第59話 最後の一カ月
剣神セレスティアが地上へ帰還した翌朝。
白樹の森は、いつも通りに朝を迎えた。
鳥が鳴く。
白樹の葉が揺れる。
精霊灯が薄く消えていく。
王宮の厨房では湯気が上がり、侍女たちが食器を並べている。
世界の終わりが近いようには見えなかった。
だが、誰も忘れてはいない。
邪神封印限界まで、あと一カ月。
その言葉は、朝の空気の中にも沈んでいた。
セレスティアは、自室で目を開けた。
眠る必要のない身体。
だが、昨夜は眠る真似をした。
布団に入り、目を閉じ、白樹の森の夜風を聞いた。
神域ではない。
地上の夜。
それを確かめるためだった。
黒星が壁際で低く鳴った。
『主よ』
「はい」
『眠れたか』
「眠る必要はありませんが」
『そうではない』
セレスティアは、少しだけ笑った。
「休めました」
閃白が澄んだ声で言う。
『顔色は変わりませんね』
「神格の身体ですから」
解白が淡く言った。
『精神安定、良好。地上帰還後の神格揺動、軽微』
「朝から確認ですのね」
『帰還初日は重要』
「分かっています」
セレスティアは起き上がった。
窓を開ける。
白樹の森の朝が広がっていた。
神域の白さとは違う。
空がある。
風がある。
匂いがある。
遠くで誰かが薪を割る音がする。
水を汲む音がする。
子どもが走る足音がする。
生きている世界の音だった。
セレスティアは、しばらくそれを聞いた。
「帰ってきましたわね」
黒星が低く答えた。
『ああ』
閃白が続ける。
『帰ってきました』
解白が淡く言う。
『帰還状態、継続確認』
朝食の席には、王、王妃、ルシェル、ミレーヌがいた。
セレスティアが入ると、ミレーヌがすぐに立ち上がる。
「お姉様」
「おはようございます、ミレーヌ」
「おはようございます」
ミレーヌは、昨日よりは落ち着いていた。
だが、席は当然のようにセレスティアの隣だった。
王妃が微笑む。
「よく休めましたか」
「はい。休めました」
「食欲は」
「あります」
「よろしい」
王が静かに言った。
「今日は忙しい」
「はい」
「まず、世界連合の緊急会議」
「はい」
「その後、三賢者柱の現状確認」
「はい」
「夕刻には、グランガルドのゴルド殿が来る」
セレスティアは、そこで少し顔を上げた。
「親方が」
「ああ」
「こちらへ?」
「封印杭の最終確認と、神剣の状態確認を兼ねるそうだ」
黒星が低く鳴った。
『ゴルドが来るか』
閃白が澄んで言った。
『久しぶりですね』
解白が淡く告げた。
『神剣状態報告、必要』
セレスティアは、少しだけ笑った。
「親方は、わたくしを見るなり何と言うでしょうね」
ルシェルが即答した。
「バカ姫、でしょう」
ミレーヌも頷いた。
「絶対に言います」
王妃も静かに言う。
「言うでしょうね」
王まで頷いた。
「言うな」
セレスティアは肩を落とした。
「全員一致ですのね」
朝食が始まった。
温かい粥。
香草入りの卵。
白樹の果実。
柔らかいパン。
そして、皿の端には、やはり硬い干し肉があった。
セレスティアはそれを見た。
「お母様」
「ゴルド殿からの指示です」
「指示」
「帰還後三日間は、干し肉を食べさせろとのことです」
「なぜですの」
王妃は真顔で答えた。
「地上確認だそうです」
黒星が低く鳴る。
『妥当』
閃白が言う。
『地上の味です』
解白が続ける。
『現世神性維持食材』
「解白、変な分類を増やさないでください」
セレスティアは、干し肉を噛んだ。
硬い。
だが、昨日より少しだけ嬉しい。
帰ってきた朝にも、硬いものは硬かった。
それは、地上が地上のままである証だった。
食後。
世界連合の緊急会議が開かれた。
白樹の森の大広間には、各地の代表が集まっていた。
人間王国の使節。
ドワーフ諸侯の代表。
竜の谷の老竜の使い。
海の民の巫女。
草原の獣人族長。
山の隠れ里の長。
十の森の代表。
その全員が、セレスティアの入室と同時に姿勢を正した。
跪く者はいない。
祈る者もいない。
ただ、深く頭を下げる。
敬意。
そして、覚悟。
セレスティアは、それを受けた。
受ける。
