第58話 剣神セレスティア、地上へ帰る
邪神封印限界まで、あと一カ月。
神域の白い大地に、帰還の門が開いた。
門とはいっても、扉ではない。
白い光の円。
その向こうに、白樹の泉が見える。
白樹の森。
王宮。
家族の待つ場所。
セレスティアは、その前に立っていた。
背には黒星。
左腰には閃白。
背には解白。
三振りの神剣は静かだった。
神域での修行は完全に終わった。
真神格は安定している。
邪神本体と向き合える格へ至った。
だが、セレスティアは、最後の確認をしていた。
神格を広げない。
神域で得た力を、地上へ押しつけない。
地上へ戻るのは、神の降臨ではない。
帰還である。
白樹の精霊王の声が響いた。
「セレスティア」
「はい」
「地上へ戻れば、多くの者がお前を見る」
「はい」
「真神格へ至った剣神として見る者もいる」
「はい」
「救い主として見る者もいる」
「はい」
「最後の刃として見る者もいる」
「はい」
「だが、お前はどう戻る」
セレスティアは、少しだけ微笑んだ。
「家に帰る者として戻ります」
黒星が低く鳴った。
『よい』
閃白が澄んで言った。
『最もよいです』
解白が淡く告げた。
『帰還意思、安定』
白樹の精霊王は言った。
「ならば行け」
「はい」
「神は祈らない」
「はい」
「神は群れない」
「はい」
「神は謀らない」
「はい」
「神は干渉しない」
「はい」
「だが、現世神は帰る」
セレスティアは、静かに頭を下げた。
「はい」
白い光の円へ、一歩踏み出す。
神域の空気が遠ざかる。
白い大地が薄れる。
剣の山が遠ざかる。
十年近くいた場所。
見ても動かぬことを覚えた場所。
神格圧に立った場所。
邪神問答に答えた場所。
終焉の一太刀を研いだ場所。
真神格へ至った場所。
そこを、セレスティアは振り返らなかった。
帰るのだから。
次の瞬間。
白樹の泉が、静かに光った。
王宮の泉の間。
王。
王妃。
ルシェル。
ミレーヌ。
白樹の森の精霊術師たち。
全員が、息を呑んでいた。
泉の水面に、白い光が満ちる。
虹色の光が一筋混じる。
空間が揺れる。
そして、セレスティアが現れた。
影はない。
真神格へ至った現世神。
剣神セレスティア。
背には黒星。
左腰には閃白。
背には解白。
神域に入った時より、はるかに深い格を宿している。
だが、その神格は外へ漏れていなかった。
泉の水は揺れない。
床は軋まない。
精霊術師たちも膝をつかない。
世界は押し潰されていない。
セレスティアは、地上に立った。
そして、最初に言った。
「ただいま帰りました」
その言葉で、張り詰めていた空気が解けた。
ミレーヌが走った。
「お姉様!」
王妃が止めようとした。
だが、止められなかった。
ミレーヌはそのままセレスティアへ飛び込んだ。
セレスティアは、黒星が邪魔にならないように少し身体を傾け、妹を受け止めた。
強く。
けれど、壊さないように。
ミレーヌは泣いていた。
「お帰りなさい」
「はい」
「本当に帰ってきた」
「帰ってきました」
「十年近く、ずっと」
「はい」
「お姉様」
「はい」
「少しだけ甘えるって言いました」
「はい」
「今です」
セレスティアは、少しだけ笑った。
「はい」
ミレーヌを抱きしめ返す。
真神格の神としてではない。
姉として。
ミレーヌは泣いた。
セレスティアも、涙は流さなかった。
神格の身体に涙は必要ない。
だが、胸は確かに震えていた。
王妃が近づく。
「セレスティア」
「お母様」
王妃は、セレスティアの頬にそっと手を当てた。
「顔を見せなさい」
「はい」
王妃は、長く娘の顔を見た。
影はない。
虹色の神眼は深くなっている。
神としての気配はある。
だが、そこにいるのは娘だった。
王妃は静かに息を吐いた。
「帰ってきましたね」
「はい」
「食事は」
セレスティアは、即座に答えた。
「摂ります」
王妃は頷いた。
「よろしい」
黒星が低く鳴った。
『最重要確認、完了』
閃白が澄んで言った。
『王妃様はぶれません』
解白が淡く告げた。
『帰還後食事、実施予定』
ルシェルは、その声を聞きながら記録板を抱えていた。
「姉上」
「ルシェル」
「帰還時の神格圧、地上影響なし」
「はい」
「真神格漏出、なし」
「はい」
「泉の水面安定」
「はい」
「精霊術師への圧迫反応なし」
「はい」
「黒星、閃白、解白、健在」
