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神剣のセレスティア  作者: 玉響すばる


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第54話 神域九年

 さらに二年が過ぎた。


 地上の時間で、神域修行九年。


 邪神封印限界まで、あと一年。


 白い神域の剣の山は、もはや遠い頂ではなかった。


 セレスティアは、その山頂へ何度も登った。


 一度ではない。


 十度でもない。


 百度でもない。


 邪神の影と向き合い、刃を通し、弾かれ、呑まれかけ、立て直し、また登った。


 七年目に、初めて邪神の影へ刃が届いた。


 八年目に、邪神の影の一部を斬れるようになった。


 九年目。


 セレスティアは、邪神の影の前に立っていた。


 背には黒星。


 左腰には閃白。


 背には解白。


 三振りの神剣は、静かだった。


 静かすぎるほどに。


 かつては、黒星が重くなり、閃白が沈黙し、解白が結び目を指摘した。


 今は違う。


 セレスティアが自分で止まる。


 自分で怒りを沈める。


 自分で責任の結び目を見つける。


 それでも三振りは不要になったわけではない。


 むしろ、より深く一つになっていた。


 黒星は、外にある大剣ではなく、セレスティアの守護と終焉の重さそのものだった。


 閃白は、左手にある聖剣ではなく、破邪と葬送を通す白い理そのものだった。


 解白は、背にある小剣ではなく、魂の座と封印の結び目を見る感覚そのものだった。


 三振りの神剣は、三振りのまま。


 だが、剣神セレスティアの神格の中で、一つの刃として呼吸していた。


 邪神の影が、山頂で口を開いた。


『九年か』


 セレスティアは、静かに頷いた。


「はい」


『長いな』


「そうですね」


『神にとっては短い』


「ですが、地上に生きる者にとっては長い」


『お前は神だ』


「現世神です」


『まだ地上にこだわるか』


「はい」


 邪神の影が笑った。


 顔はない。


 だが、笑った気配だけがある。


『だから、お前は強くなった』


 セレスティアは、目を伏せた。


「皮肉ですか」


『事実だ』


 黒い影の背後に、世界の外の理が広がる。


 七年目に見た時よりも、はっきり分かる。


 邪神の理は、怒りではない。


 憎しみでもない。


 悲しみでもない。


 それらを使うだけで、本質は別にある。


 世界を世界として見ない理。


 生者も死者も、名も記憶も、魂の座も、ただ扱える素材として見る理。


 だから、邪神は死者を眠らせない。


 だから、魂を縛る。


 だから、痛みを鎖にする。


 それは滅びではない。


 終焉でもない。


 冒涜だった。


 セレスティアは、神眼を開いた。


 第一層。


 第二層。


 第三層。


 第四層。


 第五層。


 今は、必要な層だけを滑らかに開ける。


 邪神の影の外殻。


 内側の濁り。


 魂の座へ似せた虚ろな穴。


 外理の圧。


 終焉を拒む黒い核。


 すべてが見える。


 だが、見えすぎて呑まれることはない。


 邪神の影が言った。


『斬ってみろ』


「はい」


 セレスティアは、黒星を抜かなかった。


 閃白も抜かなかった。


 解白にも手をかけなかった。


 ただ、右手を前へ出した。


 黒星の重さが、神格の中で落ちる。


 閃白の白線が、神格の中で走る。


 解白の糸が、神格の中で伸びる。


 黒い影の外理を押さえる。


 濁りを祓う。


 結び目を見極める。


 そして、終焉を通す。


「終わるべきものだけ、終わりなさい」


 黒い影の胸に、細い線が入った。


 爆ぜない。


 砕け散らない。


 ただ、邪神の影の一部が静かに消えた。


 七年目なら、ここで大きく息を吐いていた。


 八年目なら、黒星と閃白を握りしめていた。


 九年目の今。


 セレスティアは、表情を変えなかった。


 邪神の影は、少しだけ後退した。


『届くようになったな』


「はい」


『だが、まだ上回ってはいない』


「承知しています」


『本体は、影より深い』


「はい」


『本体は、お前の痛みを正確に突く』


「はい」


『本体は、前世の肉体を使った罪を、お前へ投げる』


 セレスティアの神格が、わずかに揺れた。


 黒星が低く鳴る。


 閃白が澄む。


