第57話 神は祈らない
神域修行は、完全に修了した。
邪神封印限界まで、あと一カ月。
剣神セレスティアは、白い神域の山頂に立っていた。
背には黒星。
左腰には閃白。
背には横付けされた解白。
三振りの神剣は、静かだった。
真神格は安定している。
神域同化の兆候はない。
終焉への陶酔もない。
地上への帰還意思も、揺らいでいない。
白樹の精霊王は言った。
「セレスティア」
「はい」
「神域での修行は終わった」
「はい」
「だが、地上へ戻る前に、一つだけ確認する」
「何でしょうか」
「お前は、何を祈る」
セレスティアは、静かに目を伏せた。
祈る。
その言葉は、神にとって不思議な響きを持っていた。
人は神へ祈る。
救いを求める。
勝利を願う。
病が癒えることを願う。
死者が安らかに眠ることを願う。
明日が来ることを願う。
それは自然なことだった。
弱いから祈るのではない。
生きているから祈る。
届かないものがあるから祈る。
どうにもならないことがあるから祈る。
だが。
真神格へ至ったセレスティアは、もう知っていた。
神は、祈らない。
セレスティアは目を開いた。
「祈りません」
白樹の精霊王は黙っている。
セレスティアは続けた。
「わたくしは、邪神を倒せますようにとは祈りません」
「はい」
「世界が救われますようにとも祈りません」
「はい」
「死者が眠れますようにとも祈りません」
「はい」
「勝てますようにとも、負けませんようにとも、祈りません」
「なぜ」
精霊王の問いは静かだった。
セレスティアは、白い神域の空を見上げた。
太陽も月もない。
だが、明るい。
そこにあるのは、神域の理だけだった。
「祈るとは、己の外へ結果を委ねることだからです」
黒星が低く鳴った。
閃白が澄んだ。
解白が淡く光った。
「人が祈るのはよいのです」
「はい」
「生きる者は、届かないものを抱えます」
「はい」
「死者のために祈ることも、明日のために祈ることも、世界を守りたいと願うことも、間違いではありません」
「はい」
「ですが、神が祈ってはならない」
「なぜ」
「神が祈れば、神は己の理を外へ預けることになるからです」
セレスティアは、自分の胸に手を置いた。
そこには真神格がある。
破邪。
葬送。
守護。
終焉。
剣。
五つの柱は、今や一つの剣神神格として安定している。
「わたくしは、剣神です」
「はい」
「終わるべきものを終わらせる理として立ちます」
「はい」
「ならば、祈るのではなく、在らねばなりません」
白樹の精霊王は、静かに頷いた。
「では、お前は何を願う」
「願いません」
「世界の無事もか」
「願いません」
「家族の無事もか」
セレスティアは、少しだけ目を伏せた。
白樹の森。
王。
王妃。
ルシェル。
ミレーヌ。
胸の奥に温かい痛みがある。
守りたい。
帰りたい。
無事でいてほしい。
それは消えない。
消す必要もない。
だが、それを神としての願いにしてはならない。
「家族の無事を望む心はあります」
「はい」
「ですが、神として願いません」
「はい」
「わたくしが家族の無事を神の願いにすれば、白樹の森だけを特別にしてしまいます」
「はい」
「それは、愛ではなく依怙です」
精霊王の声は、さらに深くなった。
「では、お前は家族を愛さぬのか」
「愛しています」
即答だった。
「だからこそ、神の理で曲げません」
神域に、静けさが満ちた。
セレスティアは続ける。
「わたくしは、世界を謀りません」
「はい」
「邪神を謀りません」
「はい」
「神々と群れて、誰かの同意で刃を振るいません」
「はい」
「祈りません」
「はい」
「干渉しません」
白樹の精霊王は、静かに問う。
「ならば、神とは何だ」
セレスティアは、長く黙った。
それは、神域での九年十一カ月を通じて、何度も問われたことだった。
神とは何か。
力を持つ者か。
祈りに応える者か。
世界を救う者か。
世界を支配する者か。
終わらせる者か。
守る者か。
見守る者か。