だが、酔わない。
神格を広げない。
ただ、一人の現世神として立つ。
王が議長席に立った。
「剣神セレスティアが帰還した」
大広間に緊張が走る。
「真神格は安定している」
息を呑む音。
「邪神本体と向き合える格へ至った」
それでも、王は続けた。
「だが、基本方針は変えない」
大広間が静まる。
「この世界は、この世界に生きる者の手で守る」
「剣神セレスティアは、最後の刃である」
「各地は最終配置を継続する」
「剣神に依存するな」
ドワーフ代表が頷く。
「当然だ」
海の巫女も言う。
「海底楔は、我らが守ります」
竜の使いが重く言った。
「竜脈は、竜が支える」
草原の族長が拳を握る。
「避難路と備蓄は稼働可能だ」
人間王国の使節が書類を広げた。
「七十年前の死者名簿について、未判明者は一割を切る見込みです」
ルシェルが顔を上げた。
「残り一カ月で、未判明者の全員解明は難しいでしょう」
「承知しています」
「ですが、未判明のまま記録を固定することに意味があります」
「はい」
ミレーヌが静かに言った。
「忘れたのではない、と記録するのです」
大広間の視線がミレーヌへ向いた。
彼女はもう、かつての幼い妹ではなかった。
古記録庫の副責任者として、七十年前の死者の名を追い続けてきた者の顔だった。
「名が分からない者を、なかったことにしない」
「はい」
「役目が分からない者を、ただの犠牲としない」
「はい」
「未判明という記録を残し、探索継続対象とする」
「はい」
「それも、邪神に奪われないための戦いです」
セレスティアは、隣でそれを聞いていた。
胸が静かに震える。
ミレーヌは立っている。
世界は立っている。
自分がいない九年十一カ月の間に、確かに。
会議は進んだ。
アルディス柱。
境界封印の歪みが拡大。
メルゼア柱。
魂の逆流防止線に黒化の兆候。
ロウガン柱。
半壊維持だが、圧受け能力は限界近い。
海底楔。
補強完了。
竜脈調整。
完了。
封印杭。
全主要地点配備完了。
避難路。
稼働可能。
備蓄。
予定量達成。
医療班。
各地配置。
記録班。
白樹の森、王国、十の森で共同運用。
セレスティアは、会議の間、ほとんど口を開かなかった。
必要な時だけ答える。
求められた時だけ、神格で見た封印線の状態を伝える。
「アルディス柱の歪みは、境界の外側から押されています」
全員が黙って聞く。
「内側を補強しすぎると、圧がメルゼア柱へ逃げます」
「はい」
「外側の圧を受け流す必要があります」
竜の使いが言った。
「竜脈を使えるか」
「使えます。ただし、強く流しすぎるとロウガン柱へ負担が戻ります」
海の巫女が言う。
「海底楔から霊流を緩衝材にしましょう」
「それがよいです」
セレスティアは頷いた。
干渉ではない。
命令でもない。
世界が立つために、見えるものを伝える。
それだけだった。
メルゼア柱についても同じだった。
「魂の逆流を止める線に、邪神が死者の痛みを流し込んでいます」
人間王国の使節が顔を青くする。
「死者の名の回復作業を急ぎます」
「はい。ただし、急いで誤記録を入れてはなりません」
ルシェルが頷いた。
「未判明は未判明として固定します」
「それでよいです」
ミレーヌが言った。
「死者を、美しい物語で上書きしない」
「はい」
セレスティアは妹を見た。
ミレーヌは、もう泣いていなかった。
強くなった。
その強さが、眩しかった。
会議の最後に、王が問うた。
「セレスティア」
「はい」
「最後の一カ月、お前はどう動く」
大広間が静まる。
セレスティアは、立ち上がった。
「わたくしは、自ら封印地へ先行しません」
ざわめきは起きなかった。
皆、分かっていたからだ。
「各地の最終配置に直接介入しません」
「はい」
「ただし、神眼により封印線全体の監視を行います」
「はい」
「世界の理を侵す、地上では届かぬ一点が現れた時」
黒星が低く鳴る。
閃白が澄む。
解白が淡く光る。
「その時だけ、刃を入れます」
大広間に、深い沈黙が落ちた。
やがて、ドワーフ代表が頷く。
「それでいい」
海の巫女も言った。
