」
「三樽もか」
「はい」
「馬鹿か」
「感謝の気持ちですわ」
「普通は瓶だ」
「ゴルド親方ですもの」
「何でもそれで通ると思うな」
「通りませんの?」
「半分は通る」
「では、問題ありませんわね」
「ある」
ゴルドは額に手を当てた。
弟子たちが必死に笑いを堪えている。
セレスティアは樽を一つずつ床へ下ろした。
「山底火酒、黒麦熟成酒、北森蜂蜜酒ですわ」
ゴルドの眉がわずかに動いた。
「……山底火酒だと?」
「お好きでしょう?」
「誰に聞いた」
「覚えておりますもの」
ゴルドは少し黙った。
前世の記憶。
五十一年前の記憶。
剣を打ち終えた夜。
炉の火を落とした後。
ゴルドが飲んでいた酒。
セレスティアが一口飲んで咳き込んだ火酒。
あの記憶を、今生のセレスティアは覚えていた。
ゴルドは、ふん、と鼻を鳴らした。
「余計なことを覚えていやがる」
「大事なことですわ」
「酒がか」
「黒星を造ってくださった方への礼ですもの」
「礼なら、黒星をちゃんと振れ」
「もちろんです」
「床を割らずにな」
「努力しますわ」
「そこは断言しろ」
セレスティアは少し目を逸らした。
「黒星の性能次第ですわ」
「だからバカなんだ」
ゴルドは樽を見た。
山底火酒。
黒麦熟成酒。
北森蜂蜜酒。
どれも良い酒だと分かったのだろう。
口では文句を言いながらも、目は少しだけ柔らかい。
セレスティアは微笑んだ。
「受け取っていただけますか?」
「もう持ってきただろうが」
「返されるかと」
「返すのも面倒だ」
「では、受け取ってくださるのですね」
「置いていけ」
「はい」
ゴルドは弟子たちへ言った。
「奥へ運べ」
「はい!」
若い弟子たちが樽を運ぼうとする。
その瞬間、ゴルドが怒鳴った。
「落とすなよ! 山底火酒だぞ!」
「はい!」
セレスティアは、にこりと笑った。
「やはり、お好きですのね」
「うるせぇ」
「黒麦熟成酒もお好きでしょう?」
「うるせぇ」
「蜂蜜酒は、皆様で飲めるかと思いまして」
鍛冶場の空気が少し変わった。
弟子たちが顔を上げる。
古参の職人も、セレスティアを見る。
セレスティアは続けた。
「黒星は、ゴルド親方だけでなく、皆様のお力で完成した剣です。ですから、皆様にも礼をしたいと思いましたの」
鍛冶場が静かになる。
弟子たちは、少し照れたように顔を伏せた。
古参の職人が深く頭を下げる。
「姫様、ありがたく頂戴いたします」
「こちらこそ、ありがとうございました」
セレスティアは丁寧に頭を下げた。
王女としてではない。
剣士として。
自分の剣を造ってくれた職人たちへ向ける礼だった。
ゴルドは、それを横目で見ていた。
そして、短く言う。
「礼は閃白が終わってからでいい」
「黒星の分ですわ」
「なら閃白が終わったら、また増えるのか」
「必要でしたら」
「酒蔵でも買う気か」
「それも良いかもしれませんわね」
「やめろ」
「冗談ですわ」
「お前の冗談は冗談に聞こえねぇ」
そのとき、入口の方から小さな声がした。
「親方」
「あん?」
入口の弟子が、板を持って立っていた。
ゴルドが目を細める。
「何だ」
「その……外の子どもたちが、姫様が酒三樽を持ってきたと騒いでいまして」
「だから何だ」
「看板、増やしますか?」
鍛冶場が静まり返った。
セレスティアは即座に振り返った。
「増やしません」
弟子はびくりとした。
ゴルドは少し考えた。
「書け」
「ゴルド親方」
「必要事項だ」
「必要ありませんわ」
「ある」
「何を書くおつもりですの?」
ゴルドは当然のように言った。
「黒星礼品、酒三樽。バカ姫、量がおかしい」
弟子たちが吹き出した。
古参の職人も肩を震わせる。
セレスティアは額に手を当てた。
「量がおかしいとは何ですの」
「おかしいだろうが」
「感謝の量ですわ」
「酒の量だ」
「ゴルド親方なら三樽くらい」
「飲めるかどうかの問題じゃねぇ」
「飲めるのですね」
「そこを拾うな」
「では、看板はせめて表現を変えてくださいませ」
