第61話 一週間後
邪神封印限界まで、あと二十一日。
名もなき森から戻って、一週間が過ぎた。
その一週間で、世界は一気に最終形へ近づいた。
白樹の森では、世界連合の代表たちがほとんど常駐となった。
大広間には、地図と封印図と死者名簿が並び続けている。
人間王国の記録官は、七十年前の死者の名の未判明者を一割から八分まで減らした。
それ以上は、焦って埋めてはならないとルシェルが止めた。
「分からないものを、分かったことにしてはいけません」
ミレーヌも頷いた。
「未判明は未判明として残します。忘れたのではなく、探し続ける対象です」
その方針は、全会一致で確認された。
死者を美しい物語で上書きしない。
分からないものを都合よく埋めない。
それは、邪神に奪われないための記録の戦いだった。
海の民からは、海底楔の最終固定完了が届いた。
竜の谷からは、竜脈の安定報告。
草原からは、避難訓練完了。
グランガルドからは、封印杭の予備配備完了。
山の隠れ里からは、古碑の最後の拓本が送られてきた。
十の森からは、精霊通信網の二重化完了。
世界は、完璧ではない。
だが、戦う準備は整いつつあった。
セレスティアは、その一週間、ほとんど白樹の泉の前にいた。
神眼を開きすぎない。
閉じすぎない。
必要な層だけを見る。
アルディス柱の境界線。
メルゼア柱の魂流。
ロウガン柱の圧受け。
三本の柱は、どれも限界に近い。
だが、まだ立っている。
地上の補強が効いている。
竜脈の支えがある。
海底楔の霊流がある。
封印杭がある。
死者の名が呼ばれている。
だから、まだ保っている。
黒星が低く問う。
『主よ、斬るか』
「まだです」
閃白が澄んで言う。
『邪神の濁りは増しています』
「はい」
解白が淡く告げる。
『だが、地上対応領域が残存』
「その通りです」
セレスティアは、泉の水面を見つめた。
「まだ、世界が届いています」
そう言えることが、嬉しかった。
そして、怖かった。
あと二十一日。
この時間の中で、世界は立ち続けなければならない。
剣神がいるから大丈夫。
そう言わせないために、セレスティアは動かない。
だが、動かないことは何もしないことではなかった。
見る。
伝える。
最終判断を誤らないために、ただ在る。
それが、今のセレスティアの役目だった。
七日目の朝。
白樹の森に、最終確認会議が開かれた。
王が議長席に立つ。
「邪神封印限界まで、あと二十一日」
全員が沈黙する。
「この一週間で、各地の準備は最終段階へ入った」
ルシェルが報告を読み上げる。
「海底楔、最終固定完了」
「竜脈調整、安定」
「封印杭、主要地点および予備地点への配備完了」
「草原避難路、稼働確認済み」
「備蓄拠点、稼働可能」
「医療班、各地配置完了」
「死者名簿、完全な名六割八分、役目または場所のみ判明二割四分、未判明八分」
「未判明者については、未判明のまま記録固定。探索継続対象として管理」
ドワーフ代表が腕を組む。
「封印杭は打てる。だが、打てば終わりじゃねぇ。折れた時の交換班も配置済みだ」
海の巫女が言う。
「海底楔の霊流は、アルディス柱とメルゼア柱の緩衝に回せます」
竜の使いが頷く。
「竜脈はロウガン柱の圧受けを支える。ただし、過剰に流せば逆に割れる」
セレスティアは頷いた。
「竜脈は強く流さないでください。ロウガン柱は、支えれば持ちますが、押せば割れます」
「承知した」
人間王国の使節が言う。
「死者名簿は、これ以上急ぐと誤照合の危険が出ます」
ミレーヌが静かに答えた。
「急ぎません」
「はい」
「名を取り戻すことは、数を埋めることではありません」
「はい」
「正しく分かるものを記し、分からないものを分からないまま残す。それが死者への礼です」
セレスティアは、ミレーヌを見た。
この一週間、ミレーヌはほとんど古記録庫にいた。
だが、顔色は悪くない。
無理をしすぎないよう、王妃が食事を管理しているからだ。
セレスティアは、それを知っている。
自分だけではない。
この家では、誰も食事管理から逃れられない。
会議の最後に、王がセレスティアへ視線を向けた。
「セレスティア、現時点での判断は」
セレスティアは立ち上がった。
「三賢者の封印柱はいずれも危険域にあります」
「はい」
「ただし、現時点では地上の補強が効いています」
「はい」
「邪神本体の外理が、完全に封印線を破った箇所はありません」
「はい」
「よって、わたくしはまだ刃を入れません」
大広間は静かだった。
誰も異議を唱えない。
それが、この十年で世界が学んだことだった。
剣神が動かないから不安なのではない。
剣神がまだ動かないということは、世界がまだ届いているということ。
その意味を、皆が理解していた。
王は頷いた。
「では、各地は現体制を維持」
「はい」
「次の確認は三日後」
「はい」
「ただし、封印柱に急変があれば即時招集」
「はい」
会議が終わる。
代表たちが退室する中、ゴルドがセレスティアの横に立った。
「バカ姫」
「はい」
「よく待ってるな」
「褒めています?」
「少しな」
「少しですのね」
「調子に乗るな」
セレスティアは苦笑した。
「待つのは、まだ慣れません」
「だろうな」
「斬れるものが見えているのに、斬らないのは難しいです」
「だから修行したんだろうが」
「はい」
ゴルドは、白樹の泉の方を見た。
「あと二十一日か」
「はい」
「長いな」
「はい」
「短いな」
「はい」