「はい」
「帰還第一声、ただいま帰りました」
「ルシェル」
「はい」
「今、それを記録しているのですか」
「はい」
セレスティアは、少しだけ笑った。
「本当に変わりませんわね」
ルシェルは、真面目に頷いた。
「記録は重要です」
解白が淡く言った。
『同意』
ルシェルは、解白を見た。
「解白様とは、後ほど詳細な記録照合を行いたいです」
『対応可能』
「頼もしいです」
セレスティアは、肩を落とした。
「帰ってきた早々、記録会議ですの?」
王が、そこでようやく前へ出た。
「セレスティア」
「お父様」
セレスティアは、深く頭を下げた。
「長く留守にしました」
王は首を横に振った。
「よく戻った」
「はい」
「そして、よく耐えた」
その言葉は、重かった。
王として。
父として。
世界を支える者として。
その全てが混じっていた。
セレスティアは、静かに答えた。
「地上が立っていてくれたからです」
「世界は、完全ではない」
「はい」
「だが、立っている」
「はい」
「お前に全てを背負わせぬために、皆が立った」
「はい」
王は、少しだけ目を伏せた。
「それでも、最後の刃はお前だ」
「承知しています」
「怖いか」
「怖いです」
「よい」
「ですが、刃は揺れていません」
王は頷いた。
「ならばよい」
泉の間の精霊術師たちは、膝をついていなかった。
拝んでもいなかった。
ただ、頭を下げている。
それは信仰ではなく、敬意だった。
セレスティアは、それを見て安心した。
神として崇められるために帰ってきたのではない。
最後の刃として戻ってきた。
そして、家族のもとへ帰ってきた。
その両方が必要だった。
王妃が言った。
「食事を用意しています」
「はい」
「神域で最後に何を食べましたか」
「干し肉、保存菓子、柔らかい豆パン、白樹の乾燥果実、ロウガン・エルド様の豆の塩煮です」
「よろしい」
「親方の干し肉は最後まで硬かったです」
「でしょうね」
王妃は、少しだけ笑った。
「今日は柔らかいものを用意しました」
ミレーヌが顔を上げた。
「お姉様、私も一緒に食べます」
「はい」
「隣に座ります」
「はい」
「離れません」
「はい」
セレスティアは笑った。
「では、わたくしも離しません」
ミレーヌは、泣きながら笑った。
食堂へ向かう。
王宮の廊下は、十年近く前と同じだった。
だが、少し違って見えた。
セレスティアが変わったからかもしれない。
白樹の森が変わったからかもしれない。
世界が、最後の一カ月へ入っているからかもしれない。
廊下の途中、侍女たちが頭を下げる。
兵たちが姿勢を正す。
誰も跪かない。
誰も祈らない。
ただ、帰還した姫を迎えるように、静かに礼をする。
セレスティアは、それでよいと思った。
食堂には、温かい料理が並んでいた。
野菜のスープ。
柔らかく焼いた白パン。
香草で煮た豆。
白樹の果実を使った焼き菓子。
少量の肉料理。
そして、なぜか皿の端に硬い干し肉が一本置かれていた。
セレスティアは、それを見て固まった。
「お母様」
「ゴルド殿から届きました」
「ここまで干し肉を」
「帰還確認用だそうです」
黒星が低く鳴った。
『強い錨だ』
閃白が言った。
『食卓にまで侵入しています』
解白が淡く言った。
『現世神性確認用食材』
「それは食材なのですか」
セレスティアは、少しだけ笑いながら席に着いた。
ミレーヌが隣に座る。
王妃が向かいに座る。
王が上座に座る。
ルシェルは、記録板を持ったまま座ろうとして、王妃に止められた。
「食事中は記録板を置きなさい」
「しかし」
「置きなさい」
「はい」
ルシェルは記録板を置いた。
セレスティアは、それを見て笑った。
「ルシェルも変わりませんわね」
「姉上こそ」
「わたくし?」
「真神格へ至っても、干し肉に文句を言っています」
「当然です。硬いものは硬いです」
王が、少しだけ笑った。
食事が始まった。
セレスティアは、スープを一口飲んだ。
温かい。
神域の保存食とは違う。
地上の食事。
家族の食卓。
王妃の味。
その温かさが、真神格の奥まで染みていく。
セレスティアは、目を伏せた。
「美味しいです」
王妃は、静かに微笑んだ。
「よかった」
ミレーヌが言う。
「お姉様、もっと食べてください」
「はい」
「保存菓子ばかりでは駄目です」
「はい」
「干し肉も硬いだけです」