その全ては、一部ではある。
だが、真神格へ至った今、セレスティアは違う答えを持っていた。
「神とは、在るものです」
「はい」
「群れて決めるものではありません」
「はい」
「謀って動かすものではありません」
「はい」
「祈って委ねるものではありません」
「はい」
「干渉して奪うものではありません」
「はい」
「ただ、己の理として在る」
「はい」
「そして、世界の理が破られた時だけ、理として立つ」
白樹の精霊王は、何も言わなかった。
セレスティアは、剣の山の頂から白い大地を見下ろした。
「邪神は、世界へ干渉しています」
「はい」
「生者を素材とし、死者を素材とし、魂の座を器とし、痛みを鎖に変えています」
「はい」
「それは世界の理への侵害です」
「はい」
「だから、わたくしが邪神を斬ることは、世界への干渉ではありません」
黒星が低く沈む。
閃白が白く澄む。
解白が淡く震える。
「世界の理を取り戻す行為です」
白樹の精霊王は、ようやく言った。
「よい」
セレスティアは、静かに頭を下げた。
だが、精霊王の問いは終わらなかった。
「では、お前は神々の会議に出るか」
「出ません」
「なぜ」
「真神格へ至った今、わたくしが神々の会議に出れば、地上側の判断に神側の重みを持ち込みすぎます」
「はい」
「それに、最後の刃を振るう判断を、神々の合議に預けてはなりません」
「はい」
「最後に刃を振るうのは、わたくしです」
「はい」
「ならば、その責を会議に分けてはいけない」
精霊王は問う。
「独断か」
「いいえ」
「では」
「地上が立ち、生者が尽くし、死者の名が呼ばれ、神々が見守り、それでも届かない最後の一点に至った時」
セレスティアは、黒星に触れた。
「黒星と」
閃白に触れた。
「閃白と」
解白へ意識を向けた。
「解白と」
そして、自分の胸へ手を置いた。
「現世神であるわたくしが、最後に決めます」
「それは傲慢ではないか」
「傲慢です」
セレスティアは否定しなかった。
「だから、帰る場所を持っています」
「はい」
「白樹の森へ帰ります」
「はい」
「家族の食卓へ戻ります」
「はい」
「ゴルド親方に文句を言いに行きます」
「はい」
「酒も飲みます」
「はい」
「そうして、神だけにならないようにします」
黒星が低く笑うように鳴った。
『主よ。酒は邪神戦争後だ』
「分かっています」
閃白が続ける。
『王妃様の前でも同じことを言ってください』
「言います」
解白が淡く言った。
『飲酒制限解除条件、邪神戦争終結後』
「解白、記録しなくてよろしいです」
『記録価値あり』
セレスティアは小さく笑った。
その笑いは、神らしくなかった。
だが、だからこそよかった。
白樹の精霊王は言った。
「セレスティア」
「はい」
「お前は、真神格へ至った」
「はい」
「そして、神は祈らぬと悟った」
「はい」
「だが、忘れるな」
「はい」
「人は祈る」
「はい」
「地上の者たちは、これからお前へ祈るだろう」
「はい」
「剣神よ、救ってください」
「はい」
「剣神よ、邪神を討ってください」
「はい」
「剣神よ、死者を眠らせてください」
「はい」
「その祈りを、どう扱う」
セレスティアは、即答しなかった。
人の祈り。
それは否定してはならない。
神が祈らないことと、人の祈りを切り捨てることは違う。
人は祈る。
それは、届かないものを抱えて生きる者の自然な行為である。
祈りは弱さではない。
だが、祈りに応じて都合よく動く神になってはならない。
セレスティアは答えた。
「受け取ります」
「はい」
「ですが、祈りに従いません」
「はい」
「祈りを聞きます」
「はい」
「ですが、祈りの量で刃を振るいません」
「はい」
「祈りが多いから助けるのではありません」
「はい」
「祈りが少ないから見捨てるのでもありません」
「はい」
「世界の理が侵され、地上が届かぬ最後の一点に至った時、刃を振るいます」
白樹の精霊王は頷いた。
「よい」
その時、神域の白い大地に、地上の声がかすかに届いた。