その両方だった。
長い。
待つには長い。
短い。
世界が備えるには短い。
セレスティアは、静かに答えた。
「だから、一日ずつ見ます」
「おう」
その日の昼。
王妃は、予定表通りに食事を出した。
セレスティア、ミレーヌ、ルシェル、そしてなぜかゴルドまで同席していた。
ゴルドは当然のように干し肉を持参している。
王妃がそれを皿に置いた。
セレスティアは眉を寄せた。
「お母様」
「ゴルド殿からです」
「毎日ですの?」
ゴルドが言う。
「毎日だ」
「なぜ」
「二十一日しかねぇんだ。地上確認は毎日やれ」
「干し肉が地上確認なのは、もう固定なのですね」
黒星が低く鳴る。
『固定だ』
閃白が澄んで言う。
『有効です』
解白が淡く告げる。
『現世神性確認食材、運用継続』
「解白、その名称は正式化しないでください」
ルシェルが顔を上げた。
「現世神性確認食材」
「ルシェル」
「記録上、分かりやすいです」
「分かりやすくありません」
ミレーヌが笑った。
王妃も微笑んだ。
セレスティアは諦めて干し肉を噛んだ。
硬い。
今日も硬い。
だが、それでよかった。
この硬さがある限り、自分は地上にいる。
夕刻。
セレスティアは、白樹の森の外れを歩いた。
護衛はいない。
必要がないからではない。
セレスティアが一人でいる時間も必要だからだ。
ただし、黒星、閃白、解白はいる。
そして、少し離れた場所にミレーヌもいた。
ついてきたのだ。
「ミレーヌ」
「はい」
「離れませんね」
「一週間は離れないと決めました」
「決めたのですか」
「はい」
セレスティアは笑った。
「では、あと今日までですか」
「延長します」
「ミレーヌ」
「だって、あと二十一日です」
ミレーヌは、少しだけ真面目な顔になった。
「私は、お姉様が最後の刃だと分かっています」
「はい」
「でも、最後の刃だからといって、一人でいてほしくありません」
「はい」
「戦う時は一人でも、帰る場所には誰かがいるべきです」
セレスティアは、足を止めた。
ミレーヌは続ける。
「だから、私はいます」
セレスティアは、静かに妹を見た。
かつてなら、守る対象としてしか見られなかったかもしれない。
今は違う。
ミレーヌもまた、世界を支える一人だった。
古記録庫で死者の名を探し、未判明を未判明として残す判断をし、そして姉の帰る場所として立つ者。
セレスティアは、少しだけ微笑んだ。
「ありがとうございます」
ミレーヌは、嬉しそうに笑った。
「はい」
夜。
白樹の泉が黒く揺れた。
警告ではない。
だが、明らかな変化だった。
ロウガン柱の亀裂が、わずかに広がった。
大広間に緊急招集がかかる。
セレスティアはすぐに泉の前へ立った。
神眼を開く。
深く開きすぎない。
必要な層だけを見る。
ロウガン柱。
圧が増している。
邪神本体が、また神格圧を集中している。
半壊した上部ではない。
今回は根元。
土台に圧をかけている。
竜の使いが低く唸る。
「竜脈を増やすか」
セレスティアは首を横に振った。
「増やさないでください」
「なぜ」
「根元に圧がかかっています。竜脈を増やせば、下から押し返す形になり、柱の中間が割れます」
「では」
「海底楔の霊流を薄く流してください」
海の巫女が頷く。
「冷ますのですね」
「はい。押し返すのではなく、圧の熱を逃がします」
ドワーフ代表が言う。
「封印杭は」
「根元から二歩離して打ってください。近すぎると亀裂へ響きます」
「分かった」
ルシェルが記録する。
ミレーヌが死者名簿を抱える。
王が各地へ指示を飛ばす。
セレスティアは、泉を見ている。
斬れる。
今なら、ロウガン柱に絡む黒い圧だけを斬れる。
だが、それはまだ最後の一点ではない。
地上が届く。
海の霊流が流れる。
封印杭が打たれる。
竜脈が抑えられる。
人々が動く。
ロウガン柱の亀裂は、そこで止まった。
完全に戻りはしない。
だが、広がらない。
セレスティアは、静かに息を吐いた。
「持ちました」
大広間の空気が少し緩む。
王が問う。
「刃を入れる必要は」
「ありません」
セレスティアは、はっきり答えた。
「地上が届きました」
その言葉に、会議室の者たちは深く頷いた。
地上が届いた。
それは、今の世界にとって何より重要な言葉だった。
深夜。
緊急対応が終わった後、セレスティアは中庭に出た。
星が見える。
神域にはなかった星。
黒星が低く鳴る。
『主よ。よく斬らなかった』
「斬りたかったです」
閃白が澄んで言う。
『ですが、斬りませんでした』
「はい」
解白が淡く告げる。
『地上対応完了。剣神介入不要』
「よかったです」
セレスティアは、星を見上げた。
ロウガン柱は持った。
世界はまた、一つ届いた。
邪神封印限界まで、あと二十一日。
その一日目から、邪神は揺さぶってきた。
だが、世界は立った。
セレスティアは、静かに呟いた。
「まだ、わたくしの出番ではありません」
それは焦りを抑える言葉ではない。
世界を信じる言葉だった。
翌朝。
グランガルドの鍛冶場前に、新しい看板が立った。
バカ姫、昨日も斬らず。
ロウガン柱、地上組で持たせる。
つまり、世界はまだ立っている。
ただし、干し肉は食え。
町の者たちはそれを見て笑った。
そして、封印杭を運び始めた。
邪神封印限界まで、あと二十日。
最後の一カ月は、静かでは終わらない。
だが、世界はまだ立っている。
剣神セレスティアもまた、最後の刃として、まだ鞘の中にいた。




