第66話 第一夜、世界は立つ
神々の闘いが始まって、十二時間が過ぎた。
地上に夜が来た。
だが、夜は夜の姿をしていなかった。
空は黒く裂け、豪雨は止まず、雷は雲の奥で絶えず光っていた。
白樹の森では、精霊灯が一斉に明滅している。
人間王国では、王都の石畳を雨水が川のように流れていた。
グランガルドでは、地震で炉の煙突が軋み、火の粉が青白く跳ねていた。
海では、海底楔の周囲に巨大な渦が生まれ、巫女たちが縄で互いの身体を結びながら霊流を繋いでいた。
竜の谷では、竜脈が唸り、老竜と若竜が爪を大地へ突き立てていた。
草原では、竜巻が遠くに立ち上がり、獣人たちは避難路の入口を守っていた。
山脈では、古碑が震えていた。
それでも、世界は立っていた。
白樹の森の古記録庫では、死者名簿の読み上げが続いていた。
第一交代が終わり、第二交代に入っている。
それでも、ミレーヌはまだ席を離れていなかった。
王妃が、温かい薬湯を差し出す。
「ミレーヌ、交代の時間です」
「もう少しだけ」
「いけません」
王妃の声は優しかったが、譲らなかった。
「あなたが倒れれば、次の読み手が乱れます」
「……はい」
「続けることと、無理をすることは違います」
ミレーヌは唇を噛み、それから頷いた。
「分かりました」
名簿を次の記録官へ渡す。
記録官は深く頷き、読み上げを引き継いだ。
「氏名未判明」
「七十年前、西海底楔補助に関与した者」
「探索継続対象」
「忘却せず」
ミレーヌは席を離れた。
だが、部屋を出る前に振り返る。
名を呼ぶ声が、雨音の中に溶けていく。
それは小さい。
雷に比べれば弱い。
竜脈の唸りに比べれば細い。
だが、消えない。
ミレーヌは、その声を聞いて、ようやく薬湯を口にした。
ルシェルは隣室で記録を続けていた。
筆は止まらない。
決戦開始から十二時間。
豪雨継続。
白樹の精霊灯、明滅周期不安定。
ロウガン柱、圧受け限界域ながら保持。
アルディス柱、境界歪み拡大。
メルゼア柱、魂流黒化あり。
死者名簿読み上げ、継続。
剣神セレスティア、邪神座にて交戦中。
神格衝突余波、世界各地で天変地異として発現。
ルシェルの手は震えていた。
恐怖ではない。
疲労でもない。
自分が書いている内容の重さを理解しているからだった。
これは、後世に残る記録になる。
剣神が戦ったという美談だけでは足りない。
世界がどう支えたか。
誰が何をしたか。
どの柱がいつ揺れ、どの対処が効いたか。
誰の名が呼ばれ、誰の名がまだ分からないか。
それを残さなければならない。
邪神は忘却を使う。
ならば、記録は武器だった。
ルシェルは筆を握り直した。
「記録を止めるな」
それは、自分への命令だった。
大広間では、王が各地からの報告を受けていた。
「海底楔、第一霊流班が限界。第二班へ交代」
「竜の谷、若竜二頭が竜脈反動で負傷。老竜が補填」
「グランガルド、封印杭一基破損。交換班出動」
「草原、第三避難路に倒木。獣人戦士が撤去中」
「人間王国、王都西聖堂の鐘が自鳴。記録班に被害なし」
王は、すべてを聞いた。
慌てない。
嘆かない。
一つ一つ指示を出す。
「海底楔は交代を早めろ。倒れてからでは遅い」
「竜の谷には、無理に若竜を戻すなと伝えよ」
「グランガルドの交換班へ、杭の打設位置を再確認させよ」
「第三避難路は予備路へ誘導。撤去班と誘導班を分けよ」
「西聖堂の鐘は放置。記録班を移動させるな」
王の声は静かだった。
それで大広間の者たちは落ち着いた。
王が慌てない。
なら、自分たちも慌てない。
それもまた、世界を支える力だった。
邪神の座。
セレスティアは、邪神の第五の理と向き合っていた。
忘却。
名を失わせる理。
死者を、ただの数へ変える理。
役目を消し、場所を消し、顔を消し、声を消し、最後には「いた」という事実すら薄れさせる理。
邪神の根が、無数の名へ絡みついている。
名を取り戻された者。
まだ役目しか分からない者。
場所しか分からない者。
未判明の者。
その全てへ、黒い霧がかかっていた。
『名など脆い』
邪神が囁く。
『百年経てば消える』
『千年経てば誰も覚えぬ』
『ならば、今消しても同じ』
「違います」
セレスティアは、閃白を構えた。
『名を呼ぶ者も死ぬ』
「はい」
『記録も朽ちる』
「はい」
『石碑も割れる』
「はい」
『ならば、忘却こそ自然だ』
「違います」
セレスティアは、神眼を絞った。
忘却の霧の奥に、名を呼ぶ声がある。