邪神封印限界まで、あと一カ月。
世界は最終配置に入っている。
各地で、人々は祈っていた。
白樹の森の民が祈る。
人間王国の民が祈る。
ドワーフの職人が炉の前で祈る。
海の民が海底楔の前で祈る。
竜の谷の若い竜が空を見て祈る。
草原の獣人が備蓄小屋の前で祈る。
名を取り戻された死者の家族が祈る。
まだ名を探している者たちが祈る。
剣神セレスティアへ。
どうか、世界を救ってください。
どうか、邪神を討ってください。
どうか、死者を眠らせてください。
その祈りは、神域まで届いた。
セレスティアは、それを聞いた。
胸が痛んだ。
温かくもあった。
重くもあった。
だが、祈りに引かれて動かなかった。
ただ、受け取った。
「祈りは、地上の声です」
「はい」
「それを無視しません」
「はい」
「ですが、祈りに操られません」
「はい」
「わたくしは、剣神として在ります」
白樹の精霊王は、静かに言った。
「ならば、最後の確認は終わりである」
「はい」
「地上へ戻る準備をせよ」
「はい」
セレスティアは、剣の山を下りた。
神域修行は終わっている。
真神格も安定している。
残り一カ月は、微調整と帰還準備だった。
地上へ戻るには、ただ降りればよいわけではない。
真神格の圧を抑える必要がある。
神域から地上へ戻った瞬間、世界に神格の波を走らせてはならない。
現世神である以上、地上に足をつける。
だが、地上を押し潰してはならない。
そのため、セレスティアは真神格を深く収める訓練を繰り返した。
黒星が重さを調整する。
閃白が神格の光を澄ませる。
解白が地上との結び目を確認する。
セレスティアは、そのたびに呼吸をした。
吸う。
吐く。
神であることを、外へ広げない。
ただ、内へ収める。
現世神として、地上に立つために。
しばらくして、地上から光が届いた。
白樹の森からの報告だった。
ルシェルの筆跡。
いつも通り整っている。
だが、わずかに筆圧が強い。
白樹の森より、神域の剣神セレスティアへ。
邪神封印限界まで、残り一カ月。
世界連合、最終配置へ移行。
各地封印補強、完了。
海底楔、補強完了。
竜脈調整、完了。
封印杭、主要地点配備完了。
七十年前の死者の名の回復作業、完全な名六割五分、役目または場所のみ判明二割五分、未判明一割。
未判明者についても、未判明のまま記録を固定。
忘却ではなく、探索継続対象として扱う。
三賢者柱。
ロウガン柱、半壊維持。
アルディス柱、歪み拡大。
メルゼア柱、歪み拡大。
邪神本体の圧、増大。
剣神セレスティア帰還予定を前提に、地上側は最後の一カ月を維持します。
王より。
帰還を待つ。
王妃より。
帰還後、まず食事を摂ること。
ミレーヌより。
お姉様、帰ってきたら抱きつきます。
ルシェルより。
帰還時の神格圧抑制状況について、可能であれば事前報告をお願いします。
ゴルド親方より。
帰ったら鍛冶場に顔を出せ。
酒は邪神戦争後。
セレスティアは、報告を読み終えた。
そして、小さく笑った。
「ルシェルは最後まで事前報告を求めますのね」
黒星が低く言う。
『よい弟だ』
閃白が澄んで続ける。
『王妃様は、やはり食事です』
解白が淡く言う。
『帰還後食事、必須項目』
「分かっています」
セレスティアは、補給袋を開いた。
保存菓子。
干し肉。
柔らかい豆パン。
白樹の乾燥果実。
ロウガン・エルドの豆の塩煮。
神域で食べる最後の補給になるかもしれない。
そう思うと、少しだけ感慨深かった。
セレスティアは、干し肉を手に取った。
噛む。
硬い。
最後まで硬い。
それでよかった。
「神は祈りません」
セレスティアは、干し肉を噛みながら言った。
「ですが、干し肉には文句を言います」
黒星が低く鳴った。
『よい』
閃白が笑うように澄んだ。
『極めて現世神らしいです』
解白が淡く告げる。
『地上錨、最終確認良好』
セレスティアは、返書を書いた。
神域より、白樹の森へ。
剣神セレスティア、無事です。
真神格は安定。