 解白が淡く震える。


 だが、セレスティアは動揺を追い出さなかった。


 痛みはある。


 それでよい。


 痛みがあるから、死者を素材として見ない。


 痛みがあるから、前世セレスティアの眠りを軽く扱わない。


 痛みがあるから、邪神の冒涜を許さない。


 しかし、痛みを邪神へ渡さない。


「それでも、わたくしは立ちます」


『強くなったものだ』


「地上が、わたくしを戻してくれますから」


『食事か』


「はい」


『家族か』


「はい」


『鍛冶師か』


「はい」


『神剣か』


「はい」


『死者の名か』


「はい」


『それで神の格を上げるとは、奇妙な現世神だ』


 セレスティアは、少しだけ笑った。


「わたくしらしいでしょう」


 邪神の影は答えなかった。


 代わりに、黒い圧を広げた。


 山頂全体が、暗く染まる。


 無数の声が湧いた。


 六十九年前の死者。


 七十年前の死者。


 名を取り戻された者。


 まだ名を取り戻されていない者。


 封印の楔となった者。


 不死の軍勢にされた者。


 死者として眠れなかった者。


 その声の中に、前世セレスティアの姿が混じった。


 血に濡れ、右手に黒星、左手に閃白を握る剣聖セレスティア。


 かつて邪神格に操られた肉体。


 邪神の眷属として立ち続けた死者。


 幻の剣聖セレスティアは、セレスティアを見た。


『あなたのせい』


 その声が響いた。


 黒星が重くなりかける。


 閃白が沈黙しかける。


 解白が結び目を探りかける。


 だが、セレスティアは首を横に振った。


「違います」


『あなたが弱かったから』


「違います」


『あなたが死んだから』


「違います」


『あなたの肉体が家族を殺した』


「邪神格が殺しました」


『でも、その手はあなたの手』


「違います」


 声は、さらに深くなる。


『本当に?』


 セレスティアは、幻の前世セレスティアを見た。


 かつてなら、ここで揺れた。


 四年前なら、痛みに膝をついたかもしれない。


 七年前なら、全てを背負おうとしたかもしれない。


 だが、九年目の今。


 セレスティアは、痛みを見たまま、答えた。


「前世のわたくしは、死者です」


 幻が揺れる。


「死者に罪を着せません」


 閃白が白く澄む。


「邪神の罪を、死者セレスティアへ渡しません」


 解白が淡く光る。


「今生のわたくしも、邪神の罪を自分の罪として抱えません」


 黒星が深く鳴る。


「痛みはあります」


「悲しみもあります」


「怒りもあります」


「ですが、責は邪神に返します」


 幻の前世セレスティアが、静かに薄れた。


 その瞬間。


 名もなき森の石室で、聖布がわずかに揺れた。


 石棺の中。


 前世セレスティアの肉体の魂の座。


 邪神さえ気づけなかった魂の残渣。


 そこに残っていた、静かな想いが微かに光った。


 絶対に邪神戦争を終わらせる。


 その想いは、神域へは届かない。


 まだ届かない。


 だが、かすかに響いた。


 剣神セレスティアは、ふと胸に手を当てた。


「今……」


 黒星が低く問う。


『何か感じたか』


「分かりません」


 閃白が澄んだ声で言った。


『邪ではありません』


 解白が淡く告げる。


『清浄反応。遠方。極微弱』


「名もなき森でしょうか」


『可能性あり』


 セレスティアは、目を閉じた。


 前世の自分。


 剣聖セレスティア。


 眠る身体。


 魂の座。


 何かがあった。


 だが、今は追わない。


 追えば、修行を離れる。


 今は、目の前の邪神の影と向き合う時だった。


「後で確認します」


 黒星が低く言った。


『よい』


 邪神の影が、わずかに揺れた。


『今のを追わぬか』


「追いません」


『前世のお前かもしれぬぞ』


「だからこそ、今は追いません」


『冷たいな』


「違います」


 セレスティアは、静かに答えた。


「眠っている者を、わたくしの都合で起こしません」


 邪神の影は、黙った。


 その沈黙が、今までより少しだけ重かった。


 白樹の精霊王の声が、遠くから響いた。


「よい」


 セレスティアは、邪神の影から視線を外さない。


 影は、次に別の形を取った。


 三本の柱。


 アルディス。


 メルゼア。


 ロウガン。


 三賢者の封印柱。


 ロウガン柱は半壊している。