白樹の森。
人間王国。
山の隠れ里。
海底。
草原。
それぞれの場所で、誰かが名を呼んでいる。
完全な名だけではない。
分からないことも、分からないまま呼んでいる。
氏名未判明。
探索継続対象。
忘却せず。
それは、名ではないかもしれない。
だが、忘れないという意志だった。
セレスティアは、閃白を振るった。
白い線が、忘却の霧を裂く。
だが、完全には晴れない。
邪神の霧は深い。
『無駄だ』
「無駄ではありません」
『未判明など、忘却と同じ』
「違います」
『名がない』
「探しています」
『顔がない』
「探しています」
『声もない』
「それでも、いなかったことにはしません」
解白が淡く光った。
『未判明記録、接続確認』
黒い霧の中に、細い糸が見える。
名前ではない。
役目でもない。
場所でもない。
だが、記録の糸。
探索継続対象。
忘却せず。
その糸を、解白が拾う。
『主。斬るのではなく、結ぶ』
「はい」
セレスティアは、終焉を使わなかった。
忘却の理そのものは終わらせるべきだ。
だが、未判明の空白を終わらせてはならない。
空白は、探し続けるために残す。
だから、まず結ぶ。
解白の糸が、未判明の記録を死者の残響へ結び直す。
閃白が、霧の濁りだけを祓う。
黒星が、邪神の根を押さえる。
セレスティアは、細く終焉を通した。
「忘却を、死者の終わりにしません」
霧が裂けた。
第五の理。
忘却を死者の消滅へ変える理が、静かに崩れた。
邪神が揺れる。
同時に、地上で風が変わった。
白樹の森の豪雨は続いている。
だが、古記録庫の中の声が通りやすくなった。
読み上げる声が、雨音に負けなくなった。
ミレーヌは、それを感じて顔を上げた。
「今……」
ルシェルも泉を見た。
黒と虹色の光の衝突の中に、一瞬だけ白い線が走った。
ルシェルは記録した。
決戦第十二時。
死者名簿読み上げ効果、増大。
メルゼア柱黒化、微減。
邪神忘却理に対し、剣神セレスティアが何らかの干渉を行った可能性。
ミレーヌは、休憩を終えて席へ戻った。
王妃が止める前に、ミレーヌは言った。
「交代時間までは守ります」
「よろしい」
「でも、次の担当分は私が読みます」
「はい」
王妃は頷いた。
今は、止める場面ではなかった。
邪神の座。
セレスティアは、白樹水を一口飲んだ。
喉は渇かない。
だが、飲む。
地上を忘れないために。
邪神が嘲る。
『水』
「はい」
『干し肉』
「はい」
『名簿』
「はい」
『家族』
「はい」
『鍛冶師』
「はい」
『そのようなものに繋がれねば、立てぬ神か』
「はい」
邪神の理が、わずかに止まった。
セレスティアは続けた。
「繋がれているから、立てます」
『不完全だ』
「はい」
『弱い』
「いいえ」
「不完全だから、世界を完全な素材として扱わずに済みます」
黒星が低く鳴った。
邪神の第六の理が現れた。
完全性。
世界を欠けのない形へ作り直そうとする理。
生者の迷いを消し。
死者の痛みを消し。
怒りを消し。
後悔を消し。
名の空白を消し。
全てを邪神の秩序へ並べる理。
一見すれば、救済に見える。
だが、違う。
それは、世界から揺らぎを奪う理だった。
『痛みなき世界』
「不要です」
『迷いなき生』
「不要です」
『忘却なき記録』
「違います」
『死者が苦しまぬ秩序』
「違います」
『全てを我が内に置けば、争いも喪失もない』
「違います」
セレスティアは、邪神の奥に初めて明確なものを見た。
邪神なりの正義。
邪神にとって、世界は乱れている。
生者は迷う。
死者は忘れられる。
痛みは残る。
怒りは争いを生む。
後悔は人を縛る。
ならば、全てを一つの理へ収めればよい。
魂の座を器とし、死者を再利用し、生者を素材にし、痛みを力にし、名を鎖にする。
邪神にとって、それは秩序だった。
救済ですらあった。
セレスティアは、その理を見た。
そして、否定した。
「それは、救済ではありません」
『なぜ』
「選ぶ余地がないからです」
『選択は迷いを生む』
「はい」
『迷いは苦しみを生む』
「はい」
『苦しみは争いを生む』
「はい」
『ならば、選択など不要』
「違います」
セレスティアは、黒星を構えた。
「選ぶから、生きるのです」
閃白を構える。
「迷うから、他者を見ます」
解白が淡く光る。
「痛むから、素材にしない」
セレスティアは、一歩踏み込んだ。
「欠けているから、支え合う」
邪神の完全性の理が、黒い結晶となって広がる。
