第67話 三賢者の深層
七十二時間のうち、二十四時間が過ぎようとしていた。
地上では、第一夜が明けた。
だが、朝は来なかった。
空は黒く、雨は降り続け、雷は雲の奥で光り、遠い山脈は低く唸っていた。
白樹の森の精霊灯は、まだ明滅を続けている。
グランガルドの炉は青白く燃え、海底楔の周囲には渦が残り、竜の谷の大地は時折大きく震えていた。
それでも、世界は立っていた。
白樹の森では、死者名簿の読み上げが三交代で続けられている。
ミレーヌは二度目の交代を終え、王妃に強制的に休ませられていた。
ルシェルは記録を続けている。
王は各地の報告を受けている。
ゴルドはグランガルドで槌を振るっている。
各地の者たちは、それぞれの持ち場を守っている。
剣神セレスティアは、邪神の座の奥へ進んでいた。
そこに朝はない。
夜もない。
雨も風もない。
だが、地上の揺れは伝わってくる。
豪雨。
竜巻。
地震。
海の荒れ。
竜脈の震動。
それらは、邪神が地上に現れたからではない。
剣神と邪神が、世界の外縁で神格をぶつけ合っている余波だった。
神々の闘い。
その第一日が、終わろうとしていた。
邪神の座の奥。
セレスティアの前には、三本の柱が立っていた。
アルディス。
メルゼア。
ロウガン。
三賢者の封印柱。
地上に立つ柱の本体ではない。
これは、邪神の座の深層にある封印の根。
三賢者が生命と魂と名を代価にして、邪神を縛った理そのものだった。
アルディスの柱は、境界の理でできていた。
世界の内と外を分ける線。
そこに、黒い爪が無数に食い込んでいる。
メルゼアの柱は、魂流の理でできていた。
死者の魂が邪神へ逆流しないよう、流れを止める線。
そこには、黒い渦が絡みついていた。
ロウガンの柱は、圧の理でできていた。
邪神の神格圧を受け、地上へ流さないための重い柱。
半壊した上部から、黒い圧が入り込んでいる。
三本とも、限界に近い。
だが、まだ立っている。
セレスティアは、神眼を一層深めた。
黒星が低く鳴る。
『主よ。ここは深い』
「はい」
閃白が澄んで言う。
『三賢者の理そのものです』
「はい」
解白が淡く告げる。
『斬撃注意。柱本体を傷つける危険あり』
「分かっています」
ここでは、ただ斬ればよいわけではない。
邪神の理を斬る。
だが、三賢者の封印は残す。
邪神の爪を祓う。
だが、境界を裂かない。
魂流の黒渦を解く。
だが、死者の流れを乱さない。
神格圧を押さえる。
だが、ロウガン柱を砕かない。
セレスティアは、黒星と閃白を下ろした。
まず、見る。
斬る前に、見る。
剣士として。
神として。
現世神として。
邪神が囁いた。
『三賢者は苦しんでいる』
「はい」
『解放してやれ』
「違います」
『柱を終わらせれば、楽になる』
「違います」
『封印とは苦痛だ』
「はい」
『ならば終わらせよ』
「終わらせるべきものではありません」
邪神の理が、三本の柱に絡みつく。
『七十年』
『七十年、柱として在った』
『名を呼ばれても、役目は終わらぬ』
『死んでもなお、世界に使われている』
『世界もまた、死者を使っているではないか』
セレスティアの胸に、静かな痛みが走った。
それは、邪神が突いてくる当然の問いだった。
三賢者は、生命と魂と名を封印に捧げた。
世界を守るために。
結果として、七十年、柱として邪神を縛り続けている。
それは邪神による死者利用と何が違うのか。
セレスティアは、その問いを避けなかった。
「違いは、意志です」
邪神の理が揺れる。
「三賢者は、自ら選びました」
『選ばされたのだ』
「違います」
『世界を守るため、他に道がなかった』
「それでも、選んだのです」
『同じだ』
「違います」
セレスティアは、アルディス柱を見た。