「我らは、我らの場所を守ります」
竜の使いが重く言う。
「最後の一点まで、竜脈は支える」
人間王国の使節が深く頭を下げた。
「王国は、死者の名の記録を続けます」
草原の族長が言った。
「民を守る」
山の隠れ里の長が言った。
「古碑の最後の写しを送る」
十の森の代表たちが、静かに頷いた。
セレスティアは、その全てを見た。
これが、自分のいない間に立った世界。
完全ではない。
だが、確かに立っている世界。
会議後。
セレスティアは、白樹の泉の前に立った。
泉の水面には、三賢者の柱が映っている。
ロウガン柱は半壊。
アルディス柱は歪む。
メルゼア柱は黒く滲む。
邪神本体の圧は、以前より強い。
だが、今のセレスティアは、それを見ても走らなかった。
ただ、見た。
黒星が低く言う。
『主よ。どう見る』
「限界は近いです」
閃白が問う。
『斬りますか』
「まだです」
解白が淡く言う。
『地上対応可能領域、残存』
「はい」
セレスティアは、泉から目を離した。
「まだ、世界が届きます」
夕刻。
グランガルドから、ゴルドが来た。
王宮の門前に、転送陣の光が立つ。
現れたのは、いつものように頑丈な体格のドワーフ。
大きな槌。
厚い腕。
白くなった髭。
鋭い目。
ゴルド親方だった。
セレスティアは、門前で待っていた。
ゴルドはセレスティアを見るなり、眉を寄せた。
「バカ姫」
セレスティアは、少しだけ笑った。
「やはり第一声はそれですのね」
「当たり前だ」
ゴルドは近づいてくる。
周囲の者たちは、静かに見守っていた。
真神格へ至った剣神セレスティア。
その前に、ゴルドは一切怯まなかった。
跪かない。
拝まない。
ただ、いつものように見上げる。
「顔を見せろ」
「はい」
セレスティアは、少し屈んだ。
ゴルドは、じっと顔を見る。
次に、黒星を見る。
閃白を見る。
背の解白を見る。
そして、鼻を鳴らした。
「神臭くなったな」
セレスティアは苦笑した。
「それは仕方ありませんわ」
「だが、戻ってきてる」
「はい」
「干し肉は食ったか」
「食べました」
「硬かったか」
「硬かったです」
「よし」
ゴルドは満足そうに頷いた。
「無事だな」
「無事の確認基準が干し肉なのですか」
「当たり前だ」
黒星が低く鳴る。
『ゴルドらしい』
閃白が続ける。
『はい』
解白が淡く言う。
『確認方法、粗いが有効』
ゴルドは解白を見た。
「小剣まで喋るようになったか」
『解白。小剣ではなく神剣』
「細けぇな」
『事実』
ゴルドは笑った。
「お前、ルシェルと合いそうだな」
『既に記録照合予定あり』
「やっぱりか」
セレスティアは肩を落とした。
「親方、黒星と閃白も見ますか」
「見る」
セレスティアは黒星と閃白を抜いた。
神剣。
真神格の剣神と共に十年近く神域で研がれた剣。
黒星は、かつてより深い黒を宿していた。
星を抱く闇のような大剣。
閃白は、白銀を超え、透き通るような白い光を持っていた。
ゴルドは、職人の目でそれを見た。
神を見ているのではない。
剣を見ている。
鍛冶師として。
「黒星」
『何だ』
「重さが落ち着いたな」
『主と同調した』
「いい重さだ」
『当然』
「閃白」
『はい』
「澄みすぎて折れそうだった時期があるな」
『神域七年目頃です』
「今はいい」
『ありがとうございます』
「解白」
『何か』
「お前は細いが、芯が強い」
『構造評価、感謝』
ゴルドは、三振りを見終えると、セレスティアへ視線を戻した。
「剣は大丈夫だ」
「はい」
「お前は」
「はい」
「まだ危うい」
周囲の空気が一瞬止まった。
セレスティアは、静かに受けた。
「どこがですか」
「強くなりすぎた」
「はい」
「神格は収まってる」
「はい」
「終焉にも酔ってねぇ」
「はい」
「だが、強すぎる刃は、鞘がなけりゃ周りを傷つける」
セレスティアは黙った。
ゴルドは続ける。
「お前の鞘は何だ」
「地上です」
「違う」
セレスティアは目を瞬かせた。
「違うのですか」
「半分だ」
「では」
「お前が帰る場所だ」
ゴルドの声は低かった。
「白樹の森だけじゃねぇ」