「それは本当にそうです」
黒星が低く鳴った。
『主よ。干し肉も食べろ』
「黒星まで」
閃白が続ける。
『ゴルド親方の確認用です』
解白も言う。
『帰還証明として摂取推奨』
セレスティアは、仕方なく干し肉を手に取った。
噛む。
硬い。
地上へ帰ってきても硬い。
だが、その硬さが、妙に嬉しかった。
「硬いですわ」
食堂に、小さな笑いが広がった。
その笑いは、神の帰還を祝うものではない。
家族の帰還を喜ぶものだった。
食後。
セレスティアは、白樹の泉の間へ戻った。
王、王妃、ルシェル、ミレーヌも同行する。
今度は、連合への正式報告を送るためだった。
ルシェルが記録板を構える。
「姉上、帰還報告をお願いします」
「はい」
「神格圧抑制状況」
「安定」
「真神格漏出」
「なし」
「神域同化」
「なし」
「終焉陶酔」
「なし」
「帰還意思」
「継続」
「食事」
「摂取済み」
「干し肉」
「硬かったです」
ルシェルは、一瞬だけ筆を止めた。
「記録しますか」
解白が淡く言った。
『記録価値あり』
ルシェルは頷いた。
「記録します」
「しなくてよろしいです」
王妃が静かに言った。
「食事内容としては記録してよいでしょう」
「お母様まで」
セレスティアは肩を落とした。
だが、笑っていた。
正式報告が整えられる。
白樹の森より、世界連合各代表へ。
剣神セレスティア、神域より帰還。
真神格安定。
神域同化なし。
地上帰還時の神格圧漏出なし。
黒星、閃白、解白、健在。
三神剣同調、完全安定。
剣神セレスティアは、邪神本体と向き合える格へ至った。
ただし、世界連合の基本方針は変更なし。
この世界は、この世界に生きる者の手で守る。
剣神セレスティアは、最後の刃である。
各地は最終配置を継続されたし。
この報告は、十の森へ。
人間王国へ。
グランガルドへ。
竜の谷へ。
海の民へ。
草原の獣人へ。
山の隠れ里へ。
各地へ送られた。
世界が、静かに震えた。
剣神セレスティアが帰還した。
真神格へ至った最後の刃が、地上へ戻った。
だが、命令は一つだった。
各地は最終配置を継続せよ。
剣神に依存するな。
世界は、自ら立て。
グランガルド。
報告を受け取ったゴルドは、鍛冶場の前で鼻を鳴らした。
「帰ってきやがったか」
弟子が笑った。
「親方、看板ですね」
「当然だ」
「何と」
「書け」
「はい」
「バカ姫、地上帰還」
「はい」
「真神格でも干し肉は硬いと言う」
「はい」
「よって、無事」
「はい」
「酒はまだ駄目」
看板が立てられた。
バカ姫、地上帰還。
真神格でも干し肉は硬いと言う。
よって、無事。
酒はまだ駄目。
町の者たちは、それを見て大笑いした。
そして、すぐに作業へ戻った。
封印杭を運ぶ。
武具を整える。
荷馬車を点検する。
食糧を積む。
剣神が帰ってきた。
だが、世界の仕事は終わっていない。
邪神封印限界まで、あと一カ月。
白樹の森の夜。
セレスティアは、自室に戻った。
十年近く空いていた部屋。
綺麗に整えられている。
机の上には、ミレーヌからの花。
ルシェルがまとめた報告書。
王妃の手書きの食事予定。
王からの短い書状。
そして、ゴルドからの包み。
中には、硬い干し肉が入っていた。
セレスティアは、それを見て笑った。
「本当に、親方は」
黒星が低く言う。
『主よ』
「はい」
『帰ってきたな』
閃白が澄んで続ける。
『はい。帰ってきました』
解白が淡く言った。
『帰還完了。地上錨、極めて安定』
セレスティアは、窓を開けた。
白樹の森の夜風が入る。
神域にはなかった風。
地上の風。
遠くで、精霊灯が揺れている。
世界は、まだ不安の中にある。
邪神は封印の奥で動いている。
三賢者の柱は軋んでいる。
最後の戦いは近い。
それでも、セレスティアは今、帰ってきた。
神としてではなく。
神だけではなく。
剣神として。
現世神として。
そして、白樹の森の娘として。
セレスティアは、静かに呟いた。
「ただいま」
誰に向けた言葉でもなかった。
白樹の森へ。
家族へ。
地上へ。
前世の自分へ。
そして、自分自身へ。
黒星が低く答えた。
『おかえり』
閃白が続けた。
『おかえりなさい』
解白が淡く言った。
『帰還確認』
セレスティアは笑った。
邪神封印限界まで、あと一カ月。
最後の刃は、地上へ帰ってきた。