「どう変える」
「黒星完成祝い、酒三樽」
「普通すぎる」
「普通で良いのですわ」
「うちの看板に普通はいらん」
「鍛冶場の看板は普通であるべきです」
「もう手遅れだ」
セレスティアは、外の十枚の看板を思い出した。
たしかに手遅れかもしれない。
しかし、だからといって被害拡大を許すわけにはいかない。
「では、折衷案ですわ」
「何だ」
「黒星完成祝い、酒三樽。飲酒は作業後」
ゴルドは黙った。
弟子たちも黙った。
古参の職人が深く頷いた。
「良いかもしれません」
若い弟子も頷く。
「注意喚起として自然です」
ゴルドは不満そうだった。
「バカ姫要素がねぇ」
「不要ですわ」
「看板の統一感がない」
「その統一感は捨ててくださいませ」
ゴルドはしばらく考えた。
そして言った。
「なら、こうだ」
「何ですの?」
「黒星完成祝い、酒三樽。バカ姫、作業前飲酒禁止」
「わたくしは飲みませんわ!」
鍛冶場に笑いが弾けた。
セレスティアは頬を膨らませた。
王女としては少々はしたない。
だが、この鍛冶場ではもう誰も気にしていなかった。
ゴルドは弟子へ顎で示した。
「書け」
「はい!」
「ちょっとお待ちなさい」
セレスティアが止めようとする。
だが、弟子はすでに走って外へ出ていた。
仕事が早い。
この鍛冶場の弟子たちは、看板作りに慣れすぎている。
セレスティアは深くため息をついた。
「また増えましたわ」
「自業自得だ」
「酒を持ってきただけです」
「三樽な」
「感謝の気持ちです」
「量がおかしい」
「親方なら喜ぶと思いましたのに」
ゴルドは少し黙った。
それから、目を逸らして言った。
「喜んでねぇとは言ってない」
セレスティアは瞬きした。
鍛冶場も静かになる。
ゴルドは不機嫌そうに続けた。
「黒星の礼としては、多すぎるが悪くねぇ」
セレスティアは、ゆっくりと微笑んだ。
「それはよかったですわ」
「だが、閃白の礼でまた三樽持ってくるな」
「では、二樽?」
「減らせばいい話じゃねぇ」
「四樽?」
「増やすな」
「難しいですわね」
「瓶にしろ」
「考えておきますわ」
「考えるな。瓶にしろ」
セレスティアは楽しそうに笑った。
ゴルドは不機嫌そうに鼻を鳴らした。
だが、鍛冶場の空気は温かかった。
黒星が完成した。
礼の酒が届いた。
職人たちが笑っている。
五十一年眠っていた場所に、火と音と酒の匂いが戻ってきた。
セレスティアは作業台へ目を向けた。
そこに、白い布で包まれた素材が置かれている。
「ゴルド親方」
「あん?」
「それが、閃白の素材ですの?」
ゴルドの目が、鍛冶師のものに戻った。
笑いの気配が消える。
鍛冶場の空気も、すぐに引き締まった。
「ああ」
ゴルドは白い布へ手を置いた。
「オリハルコンだ」
セレスティアの胸が高鳴る。
前世の閃白。
白く閃く両手剣。
黒星とは違う。
軽く、速く、魔力の伸びに優れ、戦場に白い線を走らせた剣。
今生の閃白は、前世よりさらに繊細な剣になる。
斬撃を伸ばすだけでなく、角度を微修正し、魔力の戻りまで使う剣。
黒星が完成した今、次は閃白だ。
ゴルドは布を外した。
そこにあったのは、白銀に輝く金属だった。
アダマンタイトの黒さとは対照的。
光を吸う黒星に対し、オリハルコンは光を抱いているようだった。
セレスティアは思わず息を呑んだ。
「……綺麗ですわ」
「素材を見て喜ぶな」
「黒星の時も言われましたわ」
「何度でも言う。素材は素材だ。剣になるまでは、ただの塊だ」
「ですが、良い素材ですわ」
「当然だ」
ゴルドはオリハルコンの塊を見下ろした。
「閃白は、黒星より面倒だ」
「分かっております」
「本当に分かっているか?」
「多分」
「多分と言ったな」
「正直に申しましたわ」
「そこは褒めてやる」
セレスティアは微笑んだ。
ゴルドは続ける。
「黒星は重さと芯の剣だ。もちろん面倒だが、方向ははっきりしている」
「はい」
「閃白は線の剣だ。速さ、角度、魔力の伸び、戻り、手の内。全部が細い」