境界を閉じた賢者。
その理の奥に、かすかな人の残響がある。
恐怖。
痛み。
迷い。
それでも閉じると決めた意志。
「邪神は、死者の意志を奪います」
次に、メルゼア柱を見た。
魂の逆流を止めた賢者。
その奥には、無数の魂を邪神へ渡さないという意志がある。
「邪神は、魂の座を器にします」
最後に、ロウガン柱を見た。
石工の子。
豆の塩煮を好み、字が汚く、弟子の額を小突いた賢者。
その奥には、圧を受け続けると決めた意志がある。
「邪神は、痛みを鎖にします」
セレスティアは、静かに言った。
「三賢者は、苦しんでいても、世界を縛っていません」
「邪神は、苦しみを使って世界を縛ります」
「そこが違います」
邪神は笑った。
『意志』
『選択』
『お前たちは、その言葉を好む』
「はい」
『選択など、状況が作る幻だ』
「いいえ」
『追い詰められた者の選択に、自由などない』
「それでもです」
セレスティアは、黒星を構えた。
「それでも、人の選択を幻と呼んではならない」
黒星が、アルディス柱に絡む黒い爪を押さえる。
閃白が、境界の濁りを祓う。
解白の糸が、爪と柱の結び目をほどく。
アルディス柱そのものは斬らない。
邪神の爪だけを外す。
慎重に。
一つずつ。
邪神が圧を強める。
外側から境界を裂こうとする。
セレスティアは黒星で押さえる。
押し返しすぎない。
押せば、境界が裂ける。
海底楔の霊流が地上から流れ込む。
外圧を滑らせる。
セレスティアは、その流れに合わせた。
「アルディス」
柱が、わずかに光る。
「境界を閉じた賢者」
白い線が走る。
「あなたの境界は、まだ生きています」
邪神の爪が外れた。
アルディス柱が、深層で一度大きく震える。
地上。
封印地外縁で、アルディス柱の白光が増した。
監視術師たちが息を呑む。
白樹の森へ報告が飛ぶ。
アルディス柱、深層反応。
境界歪み、一時減少。
ルシェルが記録する。
海の巫女は、海底で叫んだ。
「霊流を保って!」
「剣神様が境界を外している!」
「押しすぎない!」
海の民は、渦の中で霊流を細く保った。
邪神の座。
セレスティアは、次にメルゼア柱へ向かった。
メルゼアの柱には、黒い魂流が絡みついている。
死者の魂を逆流させ、邪神へ引き込もうとする理。
メルゼアは、それを七十年止め続けてきた。
だが、今、黒い渦が深層にまで入り込んでいる。
邪神が囁く。
『死者は眠らない』
「眠ります」
『名を呼んでも、魂は戻らぬ』
「戻すためではありません」
『ならば、流せ』
「流しません」
『我が内なら、迷いも痛みもない』
「違います」
メルゼア柱の周囲に、死者の声が渦巻く。
助けて。
痛い。
寒い。
暗い。
名前を呼んで。
忘れないで。
声が多すぎる。
全てに応えようとすれば、セレスティア自身が渦に呑まれる。
神眼を深めすぎれば危ない。
だが、見なければ救えない。
セレスティアは、神眼を細く絞った。
全てを自分で抱えない。
地上では名を呼んでいる。
記録官がいる。
ミレーヌがいる。
ルシェルが記録している。
未判明も未判明として呼んでいる。
だから、自分は邪神の黒渦だけを見る。
「閃白」
『祓います』
白い線が、魂流の黒渦へ入る。
黒渦は抵抗する。
死者の痛みを盾にする。
セレスティアは斬らない。
閃白で濁りを澄ませる。
解白で、黒渦と魂流の絡みをほどく。
黒星で、渦の外殻を押さえる。
メルゼア柱へ触れる。
「メルゼア」
青白い光が揺れた。
「魂を渡さなかった賢者」
地上の読み上げが、邪神の座へ届く。
「氏名未判明」
「七十年前、封印補助に関与した者」
「探索継続対象」
「忘却せず」
その声に、黒渦が薄くなる。
セレスティアは、終焉を細く通した。