美しい。
整っている。
だが、冷たい。
そこには声がない。
揺らぎがない。
食事もない。
笑いもない。
干し肉に文句を言う余地もない。
セレスティアは、少しだけ笑った。
「その世界には、親方の看板がありませんわ」
邪神が沈黙した。
黒星が低く鳴る。
『重要だ』
閃白が澄んで言う。
『かなり重要です』
解白が淡く告げる。
『地上文化喪失、重大』
セレスティアは黒い結晶へ刃を向けた。
「完全でなくていい」
黒星が重く落ちる。
「迷っていい」
閃白が白く走る。
「痛みを抱えていい」
解白の糸が結晶の奥の結び目を探る。
「それでも、世界は自ら立つ」
終焉が細く通る。
「終わるべきものだけ、終わりなさい」
完全性の結晶が裂けた。
その中から、無数の不揃いな光が散った。
名。
声。
痛み。
笑い。
怒り。
後悔。
記憶。
それぞれが不完全なまま、邪神の秩序から解放されていく。
第六の理。
完全性による支配の理が崩れた。
地上。
グランガルド。
鍛冶場の看板が豪雨と地震で傾いていた。
弟子が直そうとする。
ゴルドが怒鳴った。
「後でいい!」
「でも親方、看板が!」
「看板より杭だ!」
だが、弟子はちらりと看板を見た。
そこには、雨に滲みながらも文字が残っていた。
バカ姫、邪神の座へ。
地上組は支えろ。
干し肉は残すな。
弟子は笑った。
そして、槌を握り直した。
「はい!」
ゴルドも看板を一瞥し、鼻を鳴らした。
「消えるなよ」
それは看板への言葉か。
セレスティアへの言葉か。
誰にも分からなかった。
海底。
海の巫女たちは、渦の中で霊流を繋いでいた。
水圧が荒れ、縄が軋む。
一人の若い巫女が流されかけた。
隣の巫女が縄を引く。
さらに後ろの巫女が支える。
誰も一人では立っていない。
海底楔の光が揺れる。
巫女長が叫んだ。
「霊流を細く!」
「細くですか!」
「太くすれば押し返される!」
「はい!」
海の民は、押し返さない。
流す。
受ける。
逃がす。
その調整が、アルディス柱を支えている。
竜の谷。
若い竜が叫んだ。
「老竜様、竜脈が暴れます!」
老竜は、巨大な爪を大地へ沈めた。
「暴れるなら、押さえ込むな!」
「では」
「乗れ!」
「乗る?」
「流れに乗り、骨を折らせぬ!」
若い竜たちは、初めて竜脈を力で支配しようとするのをやめた。
流れを見る。
暴れを逃がす。
折らずに支える。
竜脈の唸りが、少しだけ低くなる。
老竜は空を見上げた。
黒い雲の奥で、虹色の光が一瞬だけ走った。
「剣神よ」
老竜は祈らなかった。
ただ、低く言った。
「骨は支える」
邪神の座。
セレスティアは、邪神の奥へさらに進んだ。
第一日目は終わりに近づいている。
地上では夜が深い。
邪神の座では、時間の感覚が薄れている。
それでも、解白が記録している。
『決戦経過、推定十八時間』
「はい」
『主神格、安定』
「はい」
『邪神理、六層剥離』
「はい」
『残存層、多数』
「分かっています」
黒星が低く問う。
『疲れは』
「身体にはありません」
閃白が静かに問う。
『心には』
「あります」
解白が淡く言う。
『干し肉摂取推奨』
「このタイミングで?」
『地上錨維持』
セレスティアは、少しだけ笑った。
「分かりました」
邪神の座で、セレスティアは干し肉を噛んだ。
硬い。
第一夜でも、硬い。
その硬さに、少しだけ救われる。
邪神が囁く。
『滑稽な神だ』
「はい」
『戦いの中で食い』
「はい」
『死者の名を聞き』
「はい」
『家族を思い』
「はい」
『鍛冶師の言葉に縛られる』
「はい」
『それで、我を終わらせるつもりか』
「はい」
セレスティアは、干し肉を飲み込んだ。
「あなたには、それが分からない」
『分かる必要はない』
「だから、あなたは世界を素材にする」
セレスティアは、黒星を握り直した。
「第二日へ進みます」
邪神が、深く笑った。
『来い』
その瞬間、邪神の奥が開いた。
そこには、三賢者の柱があった。
実物ではない。
邪神の理が、三賢者の柱へ絡みついている深層。
アルディス。
メルゼア。
ロウガン。
三人の封印が、邪神の座の奥でも苦しんでいる。
第一夜の終わり。
セレスティアは、ついに三賢者の封印深層へ辿り着いた。
地上では、豪雨が続く。
竜巻は収まらない。
地震も止まらない。
だが、世界はまだ立っている。
剣神セレスティアも、まだ立っている。
七十二時間のうち、十八時間。
神々の闘いは、まだ続く。