 アルディス柱とメルゼア柱には、細い歪みが走っている。


 邪神の影が囁いた。


『あと一年』


 セレスティアは静かに言う。


「はい」


『本当に?』


 影が笑う。


『ロウガン柱は半壊している』


『アルディスとメルゼアも歪んでいる』


『世界は立っていると言うが、いつ崩れるか分からぬ』


『一年あると思うか』


 セレスティアは、神眼で見た。


 封印の線。


 ロウガン柱の半壊。


 アルディス柱の歪み。


 メルゼア柱の歪み。


 確かに危うい。


 残り一年は、安定した一年ではない。


 一つ間違えば、明日にでも削れる。


 邪神の言葉は嘘ではない。


 だからこそ、危険だった。


「一年あると信じて油断はしません」


『なら戻れ』


「戻りません」


『一年など幻想だ』


「だから、一年を使い切るために修行します」


『世界が先に崩れれば』


「地上が対応します」


『また半壊するぞ』


「それでも立つなら、任せます」


『薄情な神だ』


「現世神です」


 セレスティアは、一歩前へ出た。


 黒星を抜く。


 閃白を抜く。


 解白が背で淡く光る。


「あなたは、世界の恐れを使います」


『当然だ』


「わたくしの恐れも使います」


『当然だ』


「ですが、恐れがあることと、恐れに従うことは違います」


 セレスティアは、三振りを神格へ重ねた。


「恐れは持ちます」


「焦りもあります」


「痛みもあります」


「ですが、刃は揺らしません」


 黒星が重く沈む。


 閃白が白く走る。


 解白が糸を伸ばす。


 セレスティアは、邪神の影が作った三柱の幻を斬らなかった。


 支えた。


 黒星でロウガン柱の崩れを押さえる。


 閃白でアルディス柱の歪みを澄ませる。


 解白でメルゼア柱に絡む黒い結び目をほどく。


 そして、終焉は使わない。


 今、終わらせるべきものではないから。


 邪神の影が、わずかに後退した。


『終焉を使わぬか』


「終わらせる場面ではありません」


『剣神なのに』


「支えることも、剣の役目です」


 黒星が深く鳴った。


『主よ。今のはよい』


 閃白が澄んで続ける。


『終焉を使わない判断』


 解白が淡く言う。


『選択精度向上』


 セレスティアは、三柱の幻を見た。


 幻は崩れず、静かに消えた。


 白樹の精霊王の声が響く。


「九年目、邪神影修行、第二段階通過」


 セレスティアは、ゆっくり息を吐いた。


「第二段階ですか」


「そうだ」


「まだ、上回ってはいませんね」


「まだだ」


「ですが」


「近い」


 その言葉は、以前よりもはっきりしていた。


 セレスティアは目を閉じた。


 九年。


 あと一年。


 その一年で届かせる。


 邪神の影は、山頂から一歩退いた。


『次に来る時は、もっと深く触れる』


「はい」


『本体の格へ、さらに近い影を出す』


「承知しています」


『その時、お前が神だけになっていれば呑む』


「なりません」


『地上に引かれすぎれば折る』


「折れません」


『どちらでもないなら』


 影が揺れた。


『その時こそ、測ろう』


 邪神の影は消えた。


 山頂に、白い静けさが戻る。


 セレスティアは、しばらく立っていた。


 それから、黒星と閃白を収めた。


 解白の光も静まる。


 その時、白い光が地上から届いた。


 定期報告だった。


 セレスティアは、山頂に座り、報告を開く。


 白樹の森より、神域の剣神セレスティアへ。


 神域修行開始より、地上時間で九年が経過。


 邪神封印限界まで、残り一年。


 ロウガン柱半壊状態、継続。


 アルディス柱、メルゼア柱、歪みあり。


 地上連合により補強継続。


 海底楔、補強九割完了。


 竜脈調整、全主要系統完了。


 草原備蓄、予定量達成。


 封印杭、各地追加配備。


 七十年前の死者の名の回復作業、継続。


 完全な名、五割に到達。


 役目または場所のみ判明、三割。


 未判明、二割。


 世界は、なお立っています。


 セレスティアは、その一文を見て、小さく笑った。


 世界は、なお立っています。


 揺れながら。


 傷つきながら。


 それでも、立っている。


 ミレーヌの追記があった。


 お姉様へ。


 私は、古記録庫の副責任者を任されました。


 もう少しで、未判明者を二割以下にできます。


 帰ってきたら、褒めてください。


 王妃の追記。