「終わるべきものだけ、終わりなさい」
黒渦の中心が裂けた。
魂流は逆流しない。
邪神へ向かわない。
静かに、眠りへ向かう方向を取り戻す。
メルゼア柱が、深層で光った。
地上。
白樹の森の泉に、青白い光が映った。
ミレーヌは、読み上げを止めなかった。
だが、涙が一筋だけ落ちた。
王妃がそっと布を差し出す。
ミレーヌは涙を拭き、続ける。
「メルゼア」
「魂の逆流を止めた賢者」
「名の分かる死者も」
「名の分からぬ死者も」
「忘却せず」
ルシェルは記録する。
メルゼア柱、深層反応。
魂流黒化、減少。
死者名簿読み上げ、効果増大。
剣神セレスティア、邪神座深層にて三賢者柱へ接触中と推定。
グランガルド。
地震が大きくなった。
封印杭の一本が、音を立てて歪んだ。
交換班が走る。
だが、揺れが強すぎて近づけない。
若い弟子が転びかける。
ゴルドがその襟首を掴んで引き戻した。
「焦るな!」
「親方、杭が!」
「焦って打てば折れる!」
「はい!」
「揺れを見ろ!」
ゴルドは膝を落とし、大地の揺れを感じた。
槌を持つ手が、揺れの周期を読む。
「今だ!」
交換班が走る。
歪んだ杭を抜き、新しい杭を打つ。
聖銀釘。
静鉱石楔。
補助輪。
次々と固定する。
槌が鳴る。
揺れの中で、一打も外さない。
ゴルドは叫ぶ。
「ロウガン柱に響かせるな!」
「はい!」
「支えろ! 押すな!」
「はい!」
邪神の座。
セレスティアは、ロウガン柱の前に立った。
三本の中で、最も痛々しい柱。
半壊した上部。
根元に走る金色の線。
圧を受け続けた賢者。
邪神の神格圧を地上へ流さぬよう、七十年支えた者。
邪神が、静かに言った。
『これは、もう折れる』
セレスティアは答えない。
『半分砕けた』
『なお使うのか』
『世界は残酷だ』
『ロウガンは、もう休みたい』
セレスティアは、ロウガン柱を見た。
確かに苦しい。
圧が重すぎる。
半壊した柱に、邪神の神格圧が集中している。
これを無理に支えれば、砕ける。
だが、放せば、邪神の圧が地上へ流れる。
セレスティアは、黒星を構えた。
重さには重さ。
だが、押し返してはならない。
ゴルドが言っていた。
支えろ。
押すな。
セレスティアは、黒星をロウガン柱の横へ置くように構えた。
圧を受ける。
しかし、全部は受けない。
ロウガン柱から圧を奪いすぎれば、柱の役目を奪う。
それは過干渉だ。
だから、重さを分ける。
黒星が低く唸った。
『重い』
「はい」
『だが、支えられる』
「はい」
閃白が、圧に混じる邪の濁りを祓う。
解白が、半壊部に絡む黒い結び目をほどく。
セレスティアは、ロウガン柱へ呼びかけた。
「ロウガン・エルド」
柱が、わずかに光る。
「辺境村出身」
金色の線が走る。
「石工の子」
邪神の圧が揺れる。
「圧力結界の賢者」
白樹の森から、ミレーヌの声が届く。
「好物は豆の塩煮」
人間王国の記録官が続ける。
「字は汚い」
別の記録官が言う。
「弟子を叱る時、額を小突く癖あり」
老書記官の声が震える。
「若き日、橋の設計に失敗し川へ落ちる」
その声が、邪神の座の深層へ届く。
ロウガン柱が、柱ではなく、人として光る。
邪神が軋んだ。
『余計なものを』
「余計ではありません」
セレスティアは黒星の重さを落とす。
「柱ではなく、ロウガン・エルド」
閃白が白く澄む。
「役目ではなく、人」
解白が淡く光る。
「邪神の圧を受け続けた賢者」
セレスティアは、ロウガン柱に絡む邪神の圧の結び目を見極める。
圧そのものを斬らない。
ロウガン柱の役目を終わらせない。
邪神が圧を鎖に変えている部分だけを解く。
「終わるべきものだけ、終わりなさい」
終焉が通る。
黒い圧の鎖が裂けた。
ロウガン柱は砕けない。