ゴルドはセレスティアを見る。
「少しでも間違えれば、ただの綺麗な剣になる」
「それは困りますわ」
「だろうな。お前に必要なのは飾りじゃねぇ」
「はい」
「人を斬れる美しさだ」
鍛冶場の空気が、さらに静かになった。
その言葉は重かった。
閃白は美しい剣だった。
前世でもそうだった。
白い閃き。
流れる斬撃。
見る者が息を呑むほどの剣筋。
だが、それは飾りではない。
斬るための美しさ。
戦うための美しさ。
命を預けるための美しさ。
セレスティアは静かに頷いた。
「お願いしますわ」
「まだ頼むには早い」
「はい?」
「まず、今日一日は閃白用の動きを見る」
「黒星の時と同じですわね」
「同じじゃねぇ。黒星より細かい。背中に黒星を負った状態で、閃白を抜く動きも見る」
セレスティアの目が輝いた。
「黒星を背負ったまま」
「ああ」
「前世と同じですわね」
「前世とは違う。今のお前は、黒星の魔力と背負い具の反応がある。その状態で左腰の閃白を抜く」
「なるほど」
「黒星が背で主張しすぎれば、閃白が死ぬ。閃白が軽すぎれば、黒星との落差で手が狂う」
ゴルドはオリハルコンを指で叩いた。
「二振りは別々に打つ。だが、別々の剣で終わらせる気はねぇ」
セレスティアは息を呑んだ。
「黒星と閃白を、一組の剣として」
「そうだ」
ゴルドは当然のように言った。
「お前は黒星だけの剣士じゃねぇ。閃白だけの剣士でもねぇ。背に黒星、左腰に閃白。その状態で完成するバカだ」
「最後の一言が余計ですわ」
「正確だ」
「否定しきれないのが悔しいですわね」
ゴルドは鼻を鳴らした。
「黒星が完成したからといって浮かれるな」
「少しだけです」
「その少しが床を割る」
「それは昨日の話ですわ」
「昨日の話だから看板に残っている」
「また看板に戻りましたわね」
その時、外から弟子の声がした。
「親方! 新しい看板、出しました!」
セレスティアは嫌な予感を抱えながら、外を見る。
十二枚目が増えていた。
黒星完成祝い、酒三樽。バカ姫、作業前飲酒禁止。
通りすがりの職人たちが、それを見て笑っている。
セレスティアは、静かに目を閉じた。
「……ゴルド親方」
「あん?」
「わたくしの名誉は、どこへ行くのでしょう」
「黒星の背中にでも載せておけ」
「重すぎますわ」
「なら諦めろ」
セレスティアは深く息を吐いた。
だが、口元は少し笑っていた。
黒星が完成した。
礼の酒も渡した。
看板はまた増えた。
そして今日から、閃白が始まる。
背には黒星。
目の前にはオリハルコン。
炉には火。
ゴルドは不機嫌そうに、しかし確かに楽しそうに立っている。
セレスティアは背筋を伸ばした。
「では、始めましょうか」
「お前が仕切るな」
「失礼しましたわ」
「測定陣に立て」
「はい」
セレスティアは、黒星を背負ったまま測定陣へ向かった。
左腰には、まだ閃白がない。
だが、そこにあるべき重みを、魂は覚えている。
今生の黒星は完成した。
次は、今生の閃白。
前世の約束は、まだ半分しか果たされていない。
セレスティアは静かに左手を腰へ添えた。
いつかそこに、白い閃きが戻る。
いや。
戻るのではない。
今生の自分のために、新しく生まれるのだ。
ゴルドが言った。
「抜刀の型から見る」
「はい」
「黒星を背負っていることを忘れるな」
「忘れませんわ」
「酒三樽を持ってきたことも忘れるな」
「それは今必要ですの?」
「看板に書いたからな」
「やはり不要でしたわ」
「始めるぞ、酒樽姫」
「その呼び名は即刻却下いたします」
鍛冶場に笑いが起きた。
セレスティアは少し頬を膨らませたが、すぐに表情を整えた。
左腰に、まだ存在しない閃白を想定する。
右足を置く。
黒星の重みを背で受ける。
左手を柄へ。
呼吸を細く。
魔力を刃筋へ。
そして、抜く。
空の左腰から、白い斬撃の記憶が走った。
ゴルドの目が鋭くなる。
今生の閃白の作剣が、始まった。