 保存菓子を増やしました。


 ただし、甘いものだけではなく、干し肉も食べなさい。


 ゴルド殿がそう言っています。


 ルシェルの追記。


 神域同化の兆候について、自己判断だけではなく、黒星、閃白、解白の所見も添付してください。


 ゴルドの追記。


 干し肉を残すな。


 酒はまだ駄目だ。


 セレスティアは笑った。


「みんな、本当に変わりませんわね」


 黒星が低く言う。


『変わらぬものがあるから、主は変われる』


 閃白が続ける。


『地上の錨です』


 解白が淡く言う。


『神域同化兆候、現時点なし。帰還意思、安定』


「それは報告に書きます」


 セレスティアは、補給袋を開いた。


 保存菓子。


 干し肉。


 柔らかい豆パン。


 白樹の乾燥果実。


 そして、小さな包みが一つ。


 中には、豆の塩煮を乾燥させたものが入っていた。


 添え書きがある。


 賢者ロウガン・エルドの好物にちなみ、王国記録官たちが再現したものです。


 セレスティアは、その包みをしばらく見つめた。


 ロウガン・エルド。


 三賢者の一柱。


 石工の子。


 圧力結界の天才。


 好物は豆の塩煮。


 字は汚い。


 弟子を叱る時、額を小突く癖があった。


 橋の設計に失敗して川へ落ちたことがある。


 柱ではなく、人。


 役目ではなく、名。


 セレスティアは、乾燥豆を一つ口に入れた。


 塩気があった。


 素朴な味だった。


「ロウガン様は、これが好きだったのですね」


 黒星が低く鳴る。


『名を食すわけではない』


 閃白が静かに続ける。


『ですが、記憶を味わうことはできます』


 解白が淡く言う。


『死者の人性回復、地上で進行中』


 セレスティアは頷いた。


「地上は、本当に立っています」


 その夜。


 神域には夜がない。


 だが、セレスティアはその時間を夜と決めた。


 白い山頂に座り、保存菓子と干し肉とロウガンの豆を食べる。


 それから、返書を書いた。


 神域より、白樹の森へ。


 剣神セレスティア、修行継続中。


 神域修行開始より、地上時間で九年経過を確認しました。


 邪神封印限界まで残り一年であること、確認しました。


 地上がなお立っていることを、心から嬉しく思います。


 邪神の影との修行は、第二段階を通過しました。


 邪神の格へ、以前より深く触れています。


 ただし、まだ上回ってはいません。


 次の段階で、本体の格に近い影と向き合う予定です。


 神域同化の兆候について。


 自己判断ではなし。


 黒星所見、主はまだ地上へ帰る意思あり。


 閃白所見、終焉への酔いなし。


 解白所見、帰還意思安定、過剰責任発生頻度低下、食事継続。


 食事内容。


 保存菓子。


 干し肉。


 柔らかい豆パン。


 白樹の乾燥果実。


 ロウガン・エルド様の好物を再現した豆の塩煮。


 ミレーヌへ。


 副責任者就任、おめでとうございます。


 帰ったら、必ず褒めます。


 お母様へ。


 保存菓子、美味しくいただきました。


 干し肉も食べています。


 ルシェルへ。


 所見を添付しました。


 これで報告様式は満たしているはずです。


 ゴルド親方へ。


 干し肉は残していません。


 酒は飲んでおりません。


 ただし、帰ったら飲みます。


 最後に、一文を加える。


 わたくしは、必ず帰ります。


 返書は、白い光となって地上へ向かった。


 セレスティアは、剣の山の頂で空を見上げた。


 邪神の影は消えている。


 だが、次はもっと深い。


 おそらく、次の段階で、自分は本体に近い格へ触れる。


 そこで呑まれなければ、見えるはずだ。


 邪神を上回る道が。


 黒星が低く言った。


『主よ。休め』


「はい」


 閃白が続ける。


『休むことも修行です』


 解白が淡く言う。


『過剰修行防止』


 セレスティアは苦笑した。


「分かりました」


 剣神セレスティアは、神域の山頂で目を閉じた。


 眠る必要のない身体。


 だが、あえて休む。


 神だけにならないために。


 地上へ帰るために。


 邪神を上回るために。


 神域九年。


 邪神封印限界まで、あと一年。


 剣神セレスティアは、まだ届いていない。


 だが、あと一歩の場所まで来ていた。

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