「はい」
「王宮だけでもねぇ」
「はい」
「飯を食う場所」
「はい」
「文句を言える相手」
「はい」
「馬鹿と言われて怒れる相手」
「はい」
「酒を飲む約束」
「はい」
「そういう下らねぇもの全部だ」
セレスティアは、静かに聞いていた。
「神ってのは、立派なもんだけ抱えると危ねぇ」
「はい」
「世界だの理だの終焉だの、そんなもんばかり抱えてると、地面を忘れる」
「はい」
「だから、干し肉を食え」
「そこに戻りますのね」
「戻る」
ゴルドは真顔だった。
「硬いものを硬いと言えるなら、お前はまだ戻れる」
セレスティアは、しばらく沈黙した。
そして、深く頭を下げた。
「ありがとうございます、親方」
「礼はいらねぇ」
「はい」
「邪神を斬ってからにしろ」
「はい」
「あと、酒はまだ駄目だ」
「分かっています」
ゴルドは頷いた。
「よし」
その夜。
白樹の森では、剣神セレスティア帰還後初の合同確認が行われた。
セレスティア。
王。
王妃。
ルシェル。
ミレーヌ。
ゴルド。
各地の代表。
そして、三振りの神剣。
机の上には、七十年前の死者名簿。
三賢者の封印図。
各地の封印杭配置図。
竜脈図。
海底楔図。
避難路。
備蓄一覧。
世界が十年近くかけて積み上げたものが並んでいた。
セレスティアは、それを見た。
自分一人の剣ではない。
黒星だけでもない。
閃白だけでもない。
解白だけでもない。
世界が立つために積み上げた全て。
その上に、自分は最後の刃として立つ。
王が言った。
「残り一カ月」
「はい」
「各地は予定通り動く」
「はい」
「邪神本体が動くまで、セレスティアは待機」
「はい」
「ただし、世界外の理が封印線を破る兆候が出た時のみ、即応」
「はい」
ルシェルが記録する。
ミレーヌが死者名簿を抱える。
王妃がセレスティアの食事予定表を置く。
ゴルドが封印杭の配置図に赤線を引く。
セレスティアは、それを見て少し笑った。
「お母様」
「何ですか」
「食事予定表も会議資料ですの?」
「当然です」
ゴルドも頷いた。
「当然だ」
ルシェルも記録した。
「剣神セレスティアの安定維持項目として食事予定を添付」
「ルシェル」
「必要事項です」
解白が淡く言った。
『同意』
セレスティアは、諦めた。
真神格に至っても、食事管理からは逃れられないらしい。
それでよかった。
神だけにならないためには、こういうものが必要だった。
夜が更ける。
会議が終わる。
各地の代表が退室し、王も執務へ戻る。
王妃とミレーヌも、名残惜しそうにしながら部屋を出た。
最後に残ったのは、セレスティアとゴルドだった。
ゴルドは窓の外を見ていた。
「バカ姫」
「はい」
「前世の身体には会いに行くのか」
セレスティアは、少しだけ沈黙した。
名もなき森。
石棺。
セレスティア、ここに眠る。
前世セレスティアの肉体。
魂の座に残った、邪神すら気づかなかった想い。
「行きます」
「戦う前か」
「はい」
「そうか」
ゴルドは、それ以上聞かなかった。
セレスティアは、静かに言った。
「前世のわたくしは、復活しません」
「ああ」
「ですが、想いが残っています」
「ああ」
「邪神戦争を終わらせるという想いです」
「ああ」
「それを、背負うのではなく」
「おう」
「同じ願いとして、受け取ってきます」
ゴルドは、短く頷いた。
「行ってこい」
「はい」
「ただし、一人で抱えすぎるな」
「はい」
「黒星たちも連れてけ」
『当然だ』
黒星が低く答えた。
閃白も言った。
『共に参ります』
解白が続ける。
『名もなき森、訪問記録予定』
「解白は本当に記録が好きですわね」
『必要』
ゴルドは笑った。
「小剣、気に入ったぞ」
『神剣』
「はいはい」
翌朝。
セレスティアは名もなき森へ向かうことになった。
邪神封印限界まで、あと二十九日。
最後の刃は、戦いの前に、もう一人のセレスティアが眠る場所へ向かう。
復讐のためではない。
罪を背負うためでもない。
ただ、同じ想いを確かめるために。
邪神戦争を終わらせる。
その一つの理を、静かに受け取るために。