神格圧は地上帰還可能な範囲まで収束済み。
帰還時、世界へ過剰な神格波を出さないよう、黒星、閃白、解白と最終調整を継続中。
神域同化の兆候はありません。
終焉への陶酔もありません。
帰還意思は極めて安定。
地上からの祈りは届いています。
受け取っています。
ですが、祈りに従って動くのではなく、剣神として在ります。
わたくしは祈りません。
邪神を倒せますようにとも、世界が救われますようにとも祈りません。
わたくしは、終わるべきものを終わらせる理として立ちます。
世界が届かぬ最後の一点に、刃を入れます。
お父様へ。
帰還します。
お母様へ。
帰還後、食事を摂ります。
ミレーヌへ。
抱きついてよろしいです。
ただし、わたくしも抱き返します。
ルシェルへ。
神格圧抑制状況は上記の通りです。
詳細報告は帰還後に提出します。
ゴルド親方へ。
鍛冶場に顔を出します。
酒は邪神戦争後。
干し肉は最後まで硬いです。
セレスティアは、最後に一文を加えた。
神は祈りません。
ですが、わたくしは帰ります。
返書は、白い光となって地上へ向かった。
白樹の森。
白樹の泉の前で、ルシェルがその返書を読み上げた。
王は静かに聞いていた。
王妃は、食事を摂るとの一文で頷いた。
ミレーヌは、抱き返しますという部分で泣きそうな顔で笑った。
ルシェルは、神格圧抑制状況を細かく記録した。
そして、最後の一文で手を止めた。
神は祈りません。
ですが、わたくしは帰ります。
王は、静かに言った。
「真に神となったのだな」
王妃は、微笑んだ。
「そして、娘のまま帰ってくるのですね」
ミレーヌは頷いた。
「はい」
ルシェルは記録した。
剣神セレスティア。
真神格安定。
神は祈らないとの悟りに至る。
祈りは受け取るが、祈りに従わない。
世界への過干渉なし。
帰還意思あり。
帰還後食事予定。
グランガルドにも報告が届いた。
ゴルドは読み、鼻を鳴らした。
「神は祈らねぇ、か」
弟子が問う。
「親方、看板ですか」
「当たり前だ」
「何と」
「書け」
「はい」
「バカ姫、神は祈らないと悟る」
「はい」
「だが、干し肉には文句を言う」
「はい」
「つまり、まだ帰ってくる」
「はい」
「酒は邪神戦争後」
看板が立った。
バカ姫、神は祈らないと悟る。
だが、干し肉には文句を言う。
つまり、まだ帰ってくる。
酒は邪神戦争後。
町の者たちは、それを見て笑った。
そして、空を見た。
祈る者もいた。
祈らない者もいた。
ただ拳を握る者もいた。
炉に薪を入れる者もいた。
封印杭を運ぶ者もいた。
食糧を積む者もいた。
誰も、剣神だけに全てを預けてはいなかった。
世界は、最後の一カ月も立とうとしていた。
神域。
セレスティアは、剣の山の頂で静かに立っていた。
地上の祈りが届いている。
だが、祈らない。
地上の声を受け取っている。
だが、流されない。
神々の気配もある。
だが、群れない。
邪神本体の圧も、遠くに感じる。
だが、謀らない。
ただ、在る。
剣神として。
現世神として。
真神格へ至った最後の刃として。
黒星が低く言った。
『主よ』
「はい」
『帰るぞ』
閃白が続ける。
『地上へ』
解白が淡く言った。
『帰還準備、最終段階』
セレスティアは、目を閉じた。
白樹の森の匂いを思い出す。
家族の声を思い出す。
ゴルドの看板を思い出す。
硬い干し肉を思い出す。
名もなき森の石棺を思い出す。
前世セレスティアの静かな想いを思い出す。
絶対に邪神戦争を終わらせる。
祈りではない。
願いでもない。
今のセレスティアにとって、それは理だった。
終わるべきものを、終わらせる。
ただ、それだけ。
剣神セレスティアは、目を開いた。
虹色の神眼は、静かだった。
神は祈らない。
神は群れない。
神は謀らない。
神は干渉しない。
ただ、在る。
そして、世界がどうしても届かぬ最後の一点にだけ、刃を入れる。
邪神封印限界まで、あと一カ月。
剣神セレスティアは、地上へ戻る時を待っていた。