だが、少しだけ真っ直ぐに立った。
地上。
封印地外縁で、ロウガン柱の半壊部から金色の光が立ち上がった。
監視術師たちが叫ぶ。
「ロウガン柱、反応!」
「圧が逃げた!」
「根元保持!」
白樹の森へ報告が飛ぶ。
ロウガン柱、深層反応。
半壊部、保持。
圧受け能力、一時回復。
ゴルドはグランガルドでその報告を受け、鼻を鳴らした。
「よし」
それだけ言って、また槌を振るった。
邪神の座。
三賢者の柱が、深層で光っている。
アルディス。
メルゼア。
ロウガン。
三つの封印深層から、邪神の爪、黒渦、圧鎖が一時的に外れた。
セレスティアは、ようやく一息ついた。
七十二時間のうち、二十四時間。
第一日は終わった。
だが、邪神の奥はまだ深い。
そして、邪神は静かに笑った。
『よくやった』
その声に、黒星が重くなる。
閃白が澄みを強める。
解白が淡く震える。
セレスティアは、神眼を細めた。
邪神の奥に、別のものが見える。
無数の魂の座。
死者の座。
それらが、盾のように重なり始めている。
邪神が言った。
『ならば、次はこれを斬れ』
魂の座が重なる。
死者の眠りが盾にされる。
セレスティアは、黒星を構えたまま動かなかった。
斬れば、死者の眠りを傷つける。
斬らなければ、邪神の奥へ届かない。
邪神は、死者を盾にした。
その瞬間。
名もなき森の石室で、聖布が大きく揺れた。
石棺の中。
前世セレスティアの肉体の魂の座。
邪神すら気づけなかった残渣。
絶対に邪神戦争を終わらせるという想い。
その光が、これまでになく強く灯った。
白樹の森の泉が、虹色に揺れる。
ルシェルが顔を上げた。
「名もなき森から反応!」
ミレーヌが息を呑む。
「前世のお姉様……?」
王妃が目を伏せる。
王が静かに言う。
「来るか」
邪神の座。
セレスティアの背後に、白い光が生まれた。
声ではない。
だが、想いが形を取る。
死者の眠りを盾にする邪神の理に、死者の側から拒絶が起きた。
白い光の中に、一人の女性が立つ。
剣聖セレスティア。
前世のセレスティア。
完全な復活ではない。
人格が戻ったのでもない。
魂が蘇ったのでもない。
魂の座に残った想いが、剣神セレスティアの真神格に呼応し、一時的な眷属として形を得たもの。
邪神の眷属ではなく。
剣神の眷属として。
かつて邪神に利用された死者が、今、死者の側から邪神を拒むために立った。
剣聖セレスティアの手に、黒星はない。
閃白もない。
それらは今、剣神セレスティアの剣だから。
代わりに、その手には無銘の白刃があった。
残響の剣。
魂の残渣が形にした、ただ一度きりの刃。
剣聖セレスティアは、セレスティアの横に並んだ。
多くは語らない。
ただ、邪神を見た。
そして、静かに言った。
「死者を、使うな」
その一言で、死者の魂の座を重ねた盾が震えた。
邪神が、初めて明確に不快を示した。
『残渣が』
剣聖セレスティアは、白刃を構えた。
剣神セレスティアは、黒星と閃白を構えたまま、隣を見る。
「あなたは、眠っていてよいのです」
剣聖セレスティアは、わずかに首を横に振った。
「眠るために、終わらせる」
その声は、遠い。
だが、確かだった。
セレスティアは、深く息を吐いた。
「分かりました」
剣聖セレスティアは言った。
「帰りなさい」
剣神セレスティアは、静かに頷いた。
「はい。あなたも、眠りへ」
二人のセレスティアが、邪神の座に並び立つ。
生者ではない者。
神となった者。
過去の残響。
現在の剣神。
邪神の盾となった死者の魂の座が、白く震えている。
死者は邪神に従わない。
その理が、邪神の座に初めて刻まれた。
七十二時間のうち、二十四時間。
第一日が終わり、第二日が始まる。
そして、死者の側から、反撃が始まった。




